第9話

 ぼんやりしていると余計気が滅入り、開いた勉強アプリも一向に身が入らないので恭は諦めて起き上がり、夕食を作ることにした。

 夜になって、仕事から帰るなり「いい匂い!」と歓声を上げた母は、おいしいを連発し餃子スープから肉野菜炒めを頬張りながら言った。

「左の爪切ったのね、何か収穫あった?」

「……」

 そういえば今朝まで指にサックを嵌めていた。外したのに気づいて聞いてきたのだ。

 オレンジ色の指サックは事務職の人などが紙をめくるのに滑らないよう指先に被せるもので、木に爪を使うのに夢中になっていた頃、母が買って来てくれた。突き指とか単純に爪が長いままうろつくと危なく、保護のためというのもあったが、母が言うには無意識に爪を気にしてからか微妙に身体の感覚やバランスがズレるようで、この頃よく家の中で家具などに身体をぶつけていたらしい。だからこれは多少でも爪から意識を逸らす為でもあった。サックは爪の伸びを妨げないように指先にティッシュを巻いたり、爪裏に綿を当てたりした上に嵌める。暫く使うこともなかったが、変形爪に彫が出来たのを母に隠したいのもあって、探すと幸いまだ残りがあったから使っていた。

「いや別に…特に何もないから諦めて切った」

「そうなの?そうだ、ぱくが新学期に入ってからになるけど皆で食事に行こうって、バスケの約束がダメになったから、代わりに焼き肉。いい?」

「おおーっ、やった」

 焼き肉はどんな時でも気分が上がると恭は発見する。

 バスケの約束というのは、白師ぱくしの友人知人その家族らが集まって年1回やる3on3の大会に一緒に参加させてもらうことになっていたことで、開催地が遠いから2人で車中泊一泊二日の予定だったのが、白師の仕事の都合で行けなくなった。

 自分達親子の日常に白師が復帰して1年余り、またしても突然現れた白師に、恭は偶にメールのやり取りこそするようになっていたが、それらしいことが書いてあったこともなく心底驚き、一方母は先に連絡くらい寄こしなよと呆れながらも普通に接し今日に至る。そして今度こそ近い将来、母と白師はくっ付きそうだった。

 久し振りに会った白師は、大して年を重ねたという印象もなく、離婚というマイナス要素を抱えたにも関わらず、小学生だった当時と変わらず尊敬出来る格好いい大人だった。但し無邪気に懐けた昔と違い、恭も成長した分あれこれ考え気を遣う。そこが伝わらない白師ではないから、今回のイベントは男同士、互いの距離間をもっと掴もうぜという暗黙の了解があった。とはいえ機会はこの先いくらでもある筈だ。

「それじゃ恭からOKの返事メールしといてくれる」

「わかった」

 母同様、仕事中のことも多いため白師とのやり取りもメールが主だ。LINEは白師から来た時や3人で出掛けた際の連絡手段に使うというパターンが何となく出来上がっている。

 食後すぐメールをすると割と間もなく返信があった。日時の希望をという旨と最後にさり気なく志望校は決まったのかとある。その辺のんびりに見えるらしく、自分の周囲でおそらく白師が一番気を揉んでいそうだが、実は志望校も学部もほぼ的を絞っている。卒業後の就職も考慮内だが、白師の今の仕事に興味を持って選んだコースでもあるので逆に迂闊に喋れなかったのだ。きっと白師は喜ぶし、それならこの大学のこの学部はどうかと、いっそ爆笑もののハイレベルな学校を勧めてくるに違いない。有陽ゆうやの息子だからと過大評価しがちなのは白師の欠点だ。恭はと言えば、親に負担は掛けさせられないと頑張って近辺では2番の位置づけの公立高に入れているが、それ以外の取柄は小中高と今のところ皆勤が続くぐらいなのだ。

 尤もそろそろ観念しなければならず、恭は『大体決まったから今度話す』と返す。目下、なにげない志望動機を考え中だった。

 


 ―白師が初めて恭の前に現れたのは小1のゴールデンウィークの頃だ。

 記憶は断片的だが初対面の白師への印象は最悪で、後から聞いた話でその理由を補うと大体こんなものらしい。

 突然の来訪に驚いている母と、何だと大人2人を交互に見上げる恭に、白師は、『もう大丈夫だ』と言った。母が『え、何が?』と問うと、『これからは自分に頼って欲しい、俺が2人を守るから―』それでいつか3人で家族になろうと続けようとした、そうだ。

