第10話

「母さんお帰り――?」

 新学期の前の晩、帰宅した母が台所のテーブルに真っ先に置いたのは、白い爪受けカバー付きの爪切りだった。沸騰したお湯に入れたばかりのモヤシをつついていた恭は、菜箸を持ったまま振り向いて瞬きする。

「玄関に落ちてたの、隅っこの、ブーツの影に隠れてた」

「玄――あ、ごめん俺だ、玄関で使って片付けるの忘れてた」

 彫爪を切った時のだ、そういえばあの後どうしたか記憶になかった。 

「なんだ」

 祖母の指南まで至る所にあった爪切りは、当然玄関にも常備してあったから、何の疑問も持たれない。上着を脱ぐ母が背を向け、恭は置かれた爪切りを取り上げた。

「え?」

「どうかした」

 いや別にと答えて、恭は胸ポケットに爪切りを慎重に落とした。


 夕食後、自分はあとにすると恭は母に風呂を勧め、その隙にまず台所のテーブルから廊下、玄関まで暗いとこはスマホライトで照らし、隈なくしゃがんでは見て回った。

「無いよな……」

 玄関でかがめていた腰を伸ばしつつ呟く。親子してマメに掃除する方でなく、春休み中、母より余程家にいた自分はだが、ここ数日ホウキすら手にしない。念のため中身をさらってみようと、爪切り入れの引き出しを抜きに奥へ戻る。記憶違いでちゃんと元に戻したかもしれない。

 ちなみに加田家では、ニッパー型など種類も様々に爪切りが20コ以上ある。失くしたり、切り忘れて外で買ったり、貰った高級品も含め、いつの間にかここ迄増えた。自分にとっては毎日の必須アイテムだが、家中至る所にし過ぎたため、呆れ果てた祖母がこの引き出しと場所を定め、以降使ったら戻す、を恭と母に徹底させた。

 ――あの時も、ここから1つをつかんだ。ごく普通の形で、一時よく使っていたから、無意識に選んだのだろう。刃のついた側の柄全体を覆うカバーが、切れ端の散るのを防ぎ、切った爪片を中に収める。――母が帰ってきて見つけたそれを取り上げたさっき、刃の隙間から爪の切れ端が覗いて見えた。自分の部屋で逆さに振ってみると、彫爪の欠片が2コ落ちてきて、恭は呆然としたのである。

「無理に切ったから――、だよな…」

 彫爪は劣化で崩れる他、切り離しても霧散する。木はそうだが、岸崎で出来た彫爪は切ることが出来なかった。それを無理に切ったから、形のまま残っている――原因らしきは他に思い浮かばない。

 机の上に転がった欠片2コを、恭は観察した。 

 5ミリ四方くらいのが1欠、それより1回り大きいのとだが、切る間際、残る彫爪は半分強で、2コを合わせるまでもなく、欠片が足りないと分かる。

「―――え⁉」

 爪切りの中にまだ引っ掛かってないかと、向きを変えつつ、カバーを外せないか見ているうち、恭はもっととんでもないことに気づいた。刃の少し下に、爪切りの2本の柄を接合させる金属棒があったのだ。慌てて右親指の爪を刃に挟む。

 直前に残っていた彫爪の長さを考えると、目一杯押し込んだとしても、指先のきわまで届いたとは思えない。更にいま試してみたところ、親指の爪幅でも納まる大型サイズの爪切りだが、形状上、たとえ指先まで刃がいっても、爪の両端が微妙にみ出る――つまり一度刃を入れただけでは、彫爪全て、切り落とすことは不可能だったのだ。

 ――の筈なのに、左親指の爪は切り揃えたように、指先に添った形に整っている。ただ断面を触ると、僅かに不揃いな、ザラつく感触が指に残り、゛切って整えた゛わけではないからだと気づく。手元にある欠片は、形と、早くも薄れている彫模様の記憶からして、切れた筈ない部分とは違う。ということは、食み出た部分が無いのは、崩れて霧散したからか――?

 いずれにしろあと2、3コはあってもおかしくない。そう思い、恭は這いつくばって、彫爪の欠片を探していたのである。そして結局、最初の2コ以外見つからなかった。



「……何かマズいかもな、これ…」

 テーブルに空けた引き出しの中身にも成果はなく、恭は爪に目を落とす。左親指の生爪は、全体がいまだ変形したままだった。

 正確には切り落としてから数日経っても、新しい爪が伸びてこない。普段ならとっくに1センチ以上伸びているところが、根元に新しい爪が覗く様子すらない。もっともこのことを、恭は今日まで楽観視していた。2本の爪が尋常でない速さで伸びるせいか、他の爪は逆に、伸びが極端に遅いのだ。だからもしかして、あれをきっかけに普通の爪になったのかも、とさえ考えていた。

 爪切りと共に、細々とした物が入る引き出しからテグスを見つけ、恭はそれを爪の彫り模様に通して即席ブレスレットを作ってみた。色艶、質感に別段変化は無さげだ。こうしてみると不思議な凸凹のある貝殻に見えなくもない。

