第7話
乗り逃げ自転車をマンションの駐輪場に置くわけにもいかず、秋はこっそり自分の部屋に持ち入った。
あの人は自分よりは確実に年上だが大人ではなかった。
あの時間をうろついている割に風貌から学校に行ってない系のヤンキーでもなさげ。
自転車だからこの辺りに住んでいる筈―。
念のため得た情報を再考察していて気づいたことがあった。
もう一人が着ていたのはレインウエアだったと思う。独特な衣擦れ音が耳に残る。雨でもないのにという違和感が、どこかで見たという記憶も刺激した。
(どこだっけ…)
それを思い出せず苛々と部屋中を歩き回ったついでに転がるペットボトルを蹴ろうとして空振った。
「…あ、」
きっといま自分は最高潮にラッキーなんじゃないかと、秋は思った。
人との関係に疲弊していた秋はSNS類をはじめ家族以外の連絡先を削除していた。
当然の如くツイッターやLINEのアカウントも削除済みで、計画実行には痛恨な痛手だ。頭を捻った挙げ句、秋はツイッターの新しいアカウントを作り、朝5時に妹の部屋のドアを叩いた。
「夏樹、俺のツイッターアカウント教えるからフォローしてくれ」
早朝に起こされてた不機嫌より、起こしたのが会話もしなくなって久しい兄であることに驚いている顔だ。
「どゆこと?」
寝ぼけ眼を擦りながら夏樹が問う。
「いいから、頼むって」
兄の気迫に押されたかまだ頭が回ってなかったのかは不明だが、秋はその場で自分のアカウントを妹にフォローさせることに成功する。すかさず準備しておいた写真を付けてツイートした。
「いまのやつリツイートしてくれ」
自分に比べ夏樹は母親譲りの社交性で交友関係は広い。小6だがその友達の兄姉なら中高生かもっと上がいる筈で、上手くいけば拡散されてあの人まで届く可能性はゼロではない。
「変なんじゃ、ないよね」
「大丈夫、保証する。俺を信じろ」
尋常でない高テンションに飲まれたように夏樹は兄からの添付画像付きツイートを転送していき、秋は真横でそれをじっと見守った。
「ありがとな、夏樹!」
最後にお礼を言うと、夏樹はぽかんとしたまま秋を見詰めコクリと頷いた。
「ざけんなッ」
叫び、立ち上がろうとした匡直が膝から崩れた。
「おい大丈夫か、どっか痛めたんじゃ―」
「―いや、ちょっと膝にきた。悪ィ、追いかけられなかった」
顔に疲れが見える。無尽蔵に力が溢れてくるわけではないのだと、今更ながら気づく。
「匡直のせいじゃないって、助けてもらっといて何考えてんだあのクソガキ」
中学生かいいとこ華奢な高校生くらいに見えた。いずれにしろ自分達よりかは年下だろう。
「怪我とかホント無いのか」
立ち上がらないままの匡直に恭は心配になる。
「少し疲れただけだ、―それより自転車どうする」
身軽く立ち上がり怪我など無いと示してみせながら、匡直は少年が逃げ去った方向を睨んだ。
「防犯登録はしてるけど…」
あの自転車は中学の入学祝いに
「…あいつ、飛び降りようとしてたんだよな?」
「だろうな」
そっけなく返される。
「……」
どっと汗が流れて背筋が冷えた、改めてとんでもない場に居合わせたのだ。
(自転車はともかく助かってくれて本当に良かった)
恭は胸を撫で下ろした。
匡直の自転車は無人になったあとも歩道橋を走り、数メートル先の突き当りで倒れていた。
恭が先に走り寄り壊れてないか案じていると、後からゆっくりと来た匡直が引き取って2、3度タイヤを転がした。
「中学から5年は乗ってるんだ、多少へこもうが動けばいい」
前が凹んだ他は大きな損壊はなさそうだが岸崎はこれをどう解釈するのか、散乱した段ボールの中身を拾い上げ、つい考えてしまう。
「それより近くに他の自転車は見当たらない。あいつ、おそらく徒歩圏内だ」
