第8話

 家に帰るともう母が起き出していた。

「雨降りだしたから電話したのよ、岸崎君は?」

「え?あホントだごめん」

 スマホに着信が入っている。

「岸崎も帰った。もう着いてるんじゃない」

 頭からつま先までぐしょぬれで戻った恭は、昨日の残り湯にお湯を継ぎ足しただけだけどと急かされて風呂場に直行する。

「残念だったね、午前中は雨だっていってたけど、思ったより降るの早かったから」

 天気予報など全く気にしていなかった、もしかして『日の出を見る』が微妙に嘘だとバレてたんじゃないかと恭は気づく。

「そういえばぱくから電話あったよ、恭が岸崎君とこに泊まってた日、戸締りと火の元はちゃんと確認したかって、ありがとね」

 そう言って母はポットと空のサンドイッチの包みを恭から回収して行った。

 忘れていたが岸崎の家に泊まりに行った日、白師にメールを送っていたのだ。

 変な意味でなく来なかったんだなと思う。最近特に忙しいようだ。

 離婚して県内に戻って来た白師は資格を元に開業を予定していて、今は知人の事務所で修業している。一年の約束が請われてもう暫くいることになったらしい。

 風呂から上がり、ポットの残りのお茶を飲もうカップを口元に持っていきかけては欠伸を繰り返していたので「こぼすよ、寝なさい」と母が注意した。

 さっきまで全然眠たくなかったのだが、体が温もった途端、急激に眠気が襲ってきていた。

(寝るわけにはいかないんだよな…)

 匡直と約束している。そうはいってもどうにもならないくらい眠い。恭はい時間だけだと言い聞かせ、アラームをセットしベッドに横になったところで着信音が鳴った。

『悪ィ、加田ちょっといいか?』

 電話の主は岸崎だった。

『聞きたいことがあって…』

 長い時間ではなかったが、岸崎は電話の向こうで言い淀んだ。

『俺、ここ2日間くらい結構がっつり加田といたじゃん?なんつーかさ、そん時のことで、凄く違和感っての?自分の中でインパクトあり過ぎみたいな箇所っつーか記憶があって―』

「…どんな」

『2回…いや3回かな、…俺マジに変なこと言うかも知れないけどさあ…』

 端的に予感がし、的中した。

『最初は加田と隠れてた時で…急に自分が二人いるような感覚になったんだよな、自分の前に立ちはだかるみたいにもう一人自分がいて、みたいな感じ。一瞬だけど、凄えリアル体験で』

 『鳳凰』の施設の人に見つかりそうになった時だ、匡直の言ったことは事実だった。

 それでもその時は気のせいだと考えた、と岸崎は言った。

『でもまた同じことが起きてさ、絶対に勘違いじゃないって思った。…ちょうどあのガキから奪い返した自転車で走ってる時で、フッて我に返ったら前みたいにもう一人の自分が前にいる、みたいな感じになってさ、前回みたく一瞬じゃなかったからなんかパニクって、で次の瞬間俺自転車に乗ってんじゃん!て思い出して、スピードもスゲェ出してるしで焦って急ブレーキ掛けてこけたんだけど…ってマジ変なこと言ってるよな、でもメッチャ異様な感覚でさ…゛匡直゛って呼んだよな』

 岸崎は記憶を呼び覚まそうとするように、呼吸を置いた。

『雨がひどくなったから帰ろうって言った時、加田、俺のこと名前で呼んでくれたろ?そん時も俺なんでか゛誰のことだ?゛って思った。それが3回目、それっていま立ちふさがってる方のにじゃねって』

 恭の提案に承諾したその後、土砂降りで碌に話せず別れたからかもしれないが匡直は何も言ってなかった。でも確かにあの時の匡直は、どこか放心したような表情と希薄な反応だった。

『俺が喋ってる筈なのに、喋る言葉に被さってもう一人の俺が何か言ってて、そっちの方に加田は答えてるし…無視するには強烈過ぎて、だから話してみようと思った。―その爪って、木を操れるんだよな、俺、爪が刺さってから何かおかいい言動とかしてない?もしあったら言ってくれないか』

「……」

 話してみようかと思いかけ、思い直した。横滑りする会話、堂々巡り―岸崎のが潰されていく怖さ、どのタイミングでどんな改竄がされているかは聞いてないが、岸崎は『木に対する爪の力』は知っているのだ。だがそれが自らにも及ぶ点については理解を強固に拒絶する。

