第20話
中学からの同級生の加田恭と高校に入ってから話したのは、この日が初めてだったんじゃないだろうか。春休みで、数日前は真冬かよな寒さだったのに、その日は陽射しを浴びて動いていると軽く汗ばむくらいに暖かかった。
部活帰り遠回りになる脇道を敢えて選んだのは、駅からそこまでの道のりで、捻挫した足で漕ぐため安定を欠く自転車が微妙に通行の妨げになっていると思ったからだ。そこで加田と会ったのは本当に偶然で、自転車だといくらゆっくりでも追いつくから声を掛けた。中学で片町
尤も加田に言わせれば交流の記憶の大半は゛俺の免疫゛をカタる奴との行動を元に捏造されたものらしいのだが、諸々を聞いても、変則二人羽織感な記憶はあったから全くのデタラメではないと思うものの、自分の事という実感が希薄すぎた。
―――昨晩、その唯一それらを信じるに足るよすがだった感覚が不意に甦った。パニックから然程間を置かず事態を把握できたのは、その経験あってだろう。ともあれそれでもその時全てを理解できたわけでなく、翻弄されたせいか体の酷使の為かで、帰宅するなり倒れるように爆睡してしまい、準備でバタついてメイクがまだと渋る姉貴を拝み倒して車で学校まで送ってもらう羽目になった翌朝、事情を聴くべく即行で加田を捕まえようとしたのだが、生憎まだ来てないようだった。
(そういやツアーやってるんだっけ)
でも物川は教室にいる。トイレにでも行ってるのかとジリジリと待っていたが、担任と同時に教室に入ったらしく、おまけに1限目は担任で、続き授業を始めると職員室に戻らず、授業が終わって振り向くと、加田はもういなかった。
―――で、2限の授業中だった。どういうきっかけだかは不明だが、ふとした瞬間にはもう、黙々とノートに板書を書き写す自分を、だが己の意思では指先一つ動かせなくなって傍観する自分がいた。状態としては引いて水面下か膜内からといった感じだが見えるし聞こえ、嗅覚も大丈夫っぽい。ただ動けず喋れない。
全てが昨日と同じだった。
(もうこれ疑いようもないよな――…)
自分の中に例の爪がある――そう結論づけるよりなさそうだった。おそらく昨晩のは゛爪崩し゛というやつで、いま俺を押しのけて出張ってる奴は自称俺の免疫だ。深々と嘆息したつもりだったが、勿論体の主導権を奪っている方は溜息なんかしなかった。
(けどあのとき切って解決したよな、それに爪全然フツーだった…し?)
あの特殊な爪のせいでこの状況なら、加田の親指の爪は長く伸びているうえ、ミニ欄間の如き彫りが入って目立ちまくりだ――…
(いやどうなってたっけ?)
記憶を手繰ってみるがよく思い出せない。
それもその筈で、後日聞けば加田はあっという間に伸びる爪の切り忘れを周囲から隠すテクニックが、何となく身についてしまっているのだと言う。ある時しれっとツアースタッフの作業は初日から軍手でやってたよ、と言っていた。――ともあれこの時は、少なくとも長くはなかった、という自分の記憶を信じることにした。それに何かあれば加田ならすぐに―――
(いや聞いてないし、)
ゾワッとしたものが押し寄せかけて、慌てて冷静になれと自身に念じる。
(爪刺さってる間は聞く耳もたなかったって、言ってたもんな)
だから前同様、黙っているのかもしれない。
ただこれとはまた別だが、いまみたく変則二人羽織(と俺は勝手に命名してる)になっている間のことはごく普通に゛おかしな記憶゛として自分には残っているようだ。不測の事態だったからかもしれないと加田は言っていた。
(…でもってこいつ、いまこうなってること気づいてないんじゃないか?)