「なんだそんなの見てたのか」
「逃げた方向は分かってるんだ、少し探してくる。お前は先に帰って―」
「待て待てっ、いいってそんなのどうせどっかに乗り捨てんだろ、運が良けりゃ戻ってくるよ」
可能性は微妙でも、あの中坊を探し出しとっ捕まえて返せというよりよっぽど高い。
「でもお前は困る筈だ」
「……」
様子がおかしい、岸崎第一の匡直なら恭の自転車などさっさと切り捨てそうなものなのに、さっきからそれを第一として話している。加えてどことなく感じる頑なさが気になった。
「どう―は、」
クシュッ、体が冷えてきたせいか恭が盛大にくしゃみをすると匡直の表情が僅かに曇ったのも、どことなく違和感のある仕草な気がしてくる。
「…寒いし戻ろうぜ、最悪親のママチャリあるし平気だって」
「…分かった」
帰り着くと濡れたカッパを脱ぐ隣で匡直は目を擦って横になり、すぐ寝息を立てはじめた。
(さすがに疲れたよな…)
寝るまでが一日だとすると今日は本当に長かった。あれだけ長かったのに問題は増殖中で、微かな不安と共に見なければいけない現実もじきやってくる。
予感という不安を押し込めて恭もカッパを適当に丸めると、入った布団が冷たいと感じる間もなく寝入っていた。
ソースの匂いが漂っている気がして目を開けると匡直がドアを開けたところだった。
「起きたのか、布団よけてくれ」
「おー」
取りかけたスマホは後にして布団をあげる間に、匡直は焼きそばとお茶のペットが載ったトレイをテーブルに置いた。
「昼飯。姉が作った」
机の上の目覚まし時計は昼を回っている。作ってさっきバイトに出たというのでお礼の伝言を頼み、急激に蘇った食欲を前に即行箸を取り、瞬く間に食べ終わると漸く空きっ腹が落ち着く。ほぼ同時に箸を置いた匡直が何気に言った。
「爪、崩れてるぞ」
「へ?あっ」
食べ物に気を取られ眼中になかったが、見ると昨日ひびの入ったとこから深く亀裂が走り、先の一部が欠けている。
木に限っていえば、この段階までくれば何もしなくても一日二日で完全に崩れる。力を使ってならあと数十回といったところか。
「あと一息かも…」
匡直は頷いた。
「よし、場所を探そう」
『鳳凰』は使えないのだ。地図を見ようとスマホを取ると片町から『ツイッタ見ろ、これ加田っちじゃね?』とLINEの通知が入っている。
「うわ、あいっつ…」
何だと思ってタイムラインを表示させ、片町かららしいリツイートを見るなり恭は唸った。
内容は『拡散希望(他SNSも歓迎)!自転車貸してくれた人探してます。(後で戻しといてくれたらいいと言ってたけど鍵もあるから…)●●市内で多分高校生くらいの人、自分の盗られて困ってたら使えよって貸してくれて、お礼も言いたいです。明日明後日の同時刻、場所で俺待ってます』
といったものだったのだが問題はその添付画像だった。
画像は一部のみで車体の判別は難しいが、おそらく恭が乗り逃げされた自転車で、主にアップで付けていたキーホルダーが写っていた。このキーホルダーが母の友人がくれた一点物で間違えようがなく自分のものだったのだ。美大出身の人で
不思議なのだが、爪に出来た模様はどんなに綺麗だと思っても関心が続かない。自分だけでなく母達も携帯などで撮っても結局消してしまい、彫爪の記録は多分一つも残ってない。
そもそも残そうという発想も起きにくく、彫爪を見た岸崎も驚いてはいたが、爪に透かし彫りがあるという珍しさは強く頭に残っても、そこに出来ていた彫模様への興味は長くは続かなかった筈だ。
『集中力が削がれる模様っていうのかな、描き写してる時もそうだったけど、目も意識も全然別のとこに向こうとするから大変だった。見れば見るほど頭に入って来なくなるんだよ。だから正しく写せたのはスケッチが4割、完成品で1割ね。でも苦労したぶん会心の出来かな、他でもない有陽の息子のだから頑張ったよ』