「…母さんにはあんまりいらなそうなセリフだと思うけど…」

 これは高校生である現在の恭の感想である。

 母は自分の記憶にある限り、外見は色白な肌にいつもは纏めていることが多いが、淡い黒髪に緩やかなくせ毛の優しそうな゛お母さん゛だが、(これに関して白師は、淡色の黒が光の加減で銀髪にも見え、白い肌と相俟あいまって人でない者に見えることがあったと、ごく普通に言っていた。裸眼だと思っていたがずっとコンタクトだったらしい)

 とにかく母はこの外見で冬は車のチェーン取り付けをサクサクこなし、暖かくなれば庭に出た蛇を火ばさみで摑み速やかに排除する、およそ男向きかと目されることでも普通にこなす人なのだ。

 その通り大失敗だったと白師は笑った。

「忘れてたんだ、゛母子家庭゛というイメージに囚われて有陽ゆうやがどんな人間だったか、それを俺は窮地に陥ったか弱い女性を救う騎士気取りだったから、有陽を傷つけたし怒らせた」

 事実、白師と母はその場で言い合いとなり、恭は母を守ろうと玄関の物を手当たり次第投げつけて、暫くは白師が来る度におもちゃの銃で撃ったりプラスチックの剣で叩きまくっていたらしい。


 …なぜ白師がこんな行動をとったかといえば、言うまでもなく母を好きだったからである。

 白師と母は、家が近所で母親同士が仲が良く、幼い頃は頻繁に行き来して何をするにも一緒だったそうだ。

 本人によるとそれが小学生になると白師は遠くの私立に通うことになり、少しづつ疎遠になりつつあったのが、偶に会う母をいつしか好きになり、遂に何とか理由を付けて父親に談判し、名門私立を退学して母と同じ公立の中高に進むに至った―。 

 いつかの電話だったが、話の流れでこんな言葉を真っ昼間から聞かされた恭はその場でスマホを置き、実際に退いた。嫌悪でなく、心から引いたのだ。必然的にどこが、そんなにと尋ねると、一言では難しいが、自覚する前から有陽はきっと自分にとって特別だったのだと白師は言った。

 元々は親友みたいなもので、小学校は別々でも最初のうちは休日には母も含め地元の同級生と遊んでいて、特に母とは何でも話せて誰よりも気が合ったのだそうだ。

 余談だが゛白師゛というのはこの頃出来たあだ名で、恭のように外国の血が混ざっているわけでもなく正真正銘の日本人だ。

 発端は当時流行っていたアニメに倣い、皆の呼び名を中国風にしようという遊びで白師ぱくしは゛白師゛となった。他のメンバーのあだ名はすぐに廃れたが、白師のだけはなぜか残り、母と地元の親しい友人は未だにこの名で呼ぶ。母は縮めてぱくと呼ぶことが多いが、恭は最初に゛白師゛だと紹介されたのが頭に残っているからか、白ではなく白師と呼ぶ。

 ――地元仲間とは低学年までは比較的よく集まっていたが、学年が上になるにつれお互い忙しくなり段々その機会は減っていった。それでも家が一番近い母とはその関係は変わらなかった。でもどこか物足りず、母への想いを自覚したのはこの頃だったそうだ。

「―有陽は、外見は可愛いし女の子らしくても、中身は昔からサッパリとしてたな。特に周りの期待に応えようといい顔しがちだったり、頭が固くなりがちな自分に比べて柔軟で、こっちの思考をいい意味で崩してくれることも多かった。そんなとこがまず魅力的だったかもしれない」と白師は笑い、「その時々で好きな部分が増えていったけど、俺にとっては多分、最初から有陽しかいなかった。上手く伝えられなくてここまでかかってしまったけど―」と締めくくった。


 …こうも率直に語られるとは思わずかなり気まずかったが、『ここまでかかった』と白師自身が言うように気持ちを自覚して以降、色々あって告白を躊躇っているうちに母は高校の時に恭の父と出会った。その父が事故で亡くなってから母は自らの妊娠を知り両親の、つまり恭の祖父母の猛反対を押し切って10代で自分を生んだ―。

