第16話
ぐる、と視界が回った気がした。
「オイッ」
微かな気持ち悪さを伴う浮遊感と同時に、一瞬意識が寸断された、と思った時には体を強く掴まれていた。
コンクリートに叩きつけられる寸前に匡直が支えてくれたのだが、その状況が自分ではよく分からない。目を開けていると景色がぐるり、ぐるりと回り続けて吐き気がするので恭は片手で顔を覆った。
「おい!加田、加田!!――あ、そこの人ちょっと養護の先生呼んで来てくれる、具合悪いみたいで」
語調と声音が変わった、いきなりトーンが数段上がっている。
また入れ替わったようだ。
呼び掛けに応じたのは女子グループだったらしい。
2、3人の声が分散し、上履の軽い音が遠ざかったり近づいたりする内に恭は生涯初、気を失った。
「つまりこの力は自分と爪、双方で補い合って使うものだったんだって、納得したっていうか、頭の隅では気づいてたのかもしれないけど…」
これ迄もそれを無意識に、自分はやってのけていたのだろう。だから彫爪が劣化しても、力の質を維持出来ていた。
「互いに補い合うものを離し過ぎたところへ岸崎が来て、従えようと、爪無しで何度も力を放出したから昏倒する羽目になった。そんなところか、爪だけが力の源泉とは思ってなかったが――割と凄かったんだな、お前」
放課後、その後は無事に岸崎のままだったらしい匡直が、プリント片手に来て言った。
――そう長い間ではなく意識を取り戻した恭は、駆け付けた養護教諭に早退を希望した。彫爪が関わっていると悟ったからだが、実際気持ちの悪さは残っていたし、バスの時間まで保健室で休んで、5限の対面式が始まった頃下校していた。
「あのね…」
結構な言い草だ。だが意識を失う間際、体の奥底で感じた正体不明の乱雑な淀みがあって、これが爪を使う為のものだと感じ、漠然とだが、彫爪なしにこれの制御は難しそうだと思ったことを明かすと、匡直は体の内のことだからか、曖昧な話にも関わらず分かったように頷いて、だったらとすぐに結論を出した。
「爪は肌身から離すわけにはいかないだろう。どちらにしろ一々倒れられたらかなわない」
「だよな…仮説完全に外れだ。俺学校休もうか、半分くらい親バレしてるし、頼めば2、3日くらいOKと思うけど」
母は学校からの連絡でさっき一度帰って来たが、それより先にメールで、寝不足でちょっと具合が悪くなっただけで、爪のことで仕込みがあるからついでに早退したと伝えてあった。
「まあ、いいけど?」という返事な上、「もし他も休むんだったら早目にね」と言われさすが話の分かる母親だと思っていたら、「これで皆勤逃したね」とニヤリとした。
「ア―――ッッ」
俺の取柄がと
……それはさておき、匡直の返答はこうだった。
「いや、その選択肢はギリギリまで取っておきたい。それに、仮説なら完全に外れとは言えない。――昨日、お前のとこから帰る際分かったことだ。どちらの影響かは定かでないが、力の及ぶ範囲がかなり
「…そうなのか?でもやっぱり、学校で7、8時間ロスって痛いだろ」
思いつきで概算したところ、3日に渡る出来事も50時間ほどのことで、匡直がいたのはその半分弱だが、爪劣化に費やした時間は僅かだ。単に匡直として居るだけでは、岸崎の負担が増えるばかりだと、もう少し早く分かっていれば――その後悔が恭にはあった。
「かもな、だが学校で何も出来ないと決まったわけじゃない、それに少しだがロスを減らす策もある。何より、」
何より、に匡直は妙に力を込めた。
「クラスでの立ち位置が決まるこの時期に、今朝はセットで悪目立ち、そこへ持ってきて翌日から当の片方が休むのはリスクだ」
「今朝??セットって…ああ、あれか?」
登校時のことを言っているのだと、漸く分かる。
「あれ殆どそっちだろ、それに欠席がリスクって…意味がよく分かんないんだけど」
「声を掛けてきたあれは、岸崎の友人の一人だ。もし揉め事と誤解されたままなら、変に勘繰られる可能性もある」
「―――ケンカが原因で、一方が休んだんじゃないかって、思われるってこと?」
ますます分からないが、紛れもなく話はおかしな方へ向かっている。――結果、匡直に声を掛けてしまった相手は相当な困惑顔だったから、あいつ様子が変だった、くらいは他で話すかもしれないが、その発想はあまりに飛躍し過ぎだ。