言葉通り凝った作りのキーホルダーは一見、金属プレートに浮彫が施されたものだが実際は木にメタリックカラーの塗装で、よく見ると表面に微かな木目が浮かぶ―。
片町のメッセージによればこのツイートからコピーペーストされたのか『LINEとかFBにも広まってる』らしい。
恭は訝し気にしている匡直へツイッターの画面を向けた。中学からの付き合いの片町だからキーホルダーが恭のものだと分かったが、匡直にはこの画像と文面では伝わらないだろう。
「これツイッターだな、昨日お前と別れたあと岸崎が見てた。どんなものかは大体分かる」
「そっか?」
なら話は早い。内心アプリの説明からかと危惧したのだ。
「このキーホルダー俺の自転車のだ」
恭の一言ですぐさま理解し、顔つきに見る間に剣が生じる。
「…あのクソガキか…」
「自転車貸してくれた高校生くらいの人って完璧に俺たちのことだろ、自転車盗られたのはこっちだし゛良い話゛にされちゃってるけどさ」
本当のことは書きずらいからだろうが、どうしてか文面が引っ掛かった。
「…内容はともかく、直接自転車を返したいっていうメッセージだよな。やっぱテンパッてうっかり乗ってっただけなのかもな」
「どうだかな」
匡直も恭と同じようで、じっと画面に目を落とし、ややあって言った。
「お前だけ行け、俺は近くで見とく」
「え、でも俺よりむしろ匡直に会いたいんじゃないか?助けてくれたのは匡直なんだし―あ、」
「目的は自転車を返すことじゃなく゛俺゛かもな」
「そういうこと…」
やっと作られたメッセージが気に食わなかったのは、真摯に自転車を返したいという気持ちが伝わってこなかったからだと気づく。そもそも本当かどうか怪しむような内容で、それでも広めようとするのは単に面白がってか、一方でもしかしたらと考え或いは信じた善意の人だ。
自転車を返すことが一番の目的なら、お礼の手紙でも付けて交番前に置くなり方法はある。人を巻き込んでまでやることでもない。
つまりこいつは人の善意を利用してでも匡直に会いたいということか、常人とは思えない離れ業で自分を助けてくれた相手にもう一度、という理由はもう大体想像がつく。
お礼を言うだけできっと気は済まない。なぜあんなことが出来るのか、どうやったら出来るのか、飛び降りの理由は分からないが、頼めばその力でもっと助けてくれるかも、と同じ立場なら恭とて期待する…ひょっとしたらあの少年はなりふり構わず助けを求めているのかもしれなかった。
「もし大人しく返さないようだったら、俺が後を付けるなりして取り返す」
どういう状況を想定して言っているかは不明だが、匡直は隠れて様子を窺うということだ。
「…でもこいつは多分、どうしても匡直に会いたくてこんな真似したんだよな」
やり方はどうかと思うが心情を想像するとつい同情してしまう。
「会ってやれって?俺の目的は一つだ、人助けなんかする暇は無い」
「そうだけど、心配っていうか、会えなかったらがっかりして、また何かやらかさないとも限らないし…」
この場合力になってやるのは匡直だから嫌だと言えば強制はできないが、所詮他人事とスッパリ割り切ることもできない。
「勘だけどな、あいつは多分フリで、本気じゃなかったと思う。だからあれだけ怖い思いをすれば次なんて考えないだろ」
匡直から勘という語が出てきたのは意外だが…言われてみればあの時は落ちそうになって必死にフェンスを摑んでいた、という方がしっくりくる。
「それにこういうのは捨て犬と同じで最後まで責任を持てなければこれ以上関わらないのが鉄則だ、俺はそのうち消えるしな」