 今事実を話したところでおそらくこの繰り返しを感じるだけだ。そしてそれは良くない。

「…いや、何もないよ。様子が変だったりとかそういうのもなかったし」

『やっぱ冗談だって思うよな、でも―』

「違うって、だけどもし岸崎が自分に異変を感じてるんだったら原因を考えるより爪崩した方がいいって思うから」

『それはそうだけど…』

「あとちょっとだ、今はそっちに集中しようぜ」

納得はしていなかっただろうが、再度恭が言うと岸崎もそれ以上は言わなかった。


(―そうだ、動画を撮っとこうか)

 恭は通話を切ってふと思った。

 匡直は自分がいなくなっても記憶の改竄はそのままだと取れる風なことを言っていたが、爪片が除かれ影響の無くなった状態になれば、撮影した匡直を証拠とした恭の言葉を岸崎は理解してくれるのではないか?…にしても始終スマホと共にあるのに撮られることは気にしても自分が撮ることなど考えもしなかった。これも爪の彫りと同様の事象なのかもしれない。

(自分も爪に操られ感ないか?)

 こんなことがなければきっと一生知らず、気づかなかったろう。同じ位置で述べていい類ではないが、岸崎にも匡直のことは知ってもらいたい。

 後からでも、必ず―。

「…あれ?」

 通話を切ってから少しの間考え事をしていたつもりだったのだが、途中で目を閉じて開けるとカーテンの隙間から曇り気のない明るい光が差し込んでいた。

 ベッドに仰向けのまま手の中にあるスマホを顔の前に持ってくる。1:01という意味が頭に入って来ず恭は暫く数字を見つめ、

「うっそマジかよ!」

 跳ね起きた。

 寝過ごしたレベルではない、慌ててカーテンを引くといつ止んだのか雨だった気配すらない。千本針を握った匡直の冷笑が目に浮かぶ。

「いやでも連絡も来てないよな」

 スマホを見返すが片町からLINEが来ている他は静かだ。ということは恭同様、匡直も寝てしまってまだ起きてないのか。

 取り敢えず直ぐ連絡をと思ったが、喉がヒリつくくらい乾いているのに気づき、先に台所で水を3杯立て続けに飲んだ。ついでに妙に火照っている顔を冷まそうと洗っているところへ玄関のチャイムが鳴った。


「!」

 玄関の磨りガラス越しで誰だか気づき、恭は急いで扉のカギに手を掛けた。ここに来るまではの筈だから、約束通り恭からの連絡を待って、遅いと思って直接来たのかもしれない。ガラス越しでも恭だと分かれば入れ替わりが起こるかは不明だが、いずれにしろ玄関を開けた時点でいるのは匡直だ―。

「ゴメン匡直‼」

 恭は引き扉を開けるなり頭を下げた。

 どんな皮肉や嘲りがと構えた恭だが、降ってきたのは拍子抜けな問い掛けだった。

「家の近くに来てたのか?」

「は?」

 言ってることが飲み込めず応答が間抜けになった。

「さっき家で目が覚めた時から゛岸崎゛じゃなくだった。だから家の近くまでお前が来てるのかと思った」

 疑問より、起きたのは自分と大差なかったとホッとして頭を上げ―、

「いや、俺も今さっき起きたばっかだけど…」

 上げた目の前に立つ匡直を見て恭は息を呑んだ。

「お前それ、どうしたんだよ…」

 顔面が一目で分かるほど何かかぶれたように腫れ、赤斑になっていた。顔だけでなく首筋や肌が出ている部分も同様で、殊に捲り上がった袖から出ている腕の掻きむしった痕が痛々しい。

「電話しようと思ったが、来た方、が早いと思った」

 呼吸もどこか苦し気で喋る言葉が変な所でコマ切れになった。

 匡直はだるそうに玄関の上がり框に座り込むと傍らの砂壁に頭と肩を押しつける。

「具合悪いのか?病院には―」

「無駄だ、それより爪の残りをどうにかして切り落としてくれ、悪いが俺は、手伝えない」

 そう言うと匡直は胸元を押さえ苦しそうに前屈みになった、無理をしてここまで来たのは明白だ―。

「爪?彫爪のことか⁉…なんで」

 苦しい表情のまま恭の顔を見上げ、匡直は絞り出すように言った。

「分かったことを、教えとく。爪が゛俺゛を完全に支配したら、俺も岸崎も意識が消失して、機械みたく操られることになるんだろうと思っていた―でも、違うんだ、人の体は、少なくともこの身体はそこまでは耐えられない。おそらくこれは最終段階、末期症状だ」

