第6話

「嘘マジ?マジにこんなとこで生活すんの?」

 夏樹のブスリとした声に、傍らに立つ父が穏やかに、執り成すでもなく言った。

「お祖父ちゃんとこよりは都会だろう」

「お父さんの?ここでもう充分田舎じゃん。私やっぱり残りたかった、それかお父さんとこ行く」

「今更なに言ってるの、何度も話し合ったでしょう」

「でも 」

 母が割り込んで妹と話し始めると、後は生産性の無い会話が取り留めなく続くだけなので、秋はさっさとタクシー乗り場に向かった。

 秋の一家が父の故郷でもあるこの町に越してきたのは秋が中2、妹の夏樹が小6にそれぞれ進級する春だった。

 母の名目上は夫の転勤だが、実際は成績不振で私立中学からを勧められた息子と、おそらく自分の店の゛事情゛を、夫の゛転勤゛という降って湧いたと、前々から聞き知っていた夫の姉が所有する空店舗があるのを好都合に結実させた結果だった。

 詳細は知らないが賃料が格安で立地条件も悪くなく、心機一転して新事業の立ち上げるのに適したらしい。

 一家といっても父の赴任先は更に隣県の地方都市で、結局単身赴任は変わらない。そこは都市部だから唯一の被害者である夏樹がそっちに、と言うのも無理はない、と同情の気持ちもあったのだが、新しいマンションで自分より狭い部屋を割り当てられると「どうせ秋なんか呼ぶ友達いないじゃん」と再び文句を言い始め、秋はムッとして自分の荷物を手に広い部屋へとさっさと入り、扉を閉めた。

 泣き声になった妹と宥める母親の声が聞こえてきたが気にせず、スマホをベッドに放ると業者に開けなくていいと伝えておいた自分の段ボールから遮光カーテンを引っ張り出した。

 明るいと集中できないと買ってもらったものだが、本当は祖父に様子を窺われるのが嫌だったからだ。

 幸い2枚ある窓にサイズはピッタリ合った。面倒に思いながらレールのフックに布端を持ち上げ掛けて、思いがけず開けた眺望に秋は目を奪われた。このマンションは13階建で秋たちの住まいは12階にある。

 窓を開けベランダに出ると冷えた外気が頬に当たった。

(澄んでいる )と改めて思う。

 空気だけでなく、空の透明度も、景色の色も。

 広々とした空は低い位置まであって、下界とを分断するのは高層の建築物でなく、あまり標高のなさげな山々だが、タクシーで来る途中にも目にした高い建物といえば精々このマンション程度で、大概の山よりは低いだろう。

 空気を深く吸う。鼻孔から体中に綺麗な水を含むような気分になる。

 ここらが町の中心地だと聞いたが、いまいち信じられない。スマホ地図を見ても碌なものはなさそうだ。もう少し移動すれば超高層ビルの群れがあるんじゃないかという疑いがまだ残る。

 だけど夏樹のように泣き喚くほどの落胆はなかった。少なくともここからの眺めは悪くない、そう思ったのだ 。

 それが一年前の話で、もう窓からの景色に何の感慨も湧いてこない。空気も、なぜそうも感動していたのか今となっては不明だ。

 何もない田舎に越して丸一年、秋はこの4月から公立中の3年になる。

 3度目の転校だった。


 引っ越す以前、秋たちは祖父と一緒に暮らしていた。

 秋が小4の頃、祖母が亡くなって祖父一人になった為だ。祖父は母の店で顧問などしていたので、同居の話はすんなりと纏まった。

 祖父の家に越し、家族が増えた以外は生活が大きく変わることは無かった。学校もそのままで、両親ともに多忙なので週何回か家政婦が来る。

 多少変化があったといえば、妹と自分の習い事の送り迎えを祖父がするようになったくらいだ。「お祖父ちゃんの言う事をよく聞きなさいね」は小学生の頃、母が出掛けによく使っていた言葉だ。

 父は平日はほぼ顔を合わせることもなく、母も店を幾つか経営していて家に居ても常に何かしら忙し気に動き、合間に妹と意味があるのか分からない会話を延々していたので、秋は自然家では話す相手がいなかった。 ネットもゲームもかなり制限されていたし、祖父とは妹の夏樹ほどには会話が続かなかった。