サラッと刺さるセリフを付け加えられギクリとする。だがこの身も蓋もない切り捨て感は匡直の真骨頂だった。
昨晩は少し様子がおかしいと思ったのが完全に復調している。
「捨て犬って…分かった俺一人で会う。余計な事は聞かないし、話さない」
ゴメンなと心の中で少年に謝る。例えは微妙だが匡直の言う事も尤もだった。半端に関わって背負えないと途中で放り投げるより、余程ましだ。
匡直はこの話はこれで終わりとばかりに菓子の箱を一つ取り、パリリと勢いよくフタを剥し食べ始める。
(もしかして俺が気にするから、わざとあんな言い方したかな…)
負担に思わせないように、ふとそんな気がした。
妙に恭の自転車にこだわった匡直に爪の影響の強まりを、つまり爪主である自分寄りの発想になっている気がしたのだが、元来人格のベースは岸崎なのだ、単に案外いい奴なだけかもしれない。
「それじゃ俺、一度帰るわ。午前3時過ぎくらいだったよな、あいつに遭ったの」
返事の代わりにゲホゴホと匡直が咳き込んだ。
「むせた」
食べながら答えようとしたらしい。
「もう一日泊まるか?家なら構わない」
「いや夜に国道のとこで待ち合せよう」
甘えようかとも思ったが、その匡直自身が離れていれば『爪片はそのままでも
岸崎には爪片だけでなく、匡直の存在もまたそれなりの負担になっているのは、足の状態の矛盾を突いた時のあの強い拒否感からも自明だ。
立ち上がり、空のポリ缶を下げスポーツバッグを肩に掛けたところで恭は思い出した。
「そういや部活は?」
自分の方は春休み中部活は無い。
「休むと言ってある。捻挫を理由に」
だったらどっか行く?と言おうとしてやめた。
「用があったらいつでも連絡して」
とっさに考えたことは岸崎への負担より、いずれ消えるという存在と距離を詰めるべきかで、結局恭は躊躇った。
歩きスマホで片町にお礼のLINEを返す。聞くとさっきのは近くの私立中のツイッターからだと返ってきた。
片町はネットが趣味の情報通だが、なぜそんなとこをフォローしてるのか、またはリツイートが来るのか謎だ。
「でさ、岸崎が助けたんだけど、びっくりしたみたいで俺の自転車乗って逃げちまったんだよ、そいつ」
『マジかよー』
続けて電話をし、爪関連を削いで大方の事情を話す。片町は中学からの一番の友だ。成人したら全て話すと心で詫びる。
『あーでも助かって良かったよなホント。内容はともかくそいつ加田っち達にもう一度会って、ちゃんとお礼言ったり謝ったりしたいんだろうな』
片町らしい、というより知らぬが故の解釈だ。
『会いに行くのか?』
「自転車返して貰わないと困るし」
『だよな、でもそいつよく加田っち達のこと高校生だろうって分かったな、一瞬だったんだろ?』
「ああそれな」
自分達もそうだったように、背格好である程度は分かるだろうが、恭が着ていたカッパもヒントになったと思う。高校指定の自転車通学者用のものだったのだ。バス通だが偶々譲って貰い、バスが込む雨天など自転車で行くので重宝していた。
知っていたか、目にしたことがあったのかもしれない。
『ふうん、ま喋り方とかでも分かるもんな、ちゃんと会えるといいな』
片町同様、心底願う。
物置から出したママチャリに母親は気づかなかったらしい。帰って来ても何も言わないので恭も黙っていた。
「母さん、明日の朝また岸崎と出掛けたいんだけど、日の出を見に行くから4時前くらいに」
「いいけど、随分仲良くなったのね」
何日も続けば不審だろうが、思った通り特に反対されなかった。
「どこまで行くの?」
「えっと…山、ほら国道行ったとこに『鳳凰』ってあるだろ」
「うん゛特養゛ね」
咄嗟の思い付きだが母は施設を知っていたらしい。
「そう。その特養がある山の頂上に展望スペースの作りかけがあるらしくてさ」