さっきから薄々感じていた。こいつはこの状態を察知出来たり出来なかったりするようで、今は多分、後者だと思う。昨晩もおそらく―――なぜならコイツからは余裕を感じる。僅かなら些細なこととして見逃すかもしれないが、昨日も含めさっきからもう長時間、俺の意識は復活したままで、もし自分がコイツの立場ならそれに気づけば焦らないわけがなく、その時点で即何らかの対策をしなければと色々と仕掛けるだろう。
――だがコイツにそんな様子は微塵も感じられぬばかりか、むしろノートを取る方に熱中してるようにさえ見える。
(――…長時間っていえば爪切れた日もか…)
そういえばその日は目が覚めてからずっとだった。ただあの時はギリな状況で俺もコイツもかなり苦しかったりだったから、こっちの覚醒に気づいたとしてもどうにかしたり、言及する余裕もなかっただろう。だが今はどう比べてみても危機的状況ではなく、充分気づけると思うのだが――…何はともあれ、加田に事情を聞くのが一番だ、……けど俺が聞く耳持たなかったら…?
(いやいまそんなこと考えてもしょうがない)
とにかくまずこの状況から脱することだ。何よりこの状態はストレス半端なく、じわりとフラストレーションも溜まってゆく。しかも今日は落ち着いて周囲や己を捉えられる分、メンタル的によりエグいことになりかかっている―――あまり認めたくはないが相手が自称守護者でもあるからか、不思議とこのままかもといった危機感は希薄だ、だがこの閉塞感に得体の知れぬシェア相手といいともすれば虫唾が走り、叫び出しそうになる。
―――いつしか高齢者施設でのボランティアを思い出していた。
納涼祭の屋台で飲み物を売る手伝いをしていたのだが、車イスなだけでなく何をするにも介助が要るお年寄りが割といた。大変だな周りはとあのとき思ったが、いざ自分が体を動かせない側に置かれると、当人が一番しんどくてもどかしいのだと分かる。
(長くは無理だ。どうにかしてこいつを押しのける方法を――うわどんなだよ…)
動かせない四肢の代わりにまず耳目に意識を集中させてみようと凝らした目に入った、板書を写すノートに小学生レベルの誤字を見つける。最近妙な書き違えが多いと思っていたらこいつのせいだったのだ―――……
(…それって今とか昨日の夜だけじゃなくて、既に何度も学校で入れ替わってるってことにならないか?)
―――そうだった、コイツとの入れ替わりは加田を視認することで起きる。同じクラスなら容易に視界入りまくりだ――。
(あ、もしかして朝からやたら擦れ違うのって、加田が俺と顔合わさないようにしてるからか?)
ツアースタッフやってるのももしかして、―――振り返れば思い当たる点は他にもあった、休みの終わりの電話だ。『声聞けた方がいいと思ってさ――その後調子どう』とかって、
(わざわざ声聞いてまで様子確かめようって、いかにもなんかありそうだろ)
『春休み明けからさ、少しキャラ変した?』
『ああアレだろ藍沢の――』
不意に伊出らとの会話が甦る。
(いやいや無いだろ)
登校する加田を見つけて下降りてって、別に変じゃないだろ、沢サン驚き過ぎなんだよ、だから伊出が真に受けて―――冷汗が腋を伝ってゆく、気がした。体感を伴わないのは縋るものがないのと似ている。
(落ち着け、)
藍沢は単に心配しただけだろう。沢サンはそういう人だ。
(落ち着けって)
だが伊出は悪い奴じゃないが喋りで自説を語りたがる癖がある。席も近い。今も変に思って見て(いや、席は替わったんだよな)だとしても油断は出来ない、新学年とかマジメに、もし本当なジブンがバレタラ――
動揺で僅かに震えた指先のピリッとした痙攣を、今度は感じた気がした―――いやいま確かにあった。
咄嗟に体を捩ろうとしたが変わらず秒すら動かない。身体の感覚に意識を集中しようとするといきなり周囲が暗闇になってびっくりした。ややあって無意識に目を閉じようとした為かと見当をつけ目を開くイメージをしてみたが、どうやっても暗がりのままなので、代わりに伸ばす腕をイメージする。何の寄る辺も無いのではとこうしてみたが、更にその腕に力を込めようとしてもそもそも想像力が貧困なのか、仮想の腕は弱々しく空を掻くのみで、だが諦めかけたそのとき、指先に硬質な切っ先に触れたのと似た痛みを微かに感じた。
(爪――)
急に差し込んだクリアな光の眩しさに目を細める。板書の音と教師の声も明確に聞こえだし、次に紙を走るシャーペンの音がノイズのように周囲から立ち上ってきた。一斉にページの捲られる音がしたので追うように教科書の端を抓む――それが出来て漸く息を呑む、
(―――戻った)
脱力と共に全身ドッと汗をかく。だがそれも束の間思わず教室内を見回した視界の端で加田を掠めてしまった。
(ヤバッ)
弛緩した体がギクリとする。がいくら経っても何も起こらない。
(一瞬だったからか?)