「無いだろ、もし俺が休んだら、昨日早退してたからって思うのが普通だし、万一揉め事でって取られても違うって言えばいいんだし―――あ、別に俺休みたいとかじゃないからな?匡直が大丈夫だって判断なら異論はない。たださ、その理由はかなり考え過ぎだと思うぞ、むしろこじつけ的っていうか―――……えーと、ひょっとしてさ……」
「学校に行ってみたいとか、フザケた理由は無い」
言下に否定されたが、最初に会った日のことを思い出したのは、自分だけではなかったかもしれない。
「じゃあ――噂好きのちょっと困った奴だからとか」
そんな風には見えなかったし、それだと休もうが休むまいが関係ない。
「いずれにしろこれは、岸崎の意向に適ったものだ」
問いには答えず、淡々として匡直は言う。
「待て待てッ、意向の拡大解釈してないかお前、岸崎いい奴だし好かれてるだろ?あれしきでどんな不利益被るんだよ」
「俺は役目通りに動いている」
淡々どころでなく、もはや頑迷ですらある。――クラスでのポジション的なものは、誰しも無頓着ではいられないので、新学期早々躓きたくないのは理解できる。できるが匡直のは明らかに過剰だ。いくらなんでも過保護だろと突っ込もうとした恭だったが、ふと言いとどまった。
新しいクラスメイトらとの会話の中で、岸崎は埋没も出過ぎもないよう、慎重にバランスを取っていた風に見えた。無論気のせいかもしれないが、匡直のこだわりようがそれを裏付けていそうでもあり、ならば持ち前に見えた岸崎のコミュ力も、実は結構な努力で得たものかもしれず、であれば意を酌んだと匡直が言い張るのも、本当かもしれない、などと思ってしまったのだ。
もっと言えば匡直のこだわりから、岸崎の中に何か確固たる心組みを感じたというのは、言い過ぎだろうか。――恭にも心組みというほどではないが、自身で作った決め事がある。いつかの、どうということもない母との会話がきっかけだ。
『場に応じて予め、自分はこうと態度を決めとくの、そしたら相手の反応に一々振り回されたりしないでしょう。ま、いつも上手くいくとは限らないけどね』
人付き合いに関してはドライに見える母が、そんな風に考えていたことは驚きで、自分も何か、こんな決まりを作ってみようと思い立った。あれこれ作ってみたものの、残ったのは、ほんのささやかなものだったのだが――。
「……どっちにしろ、考え過ぎだって俺は思うけど、とにかく分かった。片方が休むってのは最終手段として、でも岸崎やんなきゃだろ、大丈夫なのか?俺だって常にフォローは出来ないし」
「問題ない。フォローも必要ない、それよりこれに参加しろ」
匡直は慣れた手つきでスマホを操り、画面を恭に向けた。
「【新入生限定学内名所案内ツアー・スタッフ急募】?」
見覚えあると思ったら、学校掲示板のポスターを写したものだった。
「1年の時にあったろう、あったんだよ、それを復活させたそうだ。もう始まってるがまだスタッフ募集中だ」
更にスマホを操ると、再び画面を向ける。
「代表者のLINEIDを聞いた。話は通してあるから連絡しろ、活動は1週間、期間中ほぼ休憩毎に準備や調整で集まるというから、教室にいなくても不自然はない。僅かだがその間岸崎に戻ってロスを減らせる。渡りに舟だ」
有無を言わさず連絡を入れさせられた恭が、幾つか質問を受け確認事項に同意の上、その場で無事採用されるのを見届けてから、匡直は今日は塾だと帰って行った。
あ、加田君おはよ、具合どう?ホントに平気?」
「もう、全然」
翌朝、よかったら少し早目に来てと言われて、普段より2本早いバスで登校した恭は、代表の
「前回の発起メンバーが、参加した新入生にちょっとグレーな勧誘メールを撒いちゃったのね、それで途中で中止になっちゃって、去年もなくって」
「全然知らなかった。参加者とスタッフメンバーのID等の交換禁止って、それで?」
昨日LINEで見た『活動内容と決まり』にあった。
「えっとね、それもだけど、あくまでテーマは新入生同士が知り合うきっかけ作りだから。ツアー毎にチケット作って手配りするのも、参加迷ってそうな子に来て欲しいから」