作る前に頓挫したんだったか、よく覚えてないが話としては使える。
「行ってみようってことになって」
「そうなの?面白いこと考えるのね」
2日目の3時起きはキツかったが、重い体を起こすと用意されていたお茶のポットとサンドイッチの包みをありがたく持って、恭はママチャリを走らせた。
昼間サドルを上げておいたので漕ぎ難くはない。まだ冷える外気で目が開き身体を動かすうちに頭の方も冴える。夕方から曇っていたせいか昨日に比べ薄暗くてライトが無いと心許なかった。
匡直はガードレールに腰掛けて待っていた。
「彫爪は?」
「変化なし」
開口一番に聞いてくる。
「自転車は?」
「帰りが面倒だ」
だから徒歩で来たという匡直を乗せて出発する。暫くしてその匡直が急に「止まれ」と言って自転車を降りた。
「ここから別行動だ、俺は隠れてついて行く」
「隠れるって…」
これから行く歩道橋の近辺は
どうするのかと思っていると匡直はステップを踏むくらいの軽さで、ちょうど通りがかった潰れたガソリンスタンドの屋根に飛び上がってしまった。
(すっげ)
さり気なく凄い。思わず見蕩れる恭に双眼鏡を手に匡直が合図した。
「適当について行くから上手くやれよ」
1人になって間もなく歩道橋が視界に入る。昨日は気づかなかったが外灯があり、近くに自転車をついた人物がいるのがすぐ見て取れてうっかり上を見そうになった。どこにいるか分からないが匡直も気づいているだろう。
恭は無いよりいいかと片手でマスクを付け、ソワソワと周囲を見回す挙動不審な少年に近付いた。
結構待っていたのかもしれない、寒そうに背中を丸めている。昨夜はもう少し小柄に感じたが服装に見覚えがあるし本人だろう。自転車もフォルムからして恭のものでありそうだ。
「昨日は危なかったな、もう平気か?」
相手の目の前で自転車を止める。近づく恭を見るとはなしに見ていた少年はかなり驚いたようだった。こちらが1人なのに驚いたのか、恭だけなのに驚いたのかは知らないが、いずれにしろ期待外れであったららしいのは伝わってくる。
「俺の自転車、返してくれるか」
顔つきの幼さからみてやはり中学生くらいが妥当に思える。゛中学生゛は、まじまじとこちらを見て、どう言おうかという素振りの末、意を決したようにあの、と声を出した。
「御一人なんですか?俺を助けてくれた人、じゃないですよね?」
「それ俺のだし、自転車を借りたお礼言いたいんだろ」
今度は明らかに失策を悔やむ顔だ。正直な
「嘘ついてすみませんっ、でもまんま書いてもダメだと思ったし…俺、どうしてもあの人にもう一度会いたいんです!会わせてくださいお願いしますっ」
グリップをこれでもかと握り締め勢いよく頭を下げる。
「―っ⁉」
本当にいきなりは声が出ない。頭を下げる少年の背後に匡直が飛び降りてきた。いつ移動したのか歩道橋の上で様子を窺っていたらしい。
不意を突かれ匡直に後ろから自転車を引っ張られた少年は強く握っていたハンドルごと引き摺られかけて手を放した。
「?」
少年が後ろを見る。匡直はあっけなく取り戻した恭の自転車に乗り、むすりとして言った。
「帰るぞ」
言うなりやはり驚きで声も出ない様子の少年の脇をすり抜ける。無意識に追いかけようとしたのかその足が一歩出た。
「おい」と呼ばれた気がし、我に返って恭もママチャリを方向転換する。
「まっ待ってください!」
「あ、そうだっ、お前さツイート広めてくれた人たちにちゃんとお礼言っとけよ、いいな?」
振り返りそれだけ言うと、恭は疾走して行った匡直の後を追いかけた。また何か声が聞こえたが走ったところで追いつける筈はなく、それより先を行く背中がなかなか見えてこずに焦りが頭を掠めた直後、恭は道の真ん中に自転車ごと倒れている匡直を見つけて急停止した。