 話をその頃へ移すと、母への気持ちを伝えそびれたままだった高校時代の白師は当然ショックだった。

「あれだけ近くにいたのに有陽は自分を選んでくれなかった。それがどうしても受け入れられなくて、何で俺じゃないんだって腹も立った。だから高校卒業後は一切連絡を絶ってしまって、その相手が亡くなったらしいことも、有陽のお腹に恭がいることも、人伝に聞いたけど知らない振りをした。自分の醜い気持ちばかりに囚われて、俺は有陽が一番辛い時に傍にいるどころか声を掛けることすらしなかった。ただ少し経つと猛烈に自己嫌悪と後悔が襲ってきたよ」

 だから後悔を抱えたままの数年後、有陽が生まれた子と2人、就職もままならず大変な思いをしていると母の高校時代の友人に聞き、白師は一大決心したのだという。有陽の子も含め、自分が2人を守ろうと―。

 この決意のもと、既に就職はして生活の基盤は出来ていたが、白師はまず己の荒れがちだった生活を矯正し、姉家族の元に通って子どもへの接し方を学んだ後、意を決して母子を迎えに来たつもり、だった。

 ちなみに母側は子どもは1人で育てると啖呵を切って自分を生んだものの、すぐに1人でなど無理だと悟り、娘の性格上こうなると踏んでパート勤務に変わっていた自身の母親に孫を預け、バイトなどしつつ出産で停滞していた職探しを再開し、幾つか職替えをして、今の職場で正社員に採用された。母は苦労話など一切しないが祖母によると、20歳そこそこの未婚の母ということで定職に就く前も就いてからも母は相当な苦労をした。ただ実家で暮らしていたので、子育ても生活面も祖父母らのサポートがあり、白師が聞いたような困窮状態では全くなかった。白師が来た頃はむしろ生活も安定し、漸く祖父母の家を出て2人暮らしを始めた頃だったのだ。

 だから母にそんな気遣いは無用だと突っ撥ねられ、恭に敵と見なされて考え違いに気づいた白師は2人に許しを請うと、以降はただ来たいだけだからと都心一流企業勤めの多忙にも関わらず、休みが取れれば恭達の元を訪れるようになった。思い返すと白師は然程頻繁に来ていたわけでなく、主に盆正月や連休によく現れた。出張帰りの途中で土産を持って来ただけだからと玄関先で帰ったこともあった。

 母と白師は本来仲の良い幼馴染み同士であり、誤解が解けると気の置けない友人らしくあっという間に打ち解けた。一方、恭は初対面の悪さもあったし、急に母と自分の中に割って入った白師が気に入らなくて、前述通り暫くは゛武器゛で撃退しようとしたりと、中々寄ろうとしなかった。いくら年端もいかぬ子どもでも、白師がなぜ何時間もかけて家に来るかくらい分かる。

 それでもそんな自分に白師は根気強く接し手を抜くことがなかった。すぐに腰が痛いとか疲れたという祖父母と違って、暗くならない限り、恭が帰ると言うまで外遊びに付き合ってくれたし、肩車というのも初めてしてもらった。そのうち恭はこの人が上辺でなく、ちゃんと自分との関係を築こうとしてくれていることを感じ取れた気がした。

 一番記憶に残るのは小2の夏休み、自由研究で旧道広場の水路にいる魚の観察をした時で、白師と2人、魚を観察しながら半日を過ごした。このときゲーム機を持って集まっていた子たちを誘ってバスケもやった。白師はプレーも教えるのも物凄く上手くて盛り上がり、恭は自分のことのように誇らしくて堪らなかった。普段母に祖父母もいて、全員が可愛がってくれたから、他所よそみたいに゛お父さん゛がいなくても寂しさを感じることは無かったが、羨ましさはどこかにあった。白師はどこの家の゛お父さん゛より格好よく、自分は母のだということも忘れて懐き、夢中になるのに大して時間は掛からなかった。

 夢中になって、その間、母と白師の間がどうだったかなど全く頭に浮かばなかった。

 