「――やるか」

 恭は覚悟を決め、テーブルに散乱する爪切りから、ニッパー型を選んで取った。ブレスにした彫爪をつまんで刃に挟む。本当は何より先に、はっきりさせるべきことだったのだが、そのを考えたくなくて、つい残りの爪片探しなどしてたのである。が、いつまでも後回しには出来ない。柄を握り、恭は一息に力を込めた――、

ッ―――!!!」

 途端、己の脳天に直撃したかと錯覚するほどの激痛に、視界が暗転して火花が散る。勢いをつけ過ぎたか、血の気が引き意識が朦朧もうろうとなりかかる程の痛みで、恭は体を前のめりに硬直させることで、どうにか耐えた。

 漸くそれらが収まり、真っ先に目に飛び込んだのは、やはり何の変哲も無い彫爪だった。

「――……」

 激痛が走った時点で分かり切ったことだったが、霧散しない彫爪は、間違いなく自分と繋がったままなのだ。

 まだ終わってはいなかったということだ。



 コップに注いだ水を飲み干すと、ぐったりとした体が漸く回復してきた。

「けど、『匡直はもういない』って言ってたよな…」

 彫爪を切った後、岸崎は断言した。

 彫爪の模様は、対象に爪を刺すことで出来るり貫きからなり、刳り貫かれた爪片は対象の中に残るわけだが、彫爪がなくなれば爪片も消え、木であれば幹に触れることでそれが分かる。でも岸崎の時は分からなかった。というよりそこまで気が回らなかった。…彫爪と自分の繋がりは確認出来ても、爪片まで残っているとは、必ずしも限らないと思う。それに岸崎の言葉を信じるなら、少なくとも爪片の方は消えた、という証拠にはなり得る。

 ――取り敢えず岸崎の様子を知りたい。恭はスマホに手を伸ばしかけ、が僅かに躊躇ためらった。

 岸崎からは一度、゛匡直゛の身体能力が残ってるかもと部活へ去ったあと、『全然フツーだったわ…』とLINEでメッセージが来たが、自分からはまだ連絡したことがない。

 岸崎には岸崎の、自分と行動した3日間が(匡直の話を優先したので、実はまだ聞けてないが)あるが、恭にとってそれは匡直といた時間である。真実を受け入れはしたが、全くの他人事としか捉えなかった岸崎が、これらをどう考えているかは分からないが、恭は主にこの点から生じる食い違いで気まずくなったらと、迷っていたのだ。とはいえ明日まで待ってはいられず、機会と言えばこれも機会だと、恭はLINEのアプリを開いた。



 通話していいか聞くと、岸崎からそく着信音が返ってきた。

「ごめんな通話で、声聞けた方がいいと思ってさ――その後調子どう?」

『全然調子いいぜ、けどさあ――』

 岸崎は匡直の身体能力にまだこだわっていた。

『俺あんま試合出れる方じゃないから、マジ期待したんだけど』

「そうなのか」

『加田の方もどうよ調子は』

「…俺も全然」

 そういえば彫爪と繋がったままだったのに、自分の体にもおかしな点はない。切り離されていることに関係があるのだろうか。

 思えば自分に現れた爪の影響は、晴れたら知らせると言いつつ寝入ってしまった際の、起き抜けに感じた火照ほてりや喉のヒリつきだったのではないか。丈夫なだけが取り柄な恭は、物心ついてからケガはともかく、風邪など引いた覚えも殆どない。そのせいか、逆に疲れや体調不良といった体の変化に鈍感らしく、このことも、昨日偶然思い当たった。症状は気づかぬうちに消えている。

『そういや加田のお母さんからお礼の電話貰ったって、うちの母親言ってたわ、泊まった時の』

「ああ、なんかするって言ってたな――あのさ、気ィ悪くしたらマジメにごめん。もう一回だけ聞いていいか」

『ん?何』

「岸崎が言ってた、自分の中に誰か――タダナオがいるって感覚、本当にもう全く無いんだよな」

「いきなりだな。う――ん……ハッキリ言ってまったく無い、かな。自分が2いるっぽい感覚つってもさ、俺の方は膜に閉じ込められて動けないって感じだから、多分すぐ分かるし――」

 岸崎はきっぱりと否定した。

『どうかした?』

「いや…ごめんな変なこと聞いて」

 明日学校でと言って通話を切る。岸崎が何ともないなら、一人で解決策を探ろうと恭は決めた。話すうち気づいたのだ。万一爪片があったとしても、自分と彫爪どちらか一方が欠けていれば、岸崎に爪の力が及び、いては匡直が現れることもないのではないかと――。

 ――人に対して100パーセントの力を発揮するには、(自身としての感覚は曖昧なのだが、)爪の力と共に、爪主である恭の意思も必要だと、明示したのは匡直だ。加えて力の効力には範囲もある。ならば、恭が彫爪を残して登校するなど、一定距離を保てば大丈夫じゃないかと思ったのだった。

 ただ実際のところは試してみなければ分からない。だから今この点についてはそれ以上、考えないことにした。










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