「匡直っ‼」
「
駆け寄ると匡直は体を押さえ呻いていた。
「スピード出し過ぎてた」
「気をつけろよ、怪我無いか⁉」
゛有効範囲゛の心配もある。追い掛けながらあの速度のまま範囲越えし、岸崎に戻ったらという考えが
「大丈夫か?」
怪我はとスマホのライトで恭が照らそうとするのを匡直は自転車側に押しやった。
「それより、自転車」
「自転車とかいいって!何言ってんだよ」
呆れて、というよりカッとなって大声が出た。場合によっては命に関わる事態だったのだ。
気のせいではなかった、やはりおかしい。
自分のことより゛岸崎の体゛より、恭の自転車の心配をするのは匡直の目的と方針からすればと明らかに変だ。
「俺の言動、おかしくなってるか?」
不意に匡直が言った。
「もしかして自覚ないのか」
「―聞きたいことがある、彫爪が欠けると爪の力は弱まるか?…例えば欠けが大きくなると命令の精度が落ちるとか」
「?…いや、変わらない、と思う。最後まで試したのは数えるくらいだけど、最後の方は命令通じなくて話にならない、みたいなことは無かった…なんか、大丈夫か?」
恭の返事に匡直が深い溜息を吐いたからではない。さっきから息切れが治まらないのか、時々大きく息を吸い込んだりをずっと繰り返しているのだ。
それには答えず匡直は「…彫爪の劣化が直接、支配力の低下には繋がらないってことか…そこまでは考えてなかった」
悔しそうに唇をかんだ。
「つまり、どういうこと」
「このままだと早晩゛爪゛に負けるということだ。もう気づいてるな?守ると言いつつ一方で俺という存在は岸崎に負担も強いる。そのうえ爪が一定の支配力を保ったままとなれば負担は増す一方だ。岸崎も気づき始めてる、残された時間は思ったより短かそうだ」
気づき始めてるって―、と、驚いた恭が言葉を繰り返す。
「岸崎が、匡直のことをか?」
「爪の力に俺を含めた免疫も押されつつあるから、おそらくその影響だ。一瞬だが俺の時に岸崎が覚醒した感覚があった」
「いつ―」
「昨日、手を放して施設の人間に気づかれた時、さっき自転車を漕いでいた時」
「さっきって、まさかこけたのそのせいかよ」
「スピード出し過ぎてたのは本当だ。こっちの意識があるのに岸崎が出て、驚いてブレーキを掛けたらつんのめった。掛けたのはどっちだか正直よくわからない。気づくといってもまだほんの一瞬で、岸崎も多少の違和感は残るだろうが問題視するほどではない」
「でも時間は残り少ないんだよな?それってあとどれくらい」
「正確な残存時間か?それを正しく測ることは無理だな。でも出来れば今晩中に片をつけたい」
なぜか匡直は薄笑いをした。
「お前の前で岸崎が完全に出てきたら爪の勝ちだ。俺は消えるし、支配が完了してきっと意のままに操り放題になる」
考えたことすらない、と言えば嘘だ。だが冗談でなく本気でそんなことを言っているのだとしたら心外だ。
「するかよっあとな、自分のこと軽々しく゛消える゛とか言うな、悲しくないのかよ」
腹立ち紛れの言葉に恭自身が狼狽えた。あえて置き換えずにいた部分が、勝手に言葉になって出てしまった気分だ。
「悲しい?」
「―そうだよ、いくら匡直が岸崎の中から作られたんだとしても、新たな人格が出来た時点でそれはもう本来の岸崎とは異なるだろ?事実お前全ぜん性格違うし、喜怒哀楽だってちゃんとあるし、なのに平気そうに゛消えるから゛とか言って、―怖くないのか、嫌じゃないのかよ」
言葉にしなかった理由は必ず消えるであろう匡直に、それを言うことはダメなのではと悩んでいたからだけではない。
