八月二日
「ん……」
よく眠れた気がする。時計を見ると十時を回っていた。
少しぼおっとした頭で、いつもの“ルーティン”を始める。
「…………」
やっぱり、ね。
実家に帰ってきたくらいで、どうにかなるものではなかった。少しは期待していただけに、やはり落胆する。
まぁ、今落胆したところで、今後困ることはなにもない。そう思うとこれはこれで悪くないかもしれない。
続いて、枕元に置いてあるノートを手に取る。これもいつもの“ルーティン”だ。
八月一日、木曜日。
宝瀬へ帰省する。一ヵ月半ほど帰省予定。
明後日、靖史と夏祭りへ行く約束をする。
昨晩寝る前に書かれた記述は、日記というよりはむしろ予定表だった。いや、実際にはその日に起こったことを書いているので、予定ではないのだけれども。
考えようによっては、これだけ覚えておけば、人は最低限、不自由しないで生きていけるということだ。
ちょうど視線の先にパソコンがあったので、ふと思い立って起動してみた。パソコンの中には以前の日記のデータがあったはずだ。
久々に過去の日記を読んでみたが、それはもうありとあらゆる装飾で埋め尽くされていた。昔の自分は、長ったらしい文章で、だらだらと思いを綴るのが好きだったらしい。そして実際にそうだったんだけれども。
まぁ、昔のことはどうでもいい。とにかく起きよう。
僕はパソコンの電源を切った。
八月の昼下がり。暑いと口にするのはそれだけで暑くなるので嫌いなのだが、それでも暑いものは暑い。
当初の予定は、冷房が程よく効いた部屋でゆっくりするつもりだった。しかし、よりによって今日、電力需要の急増に対応するための緊急工事が行われるとかなんとかで、停電してしまったのだ。
こんな暑い時期に停電を伴う工事だなんてまず考えられない。電力需給が逼迫したのは数年前のことだし、電力を大量に消費する工場を誘致することになったのならば、もう少し前の段階で対応できるはずだ。
いや、それはしかたないということにしても。
どうして昨日の段階でうちの家族は言ってくれないのか。うちの母親はちょっと抜けている人だから仕方ない。問題は靖史君だ。気が利く子だけど、夏祭りに誘うためにもじもじするくらいなら、その前に今日のことを教えてほしかった。
ちなみに漁師であるうちの父親はこの二週間は不在だそうだ。うん。お疲れ様です。
それで、家にいてもしかたがないので、こうやって外をぶらぶら歩いている次第なのである。といっても、全く当てもなくぶらついているわけではなくて、一応目的はある。
「……ふぅ」
目的地の目印――石造りの鳥居がようやく見えてきて、僕は一息ついた。
蓬栄神社(ほうえいじんじゃ)という村名同様ありがたい名前がつけられたこの神社は、このあたりの集落の氏神様を祀っていて、幼い頃から初詣はもちろん、なにかあるごとにこの神社に参拝してきた。それでも僕の家のように熱心にお参りする家はいまや数少なくなったらしく、鬱蒼とした森の中にあるこの神社は、初詣と夏祭りと秋祭りの時を除き、ほとんどひと気がない。
なんとも神主さんが数年前に亡くなり、今は無人になっていて、村の自治会が思い出したときに手入れをしている、という話を聞いたことがある。
深々と一礼して、神社の境内の中へと入る。
大学受験の前にも、ここへお参りした。おかげさまで、無事合格することができた。
故郷を離れて上京するときにも、ここへお参りした。残念ながら、それは効果がなかったみたいだ。
やっぱり村を離れると効果がないのだろうか。でもそれなら、大学にも合格していないはずなんだけど。
十円玉を賽銭箱へと放り込み、鈴を鳴らし、二礼、二拍手、一礼。
…………。
…………。
…………。
わかっているよ。これが単なる気休めだってことくらい。
「ずいぶん熱心にお祈りされてるんですね」
後ろから透き通った声がした。
「気休めなんだけどね」
「そんなこと言うもんじゃないですよ。願い事は叶うんです」
ちゃりんと音がして、続いて鈴の音と拍手の音。そして、しばらくの沈黙。
「何度だって、願えばきっと」
そう言って、にこっとその子は僕に笑いかけた。
大和撫子。僕じゃなくても、この子を見れば百人中九十人はこの四字熟語を思い浮かべるだろう。若竹色の着物を身にまとい、腰まで伸びた緑の黒髪が日の光を受けて輝いている。
「また、会えたね」
まっすぐ見つめてくるその瞳に僕は吸い込まれそうになる。
「う、うん」
無意識のうちにそう答えて、しばらく考えること十数秒。
「って、いやいやいやいや!」
慌てて僕は手を振った。
「いったいあなたはどなたですかっ。僕の知り合いリストの中には、こんな黒髪で色白の大和撫子さんはいないんですけど」
「記憶がいい加減なんじゃないですか」
「えっと、それは大丈夫です。はい、それは」
なぜなら僕の友達は多くないから。って、自分で言ってて悲しくなってきた。
「冗談ですよ。ごめんなさい、変なこと言って」
「いや……」
正直なところ、こんなかわいい女の子に声をかけられて嬉しくないはずがない。さっき目と目があったときは、どきっとした。