 目を瞑り胸元を強く掴む匡直の額に汗が滲む。斑に変色した右腕を見て思い出す、は爪が刺さったとこだ――。

「これ…俺の爪のせい…なのか―?」

 爪を切れと言う匡直の言葉の意味を恭は漸く悟った。

「岸崎だけにじゃない…お前にも相応の負荷はある筈―、本来なら、こうなる前に爪を崩さなければいけなかった。手遅れに、なる前に」

 時々喉が鳴るような呼吸音をさせながら、匡直は途切れ途切れにそこまで言葉を繋ぎ、玄関の土間に崩れ落ちた。

「匡直、おいっ」

 しゃがんで肩を揺するが完全に意識が無い。立ち上がり奥に引き返した恭は強く引っ張った引き出しが足元に落ちるのも構わず、中を掻き回して爪切りを摑むと駆け戻った。

「匡直、返事しろ匡直!」

 ひざまずいて呼び掛けるが返事が無いばかりか息をしてるかどうかすらよく分からない。

 恭は爪切りを持ち、残った彫爪を刃で挟もうとしたが手が震えて上手く挟まらない。匡直の様子に狼狽えているせいだけでなく、刃が爪の表面を掠めただけで気が遠くなるような気色の悪さが全身を走る。何とか意識を保ち、呼吸を落ち着かせようとしていると、残っていた爪の彫が微かに振動したように見えた。

「―っ」

 崩れそうだ―、その直感のみで恭は彫爪の根元に爪切りの両刃を突き立てた。

――」

 吐き気を伴うほどの痛みが襲い、手を放しそうになったが何とか留まる。爪を切り取るには手にした器具に力を込めなければいけないのに、それ以上手が動かない、ガクガクと小刻みに手が震え、冷や汗が噴き出す―。

「切れるだろ‼」

 自分で自分に喝を入れる。

 ここで手を緩めたら終わりだとギリギリ奥歯を嚙み締めるが、爪に刃が僅かに食い込むだけで血も出てないのに叫び出したくなる程痛い。

 その時、匡直の瞼が薄く開き、目だけが微かに動いてこちらを見た。

 恭は乱れる息を押し止めるように大きく息を吸うと、満身の力で手の中の爪切りを握り締めた。

「――っ」

 その時、音がしたかどうか覚えていない。ただ爪が折れた感触は伝わって、恭はその場にぬかずくように崩れた。肩で息をしながらやはり倒れたままの匡直を見る。

 何分か、何十秒か、ふと匡直の呼吸が感じられた。

「…匡直?」

 起き上がり、急速に薄くなりつつある体の赤味や湿疹様を認めて恭は恐る恐るその肩に触れた。

「おい、匡直…岸崎?」

「あー…マジに死ぬかと思った…」

 匡直、いや岸崎は弱々しく呟くと、ゆっくりだが砂壁に手をついて自力で起き上がる。土間に座り込んだままはーっと全身で息を吐いた。

「…良かった、ホントどうなるかと思っ―」

「あっおい、」

(゛岸崎゛だ)