 小学4年になったある日、白師はもう家には来られなくなったと母から聞かされた時、最初は意味が飲み込めず恭はポカンとした。

 母はそれがどういうことか、かみ砕いて話してくれた。

『恭は白のことが好きだよね』

 恭はポカンとしたままコクリと頷いた。

『お母さんも。白はずっと一番の仲良しで、これからも変わらない。―白が家に来てたのは、白がお母さんだけじゃなく恭とも仲良くなって、3人で家族になりたいって思ってたからなの、お母さんもそう出来たらいいかもって考えてた。でも色々話し合ってそれは無理だっていうことになったの』

『なんでっ⁉』

 白師が家族の一員になると信じて疑わなかった恭は大声を出した。

『理由はね、まず白の住んでる所はとっても遠いよね』

『僕、転校してもいい』

 白師と離れたくなくて咄嗟に言った。

『うん、だけどそうするとお母さん、今のお仕事辞めるか新しい営業所とか作らないといけなくなっちゃう。でも白師のとこに作るのはちょっと無理かな、現実的じゃないし―』

『辞めてもいいじゃん、だって家族になったら白師がお父さんで働いてくれるでしょ、あっくんのとこだってそうじゃん』

『白もそう言ってくれたけど、お母さんそれは嫌だなって思ったの。それも理由の一つ。今のお仕事が大好きだし、一生懸命やって色んな事を任されるようになってきて楽しいし、だから辞めたくない。白もね、お母さんと同じ気持ちだったの、今の仕事がとっても楽しいから辞めたくない、だからお母さんと恭にこっちに来て欲しいって、でもお母さんもお仕事辞めたくないし、家族が離れて暮らすのは嫌だし――』

『どっちもわがままじゃん!』

 言い分は分かっても、そんなことで全部がダメになるのかという思いが恭にはあった。半分泣きそうになって怒鳴った恭に母は『そうだね』と優しく頷いた。

『だけどそれだけじゃなくて、お仕事だけじゃなく恭のことも、家族になった後のことも他にもたくさん、色々話し合ったけど、お互いの意見を合わせるのはどうしても難しかった、ごめんね』

 このとき恭の中に反論も、言いたいこともたくさんあった筈だが言葉にならず、代わりに泣き喚いても結局どうにもならなかった。

 

 こうして4年ほど続いた関係は一旦閉じたのだが、最近白師から、母が先へ進むことに二の足を踏んだのは他に大きな理由があったのだと教えられた。

 母達の地元では名士の家柄であるらしい白師の親戚で、未婚子持ちの母のことをとても喧しく言う人がいて、恭は言われれば何かあったなくらいの記憶しかないが、自分を留守番に母が少し出ている間にその人が家まで来て強引に上がり込んだことがあったという。

「俺はそのことを余り重く考えなかった。子供の頃から可愛がってくれた父の弟で、ちょっと過ぎたことをしたとは思ったけど、でも有陽は吃驚するくらい激しく怒って―、今なら当然だと思える。でもその時はそこまで頭が回らなかった」

「俺結構な障害になってるけど」

 笑って恭が言うと、白師はそういうんじゃないんだよとかぶりを振った。

「有陽は何より恭が大事だってことだ、俺と有陽に限って言えば一度離れた最大の原因は、気持ちと考えの距離が埋まらなかったことだ」

 白師が言うからきっとそうなのだろうが、母に自分がいなければ全てはもっとスムーズに運んだ筈だ。


 話を戻すと。小学生だった恭が一度の説明で納得できるわけもなく、最初のうちは白師に会いたいとごねたりしていたが、その都度、母が困った顔をするのでじき言わなくなった。

 暫く経ったある日、何かの拍子に恭は母が隠していた白師の携帯番号を書いた紙を見つけた。話したくて堪らなくなって、電話をすると女の人が出て、恭が言葉を発する前に、大人の声なのに高くて少し子どもみたいな喋り方のその人は、『城白きしろ』と白師の名字を名乗った。白師には結婚で名字の変わったお姉さんが1人いるだけで、声が全然違った。これがどういうことか恭は小学生なりに理解した。

 以来、白師のことは一切口にしなくなった。翌年、毎年くれていた白師からの誕生日プレゼントだけは届いたが、恭はそれを庭に投げ捨てた。母はそれを見つけた筈だが何も言わなかったと思う。