とにかく助かったと胸を撫で下ろし、間もなく終わった授業の直後を、加田が教室を出るまで疲れた態で机に突っ伏しやり過ごした。
周囲に耳を澄ませ、もう大丈夫かと恐る恐る顔を上げる。ところへ教壇にいた担任と目が合い手招きされた、他クラスの授業を終え教室に立ち寄ったらしい。
「席を替わってるようだけど」
一瞬何のことかと思ったが、すぐにああとなった。
「はい、」
スマホの見過ぎか黒板の字が見えづらくなっていて、前の方だった加田と替わってもらった。忘れてるなと思ったが、白髪まじりの担任は首を傾げた。
「うーん…聞いてないよ、加田君からも」
「え?」
昨日確かに自分が承諾を取りに行き、加田に伝えて――、
「どうした?」
「いえ、すみません…」
「まあその理由でなら構わないが、言うようにね」
「あの、俺本当に言ってませんか」
我ながら狼狽えた声に訝しげな表情を浮かべた担任だが、
「うん、聞いてないねぇ」
と再度首をひねった。
(記憶が――)
立ち尽くしそうに凍る足を強いて動かして教室を出る。人気のない場所まで来ると膝から力が抜けそうになり、咄嗟に両手を添え支えそのまま暫くじっと無機質な校舎の床を睨んでいると、じき体を起こせるくらいには力が戻ってきた。
(記憶いじられるって、こういうこと―――)
スマホ使うようになってから視力落ちたなと周囲に零してはいたが、それだけだ。片目ずつ覆ってみても、席を変わるほどの見え難さはない。前の席を望む趣味もなく、理由があるとすれば加田を視界から外すため、つまり入れ替わった際アイツが企てたこととしか思えない。そのうえで自分には矛盾が起きないよう調整された記憶が上書きされた。゛こういうことになっている゛というのは聞いてはいた。だが今日までどうしても他人事、自分とはどこか乖離しているとしか捉えきれなかった。それがどういうわけか今はどうしようもなく自分事になっている。何度か味わっている変則二人羽織の方がよほどまし……
(―――ああでもそれはそれで結構不安だったっけか…?)