 そう思うと安堵で力が抜け、恭は再び地べたに額がつきそうになって逆に岸崎に支えられる。

「大丈夫か?」

「うん…岸崎の方こそ、具合は?」

「いやもう平気、さっきまでめっちゃ苦しくてこれ本気でマズィじゃんとかって思ってたけど―゛立ちふさがってる奴゛と一緒にさ」

 岸崎は言葉に詰まった顔の恭を見てしてやったりというように笑った。

「そいつって、加田が゛匡直゛って俺の名前の方で呼んでた奴だよな?で俺に刺さった゛爪゛が関係してる。違うか」

「…違わない、ごめん岸崎、嘘ついてた」

「いいさ理由あったんだろ、これから話してもらうし―」

「いつから気づいてた」

 目が覚めた時からだと岸崎は言った。

 ―おそらくそこまで゛爪゛に押されていたのだ。

「ここに来る途中、そいつ加田が傍にいないことにスゲー焦ってた。もう彫爪ムリヤリ切るしかないって、そうしないとこの体も加田も危ないってさ―…爪、もう痛くないか?」

 恭はそっと左親指の爪の先に触れてみた、痛みはない。

 彫爪部分は完全に無くなっていた。

「…もう何ともない」

 あとはすべて綺麗な爪に戻るまで、生え際から指にくっ付いている残りの歪んだ部分を伸ばさないよう気をつければ大丈夫な筈だ、一度歪んで生えた爪はそのままなのだ。

「…岸崎本当にごめん――もの凄く危険な目に遭わせた。…あの爪がこんな危険なものだって思わなくて―」

(―いや、自分はそれを知る機会はあった)

 不意に気づき、恭はいたたまれなくなった、自分はどこまで馬鹿なのか。

 小学生の頃、鉢植えの木の、生命線の1つでもある葉を全て落としてしまった時―。

 祖父に諭された言葉をよく受け止め、それは木を傷つけるだけでない、木の命をも脅かす行為だと気づいておくべきだった。

 これは゛最悪゛も有り得るもの、

(―この爪は、を殺すかもしれないものなのだと)

 口元を引き結んだ恭をどう思ったのか、岸崎は「あのさぁ」と言って軽く睨むような目で恭を見た。

「分かってると思うけど、今度のことは事故だからな」

「…俺が不用意に爪を伸ばしたまま外に出た」

 ゛力゛以前にあの長さ自体危ない。

「そんなん言ってたらうちの姉貴なんか常に両手が凶器だって」

 昨日、焼きそばを作ってくれた岸崎の姉は日頃から爪の手入れに余念がなく゛年中爪を盛っている(ネイルアートのことだろう)゛という。

「ケンカしたら爪で威嚇してきやがるし、あいつの女友達も皆爪長くて家来たら缶のプルトップ開けさせるためだけに俺部屋に呼ばれんだぜ、なんでそこまでして伸ばしてんのかイミ分かんねーよ」

 苦々し気に言う岸崎に恭は思わず同感だと笑みがこぼれた。

 1本伸ばしただけで皿1枚取るのにも爪がカチカチ当たって煩わしい。自分など伸びた状態で突き指し、危うく爪が根元から剥がれそうになったことすらある。

 途中から一緒になって笑って岸崎は言った。

「―事故ってさ、時間とか場所とか色んな偶然が重なりあって起きるわけじゃん?俺もけっこう興味本位だったし加田もちょっと不注意だった。お互い様つーことで、もう謝んのやめよーぜ、―とはいえ」

 岸崎はまた表情を変え、わざとしかつめらしく言い添える。

「もう人に刺さらないよう細心の注意を払え、綺麗な爪が生えてくるまでまめにカットしろよ」

「…言い方が匡直みたいだ…」

 命令口調がらしくてつい口に出た。咄嗟に岸崎の顔色を窺ったが少し目を瞬かせた程度で感情までは読み取れなかった。

「ごめん、便宜上、名前で呼ばせてもらってた。区別しないとややこしいからそうしろって―」

「ゴメンはなしだ。…が言ったんだな?なんでそいつのこと黙ってたんだ」

「無駄だったから」

「無駄?」

「匡直は、あいつは理由があって自分の存在を悟られないように岸崎の記憶を作り変えてるって言ってた。実際、俺は何度か岸崎にあいつのことを聞いてみたり、矛盾を突いてみたりしたけど、岸崎、矛盾があるってこと自体を受け入れないっていう反応だった。…足の捻挫のこと、何か思い出さないか?」

「何かって、何が?」

「その日の午後に完治してるとか、おかしいって思わない?」

「え?あ、そう―かも…いや、確かに治りえーって思ったけど、さすがにそこまで早くはなかったろ、次の日とかじゃなかったっけ」

「……変わってないのか」

 恭は驚いた。匡直の存在にはっきりと気づいた今、匡直としての記憶も岸崎の中に甦り、或いは甦りつつあるのではと思っていたのだが、匡直が言っていた通り、岸崎は改竄された記憶に違和感を持たないままで、むしろ匡直がいた時より自然な解釈になってしまっている。