「…そうだな、お前の言うように感情も普通にあるから少しは残念に思ってるさ、けどな、怖いとか嫌だとかは無い。本当に無いんだ。それはやはり俺が岸崎の一部で、使命があってここにいるからだと思う」
無論、目的が達成出来なければその限りにあらずだと付け加えながら、匡直はどこか痒いのか、照れ隠しか、前から手を回し首筋を強く搔く。仕草が首切りを連想しなくもないから止めろと、どうでもいいことが頭に浮かんだ。
「あと人ってのはそれ程単純じゃない。だからたとえ大きく違って見えても俺は正真正銘、岸崎という土台あっての存在だ。消えるとは言ったが、正確には単に同化だ」
「…分かった」
恭は匡直の言葉に頷いたが、そうは言いつつ思っていた。
―身近で白師と母の関係を見てきたから、人の想いや行動はそう単純ではなさそうだと自分も思ってはいる。
(―でも本当に岸崎の中に匡直のような部分があるんだろうか―、別人格として現れるほどに…)
「っ」
指先に僅かな振動を感じ左手の手袋を取る。2人の目の前で彫爪の端が砕けた。音も無く霧散する。
「あと残り半分強か―、崩れだせば早いっていうのは本当だな。もう少しだ―」
だとすれば、どうだというのか、匡直に゛思い出作り゛などおそらく何の意味も持たない。分かっているが、
「もう少しなら一旦休止で―」
「話聞いてんのか?早くしないと岸崎が出てくるんだよ」
今度は間違いなく照れ隠しな笑い方は、初めて見たのになぜか岸崎に似ていると思った。
「…俺に意外と人望があればの話だけど、悲しいのも怖いのも、嫌なのだって、お前じゃないのか?」
(―そうだ、自分の方だよ)
無言の肯定に、匡直は真顔に戻り言った。
「匡直として行動した事は正確ではないにしろ、岸崎にちゃんと記憶として還元される。俺の意識は消えるが消滅するわけじゃない。形をかえて、通常業務に戻るだけだ」
「岸崎のことを本気で考えてくれるなら、そろそろ俺を解放してほしい」
淡々と言われると、もう頷くしかなかった。
日が昇ってくるにはまだ少し間があった。
今晩中に片を、という要求に恭が幾つか挙げた候補から、匡直はポットのお茶を啜りつつ廃校になった小学校を指差した。昔ミニバスの試合で一度だけ行ったとこだ。
「ここは?この際忍び込むか」
「廃校っていっても去年とかだから建物に入るのは無理じゃないか」
「それなら壁でも登るさ、学校なら死角がいくらでもある筈だ」
「登るってどうやって」
「どうとでも、爪さえ崩れればいい」
「無茶すんなよ」
恭は手袋を嵌め直し軽く返す。
終わりがどうなるかはわからなくても、今はやるべきことをやる。匡直の゛想い゛に触れたことで腹が出来た気がした。
出発し、風が出てきたと思ったらすぐに雨粒が落ちてきた。
雨と黒雲が星明りさえ奪い、一気に視界を塞ぐ本降りになる。
顔に打ち付ける雨は礫状態でもはや痛いくらいだし、いくら今晩中がいいと言ってもこのままでは凍えかねない。考えるが案も浮かばず、結局、恭は後ろを向いて叫んだ。
「匡直戻ろう!」
間があって止まった気配はあったが反応が無い。自転車を引いて戻った恭に向けた匡直の表情はどこか心あらずで戸惑ったが、このときは雨音が大きくて聞こえなかったのかと考えたに留まった。
「…えっと、明日の朝にしよう。この雨じゃもう無理だ」
視線が逸れた。迷っているように見えたがどこも見ていないようにもみえる。漸く返事をしたが浮かない貌だ。
「…どうかな」
「それじゃ一旦帰って、雨が止んだらすぐ合流しよう。もし朝でもどっか
やはり反応が鈍い。横殴りになった風雨に負けぬよう、恭は声を張り上げた。
「俺が起きとく。必ず連絡するから、いいよな?帰るぞ!」
「…いいだろう」
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