夏色の未来
九紫かえで
八月一日
人は誰でも幸せになれる。
そうだといいなと僕は思う。みんな、不幸になるよりも幸せになりたいに決まっている。
僕が幸せになることで、他の誰かが幸せになれるとしたら。他の誰かが幸せになることで、僕も幸せになれるとしたら。
みんながみんなそうだったら、きっと今、この世界は幸せで満ちあふれているだろう。人間の能力はとてつもなく高いのだから。
でも。
僕が幸せになることで、他の誰かが不幸になるとしたら。他の誰かが幸せになることで、僕が不幸になるとしたら。
人はそれでも願うのだろうか。幸せになりたい、と。それでも人は言えるのだろうか。誰でも幸せになれる、と。
「それでも、あなたは言ってくれました」
真っ暗でなにも見えない闇の中。
体全体があたたかさに包まれる中。
やわらかで透き通った声だけが聞こえた。
「幸せな未来を君に見せたい、って」
* * *
首都から北へ向かう特急電車は、帰省ラッシュを迎える一週間ほど前とあってか、ほとんど乗客はいなかった。乗り換えた各駅停車の乗客は僕一人だけだった。
『まもなく、宝瀬口、宝瀬口です――』
どうやら一眠りしてしまっていたらしい。降りるべき駅の接近を告げる車内放送を耳にして、僕は読んでいたノートを閉じた。
宝瀬村。他の地方の寒村の例に漏れず過疎化が進む我が故郷は、かつて「日本一幸せな村」と呼ばれていたそうだ。
名前だけがありがたい、ろくな産業もないこの村で、人々はいったいどうやって幸せになったのだろう。僕には想像もつかないが、それは二十一世紀の思考形式に毒されているからなのかもしれない。先進国のような経済力のない小国での国民が幸せそうにしているのは、きっと、先進国の住人の僕達とは違う物差しを持っているからなのだ。
切符を運転手に渡し、無人の駅へと降り立つ。
「あ!」
そういえば、大学でのあるクラスメイトがその国のことを持ち出して「だから日本は不幸なのだ」とわめいていたことを思い出す。でも、その国にも歪みがあってしわ寄せを受けている人々も相当数いるのだということを淡々と指摘したら、翌日から口を聞かれなくなった。
「兄さん!」
まったくもって、忘れたほうがいい思い出だ。
「兄さん! 兄さん! あぁ、兄さん!」
「えぇい。こんなくそ暑い中いきなり抱きつくのはやめなさい」
温度と湿度と不快指数を増やしている物体をなんとか引き離す。
「だって、兄さん無視するから」
「ちょっと考え事してただけ」
「は! まさか、東京にいる女狐のことを考えていたんだ。許せない、僕の兄さんを奪おうとするなんて……って、痛!」
「せめて外ではそのキャラやめてくれって言ってんのに!」
弟が狂おしいほど兄のことが好きなんてどうかしてる。半年間距離を置くことで、沈静化するどころか、悪化してしまったようだ。
「ついでに言っておくけど、女の友達なんていないから」
弟――靖史(やすし)の顔がぱぁと赤くなる。気持ち悪いからやめて、ほんと。
「それよりバスの時間は大丈夫なのか? 僕としては一刻も早く冷房が効いた家でゆっくりしたいわけだけど」
「はい。今から十分後です」
「ちょうどいい塩梅だ。それじゃ、行きますか」
「はい! あの、それで兄さん、手をつな」
「ぎません」
靖史がこの夏、なにを期待しているかはわからない。わかりたくないし、わかるつもりもない。
とにかく、僕は故郷での夏を平穏に乗り越えられたらそれでいい。ひと夏の思い出だなんて、贅沢を言える立場じゃない。
つまらないよりかは、楽しいほうがずっといいけれども。
「なんだか疲れた顔をしていますね、兄さん」
「五時間も電車に乗り続けたらね」
「いや、そういうことではなくて」
「ヤスは余計な心配しなくていいの」
後ろを歩く靖史のほうへと振り向くことなく、僕は歩みを速めた。
この子に感づかれると後々面倒だから。
家に着くころにはもう日が沈みかけていた。久々の一家での夕食を適当に済ませ、僕は五ヶ月ぶりの我が部屋で大の字になって寝そべった。
うん。やはり、自分の家は落ち着く。この部屋こそが僕の城。今まで四ヶ月間、そしてこれから四年間住むことになる東京の部屋は所詮は仮の城だ。
思えば、僕はホームシックにかかっていたのだろうか。もし大学だけがこの家の近くにあるか、もしくはこの家が東京の大学の近くにあったとしたら、僕はあんなことにはならなかったのだろうか。
(まぁ、仮定の話をしてもしかたないか)
さて、これからどうしたもんかね。途方にくれ始めたところで、部屋の扉が叩かれた。
「兄さん。お風呂空きましたよ」
「ん。ヤスが最後だよね」
「はい。兄さんは長旅で疲れているでしょうから、先に入ってください」
「さんきゅ」
こうやって会話している分には、兄思いの気が利く良い弟なんだけどなあ。
「それで、あの、兄さん」
だから、なぜそこでもじもじしだすんだ、君は。
「明日どこかに行きたいってのはパスな。明日は一日家でグータラする」
「いえ、明日は僕は部活があるんで。明後日なんです」
「明後日は……えっと土曜日か。夏祭りにでも行きたいってか」
「さすが僕の兄さん! すごい記憶力ですね」
言ってから僕は後悔した。
「そ、そりゃ毎年行ってたからな」
「そうです。僕とのひと夏の思」
「うるさいわ」
久々に会った同級生の女の子から、夏祭りに誘われたというのなら、テンションは上がるだろう。僕も一人前の男子なので。
百歩譲って、姉か妹でもいい。僕にはそんな趣味はないけど、それでもまだいい。
とにかく、弟よりは。
「それで、明後日は客として行くの? それとも手伝いに駆り出されるの?」
「僕は自治会の設営のお手伝いにいこうと思っていますけど、兄さんはゆっくりしていただいてかまいません。ただ、夜に僕と二人で回ってくれればいいので」
「ん。わかった。まぁせいぜい頑張ってくれたまい」
「ありがとうございます。約束ですよ。絶対ですよ。突然女の子連れてきてキャンセルとかなしですからね!」
毎年言われてる気がするなあ。夏祭りってそこまで必死になるものなのだろうか。
「だから、そんな子はいないっての。ヤスが一番知ってるだろ」
「わかりません。兄さんほどの人がどうしてモテないのか」
「気持ち悪い弟がまとわりついているからじゃない?」
「だったらいいんですけど……」
「よくねーよ」
軽く靖史の頭を叩く。靖史がボケて僕が突っ込むという構図が、少し前まで当たり前にあった日々を思い出させて、思わず顔がほころびそうになる。そんなことを靖史に言ったら調子に乗るから、絶対に言わないけど。
「って、明日部活なんだろ? とっとと風呂入るな」
「あ、はい。別にゆっくりしていただいてもかまいませんよ」
「ん。少々長湯させてもらうな」
風呂へ行く準備を始めると同時に、靖史も部屋を後にしようとした……ところで立ち止まり、もう一度僕のほうへと振り返った。
「兄さん。最後にもう一つだけ」
「なに?」
「……お帰りなさい、兄さん」
「……ただいま」
僕は帰ってきたんだ。生まれ故郷に。
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