ツアーは1週間で計4回。昼休みの15分程度を所要時間とし、原則個人での参加1回限りとする。チケットは前日の休憩時間、メンバーで手分けして1年の教室に訪れ、1人1人に手渡しする。今日ある1回目分は昨日配られ、今のとこ参加者は15人くらいだそうだ。増えれば次回に移ってもらう。
「私も迷ってた口で、けどおいでよってチケットくれる度に言ってもらえたから、参加出来たんだ」
「そうなの?」
「うん。私入学したとき知り合いゼロで、引っ込み思案だしこのままじゃぼっちだーって焦ってたのね、でもツアーがきっかけで友達出来て、学校にも馴染めたの。だから中止残念で、誰か復活させないかなーって思ってたんだけど、誰もいないまま新入生入って来るーって時期になっちゃって、それなら自分でやるしかないって」
1人で学校に掛け合ったと知るや友達が加わってくれ、どうにか許可が下りたのが春休み直前だった。それもあって周知が上手くいかず、人が足りなくってと昨日教室で話していたら、
「岸崎君が、加田君興味あるけど迷ってたって教えてくれてね」
「へえ……」
元引っ込み思案を微塵も感じさせず、明るく笑う物川さんに、恭は曖昧に返事を濁した。
(爪より
自分が帰った後のことだ。岸崎に対し、何かしら匡直がやらかしていたのは間違いない。
「大丈夫だよ。メンバー皆いい人だし安心して、あ、けど1限後に受付ボード回収したら、昼までに参加者のグループ分けと仕掛け準備でしょ、あんまり休憩取れなくて大変かもだけど」
「それは全然。えーと、よろしくお願い、します」
不安だと勘違いされたらしい、励まされ激しく心が痛む。
「あははやめてー、同クラでしょ」
「早う」
「あ、岸崎」
「声したからさ、今日から?よかったじゃん」
「岸崎君おはよー、昨日はありがとね加田君紹介してくれて、あ、やっぱ岸崎君も加わる?」
「いやムリだし、けど上手くいくといいな」
「うん、頑張るね」
「加田も、じゃあとでな」
「!!?ッ」
自称免疫の一形態などという、胡散臭さの固まりである匡直だが、そのキャパシティーたるやを心底味わったのは、実はこの日が初めてだったかもしれない。
「エッどうしたの」
物川さんは驚いて、突然目を剥いた恭と、岸崎が顔を覗かせていた戸口とを交互に見返した。
どうあっても彼の者の正体を確かめずにはおれない、という衝動に駆られた恭だが、物川さんの予告通り休み時間毎に打ち合わせや準備に走り回り、次に匡直と接したのは5限後だった。
「お疲れー、どうだった」
イスの背もたれに体を預け、一息つく恭の机の上に肘を乗っけ、しゃがんだ岸崎が聞いてきた。
「…なんとか」
他のメンバーも中途入りの恭を温かく迎えてくれ、雰囲気もとてもよかった。ただ小道具以外にも力仕事必須な大道具が後から山程出て来て、人手が欲しかった理由はこれかと、大いに納得したものだ。
「ははは、大変だったな、でサプライズ俺らん時と一緒?」
実は名所案内というのは名目かつ仕掛けのひとつで、ラストのサプライズこそ見せ場であり目的なのだ。
「ええと…俺は前のは知らないけど、違うってさ」
当時のメンバー1人を探し出し、復活の許可をお願いしたのが偶々企画考案者で、前と同じじゃ何だからと、新しいものを幾つか提案してくれたのだそうだ。
「新しいのか、見てみてェな」
脇に立つ
「物川さんあと2、3人、人手がいたらって言ってたよ、それだったら見れるし」
「うーん、裏方じゃなくリアルに楽しみたい派なんだよね、そういやあん時の岸崎が言ったセリフ、俺未だに信じらんねーわ」
「―――なに?」
「いやいや忘れたフリとか無くね」
「―――」
恭は本日2度目の恐慌状態に陥る。今この瞬間まで喋っている相手は岸崎と、疑いもしなかった。しかしこの偽岸崎は、立ち居振舞いから言葉遣いまで、上辺を完璧に装ってる分内面が脆かったのか、一旦言葉に詰まると最悪だった。匡直がチラと恭を盗み見るが、こっちはこっちでパニックの
「………」
つもりだったのだが、なぜか更なる微妙な間を生んでしまった。
「あれ?違ったっけか、教室移動…」
匡直が大げさに脱力した。
「加田ぁ、俺ら今移動して来たばっかだから」
「大丈夫かー?さては相当お疲れだな」
期せずしてボケた恭の発言で笑いが起こり、何とか事は、うやむやに納まった。
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