やけに気になって加田に問い質したりした…っけ?――そうだ。けど後日訳が分かったら落ち着いた。だからさっきもある程度は持ち堪えられたのだ。でもこれは、人生の一部を捥ぎ取られる恐怖は半端なく、今後も慣れそうにないくらいな衝撃だった。
(―――に、して、も、だ、、俺の偽物うっかりし過ぎてやしないかクソバカかよ)
無理くり悪態でも吐かねばやっていられない。記憶だけいじって肝心の実行を忘れている、こんな凡ミスしてどうするよと実際唸りたくなってもいた。溜息を吐き何気なく見下ろしたグラウンドに体操着の集団が三々五々といった感じで繰り出して来る。ふざけて笑い合っているグループから、予鈴に紛れ聞こえない筈の声が脳裏に響いた。
『だぁかぁら、偶然だって、コンクリも把手も老朽化に当たり所だって柔軟言ってた――』
(昨日の体育…―――な、わけ無いじゃん、そうかあん時も)
組も同じで同じ守備ならやっぱり避けようがない。であいつは、ここでも力加減をしくじるというミスをしでかした。ゴール前から距離のある水飲み場まで、コンクリを砕いたりする威力でボールを蹴るなど到底無理なことくらい、己が一番分かっている。どう考えたって有り得ない。
なのにあのとき自分はそこに思い至りもせず、本当に偶然だとしか思わなかった。そんな風に記憶を、というより思考を制御されていた感じだ――。深呼吸するが肺に上手く空気が入らない。俺の一部だというなら俺の学校生活を乱す真似をするわけない、なのにこの散々な有様はどうだ。
(そうか、)
必死に否定したのにと、また苦く気づく。
伊出はおそらく、『わざとらしいくらい岸崎になる感じ』な演技になっている、藍沢はどういう理由か知らないが『険しい顔』の、おそらくほぼまんまな、加田の表現は控え目だったがまとめるとかなり尊大らしい性格の、あいつに会ったのに違いない。
(――…勘弁してくれよ――)
ホントにいつからどれくらい、学校でアイツが俺の振りをしてるのか、考えるだけで呼吸が更に浅く速くなってゆく。
「――戻らなきゃ…」
鳴り始めた本鈴に押され、さっきから感覚の乏しいままの足を踏みしめるように運んで教室へと引き返す。いる筈の生徒が見えなければちょっとした騒ぎになるような規模の学校で、授業をすっぽかすなどもっての外、
(―――どういうことだ?)
廊下の角を曲がったところで加田と出くわした。正確には教室に滑り込もうとするその背が目に入ったのだが何も起きない。2度目だ、しかもはっきりと。
(全然大丈夫じゃん)
聞いた話と違う。でも加田は明らかに自分との接触を避けていて…前の入り口を選んで教室に入り、微妙なカニ歩きで席に向かいながら考える。よく分からないが少なくとも昨晩から、正常でないことが色々と起きているようだ。これもその内ならば、
(直で話せるかもだよな)
ふと思う。
(可能性があるなら賭けてみたい)
乏しかった実感が完全に我がことになった今、すべてが終わってから実は、などど聞かされるのはやり切れない。授業が始まり広げたノートの真っさらなページを睨んで決意を刻む。
―――とはいえ、込み入った話になるのは避けられないだろうし、これ以上誰かにアイツ状態を見られたくはないから顔を合わせるのは校内じゃない方がよく、となると放課後まで待つしかなさそうだった。
(急がば回れか…――)
焦りがないわけではないが、ツアー活動で加田はどうせ午後からしか摑まらない。しかも昨日はネタバレしたとかで昼過ぎからも―――声が出そうになり慌てて咳で誤魔化した。加田が自分から逃げているなら、アイツのフリでないと呼び出しには応じないだろうことに気づいたのだ。
(フリったってな…)
例えばあの小学生並みの誤字脱字を真似してLINEして、加田がすんなり来るだろうか?
(…――それにこれで入れ替わったら完全に詰みか)
メッセージが偽物なのはすぐバレる。つまり俺が゛気づいている゛ことも同時にバレる。そうなればアイツは即座に記憶を修正してくるだろう。おそらくより念入りに、変則羽織の記憶もどうなるか分からない―――ただ、諦めてスマホなどを使って会話や文面のみにしたとしても、そもそも自分自身が゛話を信じようとしない゛というリスクは残るままだ。
だったらやはり、賭けるなら対面だという気分が勝った。
(あ、そーだ)
学校の外なら恰好の場所があることを思い出す。ついでにもうひとつ妙案が閃いたがこっちはまあ、ささやかな意趣返しだ。
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