 妹は見栄がバイタリティに繋がっているような母そっくりの気性で、祖父はそんな実の娘である母と、妹とを気に入っているようだった。父とはどうだか知らないが、実際この三人は仲が良く、だが秋は祖父とは根本的に馬が合わない気がしていた。もっと幼い頃から祖父と二人きりだと気づまりで、妹の様に甘えることも出来なかった。

 同居でそんな部分がより鮮明になっていき、確かに生活の変化は大きくはなかったが、秋は日常に、徐々に息苦しさを感じるようになっていった。

 そう感じる一つが祖父の叱り方で、決して大きくはないがよく通る声で、秋には怒るとか叱るというより恫喝でもされているように聞こえた。

 とはいえ理由が理不尽であることはなく、一緒に怒られても妹は一向にこたえている風もなくイベント感覚で受け流すので、秋も兄として黙って耐える他なかった。いつしか秋は、祖父の前では緊張し萎縮するようになっていった。


 唯一怪我の功名は、機嫌を取ろうと半ば強迫観念的な気持ちで必死に勉強をやったおかげで、祖父の希望した私立中に合格出来たことだった。

 だが校風は自分には不向きだった。

 入学すれば少しはゆったりするだろうと根拠もなく考えていたから、文武両道の名の下に朝8時から夕方4時までの授業に加え、武術系中心の部活動の全員参加、時代錯誤かという上下関係。更に週一で一日中着物に正座で授業を受ける日ありと、ふざけたカリキュラムは精神鍛錬の一環だったが、メンタルが鍛えられるどころか秋にとってこの校風は概ね逆効果だった。

 言われるがまま受験し、全て人任せでいた故の失態だった。前時代的で息を吐く暇もなく、また進度の早い授業は一箇所躓くと全教科に伝播して、成績も塾の順位も急降下で底這いを維持するようになった。

 夏の終わり頃、祖父が一時的に体調を崩したのを理由に、秋は祖父には絶対に成績表を見せるなと母に懇願したが、甲斐もなく3学期には三者面談が設けられ、進級は難しいと言われることになった。

 頑張ったとしても次の試験で進級ラインに入れる見込みは無いでしょう。担任の言葉と、大きな溜息を吐いた母親より、秋は祖父がどんな顔をするかと想像して血の気が引いた。学校は留年を認めておらず、進級出来なければ退学だったからだ。

 だが予想に反し、祖父からは何も無かった。

 代わりに数日後、秋と夏樹は珍しく揃った両親に呼ばれ、父の転勤の赴任地近くに一家で越そうと思うと告げられた。

 口には出さぬまま、秋は自分のせいだろうと思った。見栄張りな母親が近所に退学を知られるのを嫌がったか、でもというのは遣り過ぎじゃないか?

「ママはお店を畳むことにしたんだよ、だからパパがどうせなら一緒に付いて来てくれないかって頼んだんだ」

 全く知らなかった。最近祖父と母がテーブルで話し込む姿を見た気はするが、予想もしない出来事だった。

「先を見据えてのことよ。お祖父ちゃんと相談してね、新しい事業を始めるわ」

 幸い事実のようだったが、たとえ経営が不振であったとしても母は認めなかっただろう。


 こうして一家は一年前、この町に越してきたが、祖父はこの年で転地などしたくないと言い、また体調の不安も残り、医療機関が充実する都会にという周囲の言葉もあって、母の妹家族も近くに住む高齢者マンションに入居し同行しなかったのは、悪いと思ったが正直安堵した。

 秋の事情を知ってか知らずか、祖父は見送りに来た日にも何も言わなかった。

 転入した町の私立中学は少人数制(人口自体少ないからだろう)で、こじんまりとしていた。

 当初から落ちこぼれだったと公言していたが、授業のレベルは高くはなく、秋にとっては復習だった。ついて行けないということも無くなり、すぐにトップに躍り出た。秋は多少目立つ存在になり、囲まれて前の学校のレベルや流行はやりなど聞かれることも多くなった。

 校風なのか、学園全体が牧歌的で見かけ上荒れた者もおらず、入ったクラスも大人しいが集合したようなとこがあり、秋はこの緩い学園とクラスメイトをいつしか見下していた。おだてられ、いい気になっていたのだと思う。自分ではまあまあ上手くやっているつもりだったが、態度の端々でクラスメイトらは不満を溜め、発散の機会を狙っていたのかもしれない。