 この3日間の゛真実゛を恭が話した後でもそれは変わらなかった。

「正直自分の事とは思えない。実感ゼロつーか…。俺の中にさっきまで俺だけど俺じゃない奴がいたってのはスゲー分かるのよ、今日起きた時から一緒に意識があって、同じもの聞いて見てたし―、けどそいつがここ数日間、俺の代わりに行動してたおびがあるってのは、どうしても信じられない」

「…そうなのか?」

「加田が嘘ついてるとか疑ってんじゃないからな、ただなんてのかな…常人離れした俺とか、俺を守る為の俺とか言われてもちょっとなあ…他人事を聞いてるようにしか感じられなくて…俺には俺の『その時』の記憶がガッツリあるからかもしれないけど、どうしても自分事に持ってこれない」

「―でも」

「あいつは俺の免疫で、゛俺゛を土台として作られた人格、なんだよな?」

「そう言ってた…」

「そっか…」

 岸崎はそれだけで口を噤んだ。

「…あのさ、そいつはいま、岸崎の中には―」

「いない」

 恭の問いに、短く、だがはっきりと岸崎は否定する。

「そう…」

 返す言葉が見つからず、恭もまた沈黙した。

 『いない』という言葉はショックだったが、岸崎ではないが恭もまたその点においては実感ゼロだった。予兆はあったにしても自分にとっては唐突過ぎた。そのせいかショックであるのに、寂しいとか悲しいといった感情が生じてこない。

 たとえ何らかの感情が生じていたとしても、岸崎の前でそれを言うことは憚られただろうが、頭が飽和状態で、匡直に関係する思考や感情一切の侵入を自分自身で遮断しているようでもあった。

 黙っていると、突然岸崎が立ち上がり大きく伸びをした。

「あーまだ混乱しまくりだわ、ちょっと時間いるかな、また今度話聞かせてもらえるか」

 自分にも頭を整理する時間が必要かもしれない、恭は頷いた。

「しゃっ!じゃ俺部活行くわ、モヤッとするときは取り敢えず体動かすに限る」

「えっ、体もう大丈夫なのか?」

「全然、平気だって、それにもしかしたらまだ超人的身体力ってーの?残ってるかも知れねーじゃん。試してみない手はねーぜ、あそーだLINEID交換してるんだからこれからも連絡くれよな」

 服をまさぐってバスカードとスマホがあるのを確かめると、岸崎は午後練はまだ間に合うと近くのバス停に向かって駆け出して行ったのを、恭は家の近くの道端で見送った。

 外に出ると思ったより長く雨が降っていたのか、日射しを受けた新緑と土に含まれた水分の、その成分を纏ったまま揮発したかのような濃い匂いが道端の草からでも伝わってきた。

 恭はそれを吸い込むように呼吸した。

 雨の恩恵か岸崎と最初に会った数日前より、周りの緑も一気に増えたような気がした―。


 人が帰ってしまった後は急にシンとした感じがするものだが、うちに戻るといつもよりずっと静かに思えた。

 ゛爪の力゛の発覚が小学生の時だったからか、ここ数日その頃を思い返す機会が多かった。だから今もこの漠とした静けさが(大概は祖母なりがいて偶にだったが)、一人遅くまで母の帰りを待った記憶を呼び起こした。低学年の時より5,6年生の頃が一番印象に残っており、そう遠くない記憶なので鮮明に覚えている。

 当時は部屋のかどに座ってゲームの画面をじっと見続けたりしていたが、今はもう角っこの安心は必要ない。

 恭はコンパクトなダイニングキッチンの横の、スペースを分け合うようにある畳の上に大の字に寝転ぶと、漸く全身の力を抜いた。

(終わった…とにかく岸崎が助かって良かった―)

 体を休め、そう思った時はじめて心が深く沈んだ。

(そこで沈んじゃ、拙いだろ)

 恭は慌てて己を叱る、自分は岸崎が無事で済んだことを偽りなく心底よかったと思っている。

 なのに同時に消えた匡直を思っていた。

 ――別れを言う間もなかった、考えていた動画も撮りそびれて記録もない。存在を示すものは自分の記憶と岸崎のだけだ。

(これはちょっと落ち込みそうだ―)

 恭は顔を両手で覆った。

 あの日匡直といた広場で切った右手人差し指の爪がはや伸びて、掻き分けた髪の毛の下の皮膚をチクリと刺した。




 

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