 その翌年も受け取らず、6年生になると通学用自転車が中学進学祝いも兼ねたというメッセージと共に届いたが、自転車通学圏内であったにも関わらず恭はほぼ3年間徒歩通学を貫いた。小4まで白師の影響でミニバスケのチームに入っていたこともあり、中学の部活動でバスケとハンドボールに誘われたが、恭はサッカー部を選んだ。バスケットボールに似た大きさのボールを足蹴にしたかったからだと後で気づいた。

 自転車は安くていいから別のを買ってくれと再三頼んだのだが、母はなぜかうんとは言わなかった。それはずっと倉庫のすぐ出せる位置に置いてあったが、恭はどうしても自転車が必要な時は手前のそれをどけ、ママチャリを引っ張り出していた。

 ちなみに片町と仲良くなったきっかけはこれで、自分と同じく自転車を買って貰えなかったのだろうと片町が思い、同士として話し掛けてくれて以来の仲だ。

 サッカー部は楽しかったが高校ではまた別の部に入った。白師にサッカーの話題を振られるとまだ後ろめたくて心が痛む。


 白師の゛想い゛を知ったのは中3の時だ。

 母に頼まれて押入れの天袋を開いたとき、白師の結婚を知って庭に投げつけたのと、拒否したプレゼントの包みが丸ごと残っていたのを見つけた。

『あいつ母さんと別れてすぐ他の女と結婚してんじゃん、このプレゼントって何?俺への罪滅ぼしのつもり?だったらマジ迷惑なんだけど―』

『違うよ、白はそんな奴じゃないもの』

 何でこんなもん残してんだと問い質した恭に母は言下に、驚くほどきっぱり言った。

『…それに、結婚もすぐではなかったよ、恭が電話した翌年のことだもの』

 バレていたことよりも恭はそれじゃああの女の人は誰だったのかと思った。『城白』と名乗られた直後に自分が電話を切ったのは、声にそう名乗ることの弾むような気持と、対する恭への優越が一遍に伝わってきた気がしたからで、―この時の人がやはり白師の奥さんになる人だったと知ったのはまた後日の話だ。

 ―ともかく母は声を荒げる恭にプレゼントの理由わけを教えてくれた、自分と白師が話し合って別々に進むと決めた日、恭を傷つけることになると一番悔やんでいたのは白師の方だったと―。

『私は、最終的には恭に辛い思いをさせたけど、白が来てくれてよかったと思ってたの。ケンカ別れしてたけど仲直り出来たし、何より恭と仲良くなってくれて嬉しかった。私の最愛な息子だもの、白にも受け入れて欲しかったから』

 母が゛最愛゛などと言うから、どう難癖つけようかと待ち構えていた恭はうっかり思考停止した。

『それで十分だったし、まだ小学生なら傷ついても時間が解決してくれる。恭が落ち着いてきたら細かなことも改めて話して聞かせるって言ったんだけど』

 白師はこれに異を唱えた。

『有陽と自分は幼馴染みで友で、会わなくなってもその事実は変わらない。だけど恭は違う、ここで縁が切れればそれっきりだ』

 母は当然こう返した。

『だからって恭だけ合わせるのは無理。尚更あの子を傷つけるだけなのは分かるでしょう』

『それでも縁だけは繋いでおきたい。せめて恭がもう少し大きくなって、自分でしっかり物事の判断が出来るようになるまで―。そうなって自分と縁を切りたいと言えば、そうする。だから恭から何か言ってくるまでは、何らかの形で糸を繋げておきたい。…恭は覚えてないかもしれないが』

 白師に漸く懐きだした頃、恭は言ったのだそうだ。

『白師はぼくがお母さんの子だから仲良くしてくれるんだよね、でもぼく白師のことすきだからね、だって白師はぼくのこともすきになろうって、一生けんめいしてくれてるから』

 本心を明確に突かれたことよりも、その上でそれを恭が肯定的に捉えてくれていることに、決心は固かったが、血の繋がらないかつての恋敵の息子を、本当に受け入れられるのかと揺れていた自分に、この言葉が力を与えてくれたのだと白師は言った。