軟派な男なら知り合いだということで話を合わせて、そのままお持ち帰りしてしまうのだろうか。でも、残念ながら僕の記憶の中には彼女のような子はいない。そしてもう一つ残念なことに、この過去の記憶は正確なのだ。
「ごめんなさい。ちょっと浮かれてました」
僕の戸惑いに彼女は気付いたのであろう。見る見るうちに彼女の表情がくもっていく。
「いや、よくわかんないけど、落ち込むことはないんじゃないかな。えっと、僕のことを君は知っているの?」
「……そうですね、はい」
こくり、と彼女はうなずく。
「だったらそういうことでいいよ」
「えっ」
僕のその発言が意外だったようで、彼女は目を丸くした。
「でも……」
「僕、あまり人の顔を覚えるのが得意じゃなくってさ。それに、もし小さい頃に出会ったのだったら、印象がずいぶんと変わっているかもしれないし。あとはそうだ……僕にとっては些細なことだったかもしれないけど、君にとっては印象深い出来事が前にあったのかもしれないし」
詭弁だった。そうであってほしいと思うものの、何度頭の中に検索エンジンをめぐらせても、ヒットするような結果は出てこない。
それでも僕は彼女を受け入れることを選んだ。
だって、それは。
どうしてだろう。彼女の暗い表情をこれ以上見たくなかったから。
「あはは、ごめん。やっぱり人違いかな」
「いえ……いえ。そんなことはないです。やはり、あなたは私が知っている人ですよ」
彼女は目元を少し押さえてから、最初に見たときと同じ笑顔をこちらに向けてきた。
「窪田こまちと言います。よかったから話し相手になってくれませんか」
満面の笑みの彼女を見て、僕は少し迷った。やってはいけないことをやってしまった、そんな気がした。
でも、もう引き返せない。僕は自分の意思で選んだのだから。
「君さえよければ喜んで。あ、僕は桜井佳久(よしひさ)。君は知っているかもしれないけど」
「よろしくお願いします」
彼女が差し出してきた右手を僕はぎゅっと握り返した。
「心なしか、今日の兄さん、楽しそうですね」
夕食の場で靖史がぶっきらぼうにこんなことを言ってきた。
「そう? 昨日とそんなに変わらないと思うけど」
「変わってます! 昨日は疲れきった表情をしてましたもん」
「それは長旅で疲れてただけだってば」
我が弟君は変なところで鋭い。
愛ゆえだろうか……考えたら気持ち悪くなってきた。
「それだったら、今日も疲れているはずです。予定外に炎天下に放り出されたら、機嫌が悪くなりません?」
「そう、それだよ、それ! なんで昨日言ってくれなかったのさ」
「明日のことで頭がいっぱいだったので……」
予想通りの回答ではあったけど、顔を赤らめながら言わないでもらいたい。
「まぁ終わったことはもういいけど。それより、なんでこんな時期に電気工事なんかやったわけ?」
「昨日電力会社からかかってきた電話によると、近くの変電所のトラブルらしいです」
「変電所? だったら一気に停電になりそうなのにね」
「僕もよくわかりませんけど、そこまでには至らない程度のものだったようです。ただ放置しておくといずれ大規模停電が発生しかねないということで、今日応急処置をすることになったんですって」
「ふうん」
詳しいことはわからないけど、急な事情であったことは確かなようだ。
「そんなに気になります?」
「ん、いや。今後このようなことがなければいいなと思っただけ」
やっぱり暑いしね。涼しい部屋で過ごせるに越したことはない。
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした……って、兄さん、まだ話は終わってませんよ!」
逃げよう。変に勘ぐられると、後で面倒くさい。
ノートの上にボールペンを走らせる。これが僕の寝る前の“ルーティン”だ。ここ二、三ヶ月ほどの間の話なのだけれど。
「こんなもんか」
周りに誰もいないとわかっていても、確認のためにつぶやく。
くっきりと昼に出会った少女の姿が目の裏に浮かんでくる。「また、会えたね」と語りかけてきた少女。僕と出会って嬉しそうにしていた少女。
彼女は僕のなにを知っているのだろう。
過去の学校のアルバムを全部調べてみたが「窪田こまち」という名前の女の子はいなかった。学年が違う可能性もあったが、先輩、あるいは後輩にそんな名前の子がいた記憶はない。
もしかしたら、ここ二、三ヶ月ほどの間に東京で出会ったというのか。しかしそれも考えにくかった。
僕は彼女の話し相手になることを選んだ。ただ単にそうしたかったからだ。
しかし、今の僕にとってこの選択が正しいのかどうかわからない。感情の赴くままに行動してしまうだなんて、自分にとっては珍しいなと思う。
今の自分にとっても今日の自分の行動を不思議に思うのに。
明日の自分は今日の自分をどう思うのだろう。
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