 その気持ちを裏切ったんだから恨まれても嫌われても仕方ない。でも話が決まった時、このまま恭と会えなくなるのは嫌だと真っ先に思えた。゛お父さん゛にはほど遠かったかもしれないが、親戚のお兄さんくらいにはなれていたと思う。

 だからそれくらいの責任は恭に対して持たせて欲しい。

 それが゛誕生日プレゼント゛の理由だった。


『母さんと復縁狙ってるだけじゃないの』

 話を聞いて尚も恭が言い返すと、母はにやっとした。

『恭はけっこう白のこと、みくびってると思うな』

 子どもだったし、みくびるほど白師の人柄を知ってるわけではないと言い掛けたが、その実、白師がそんないい加減な大人ではないと、はっきり思える自分がいた。

『…母さんは、どうして白師と結婚しなかったの?』

 ついでだから恭は聞いた。

 高校生になって、白師からもほぼ同様の経緯をプラスαで聞くことになるのだが、この時は゛自分が落ち着いたら細かいことを話す゛と言った母の、その内容を知りたかった。

『結果的には白と私が、お互いに歩み寄ったり譲り合ったりが、そうしてたつもりで実は上手く出来てなかったからじゃないかな、お母さんたちはずっと友達で、意外と似た者同士だったから―』

『でも白師は違うよね』

 白師がずっと母のことを好きだったというのは以前、本人の口から聞いていた。

『そうね、でも私にとって白は特別な友達だったから、ずっと対等でいたかった。議論したり意見が合わなくてケンカしたり、高校生まではそんなこともよくしてて、だけど次に現れた白は、こっちの意を何でも汲もうとしてくれて、寄り添ってくれようとした。本当は白、自分が仕事を辞めてもいいって言ってたの。逆に面白くなかったな、だから強いて色々話し合ったけど、そこの齟齬がどうしても解消されたように思えなかったの』

 話し合いを始めたら始めたで、昔みたいに戻り過ぎちゃったのも拙かったけど、と母は思い出したように苦笑いして付け足した。

『ねえ母さん、父さんのことは――』

『うん、恭のお父さんのことも、まだ全然吹っ切れてなかった。今でも勿論とても好きだけど』

 咄嗟に口が滑ったと恭は焦った、これまで母自身の口から父のことを聞いたことはほぼ無く、ずっと禁句のように思ってきたのだ。いつも父の写真や話を見せてくれ、聞かせてくれたのは祖母で、大きくなるにつれ、母は父の写真を見たり話をしたりするのが辛いのだと察していた。だからこの時、母がさらりと父への想いを口にしたから驚いた。白師が来ない理由を聞かされた折にも含まれていなかった筈だ。

 ―急にいつだったか、母が1人で写真らしきものを見ていたのを思い出した。雛鳥でも載せているみたいに大切に紙片を手の平に包み、そっと目を落としていた。見てはいけない気がして逃げたから表情までは覚えてないが、きっとあれは父が写っていたのだと、このとき恭はなぜだか確信した。

 本当のところ、母が父のことをどう思ってたのかはっきり聞いた記憶がなく、ずっと不安だった。だから今、母が父のことを話したのは、恭にとってとても嬉しいことだったし、もしかしたら母の中でどこか、父に対する心の整理がつきつつあるのかもしれなかった。

『…でもやっぱり、私も白も若かったのかもね』

 総括するように母は言い、『プレゼントどうする?』と聞いてきた。

『…考えとく』

 と恭は言った。

 

 暫くして、睡眠時間確保のためと理由を付けて、恭は自転車通学を始めた。

 高校受験を近く控えたある日、白師からの誕生日プレゼントを受け取った恭は母に連絡先を聞き、思い切って電話した。今度はちゃんと白師が出た。

『白師』

『恭か?』

『そう』

『大きくなったな』

『声だけで分かんのかよ』

『わかるさ』

 白師の声は記憶と少しも変わらず明るく涼し気で、暖かかった。

『いつも、プレゼントありがとう』

『いいや、久し振りに声が聞けた…』

『ごめんな』

 その時だけ声が暗く落ち込んだ。それだけで十分だった。

(母さんも勿体ないことしたな)

 そんな風に思って自分でもびっくりしたが、不思議とさっぱりした気分だった。

 白師が離婚し県内に戻って来たのはその1年後だ―。

  

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