 きっかけは文化祭後に行われるクラスごとの合唱コンクールだった。放課後練習を秋は2度スルーした。自主参加だと聞いていたのだが、全員参加が暗黙の了解だった。

「ごめんごめん、今日から出るわ」

 やんわりと言われ、それならそうとはっきり言えよと思いつつ、愛想よく返したつもりだったが、後から思えば秋が参加した日から空気が微妙だった。

 最初は空気を読めてなかった自分が練習に加わって、ちょっとした非難の目もあったのだろうなどと考えていたが、この日辺りからクラスでの居心地はどことなく悪くなっていった。

 ゛どことなく゛というのは、あからさまに何かあるのでなく、ただクラスのLINE連絡網が1人だけ回って来ず、尋ねるとおかしいなと首をひねられ、会話には加われるが秋の言葉には以前より反応が鈍かったりと、徐々に敬遠され、クラスの輪から外されていくようなものだったからだ。

 とはいえクラスメイト達の変化をさすがに自覚しつつあった合唱コンクール当日、ステージに設けられたひな壇の2段目、右端から2番目に秋はいた。

 自身の記憶では、秋は最上段の3段目の誰かに押され、下の段に落ちそうになった。どうにか持ちこたえたのは合唱前、背後で忍び笑いなど不穏な空気を感じ用心していた賜物だった。

 ただ代わりに突然動いた自分に驚いた左隣が足を踏み外しそうになって下段の女子を押してしまい、その女子が運悪く付いた手の平と膝小僧に打ち身や擦り傷をつくってしまった。

 

 秋は無論、起きた通り事実を言った。

 だが秋の言う、後ろから押したというなど見ていないとクラスの連中(もしかしたらステージ外から気づいた者も)は口を揃え、挙げ句、発端は秋が合唱中にふざけて動いたからだということになり、事態はことごとく秋に悪い方へ転がっていった。

 いくら合唱中だったといって、目撃者が1人もいないわけがない。なのにクラスメイトどころか担任さえも、学校の誰一人、秋を擁護しなかったのだ。

 担任から連絡を受けた母親も振るっていた。

「俺はやってないって言ってるだろ、誰か後ろの奴に押されたんだって」

「ええ、分かってるわよ。でもクラスのお嬢さんが怪我してしまったのは事実なんだし」

「最初に押した奴じゃん原因は」

 大体派手に転んだようにも見えなかったのに、なぜ両膝に包帯なのか理解に苦しむ。

「ええそうね、でも先生が仰るには誰も見てないし、気づかなかったって、歌ってる最中でしょ?うっかり押しちゃって、ということもあると思うのよ」

「…どういう意味だよ」

 母はしまったという顔をしたが、押し切ろうとした。

「 とにかく一度そのお嬢さんと親御さんに謝りに行きましょう。明日にはパパも帰ってくるから、あちらの方、航空関係にお勤めですってよ、お母さんは元…」

 きゃっ、と母親が悲鳴を上げた。秋がテーブルを思い切り叩いたからだ。こいつは昔からそうだ、大事なのは見栄、外聞。今も秋を庇うより取り敢えず謝って体裁だけでも取り繕いたいという思考が透けて見える。

(これが夏樹なら母の対応も違っていただろうか )

 自分の考えに傷つき、傷ついた自分に腹が立ってそこら中の物を叩き壊したい衝動に駆られたが、すんでで祖父の顔が浮かんだ。情けないが、これが母から祖父に伝わったらと怖くなったのだ。

 

 翌日父が帰ってきた。

 昔から仕事で滅多に家にいないが、母とは正反対に穏やかで怒られた記憶は殆ど無い。ただ祖父の陰にも隠れ、未だにどんな人かよく分からない部分がある。

 部屋から出なかった秋に、その父はドア越しに言った。

「話は聞いてる、父さんは謝りに行かないよ。秋が自分ではないと言ったんだ、先方にもそう言った」

 父だけが自分の言葉を信じた。嬉しかったが、普段会話もしない父親に気持ちをどう伝えたらいいか分からず、戸惑っているうちにドアから気配が遠ざかった。

 父は信じた。信じたのに、母が謝りに行くのは止めなかったようだった。二人の親の行動が理解できず、秋はどちらにも落胆した。

 

 

クラスでは真実を全員が知っている雰囲気で、一部は女子の怪我が秋のせいでない事実の他に、犯人が誰かも知っていた。

 当然コンクールの出来事で何か言われることは無かったが、相変わらず緩く無視や疎外は続き、担任も分かっていながら何もしなかった。

 全てはうやむやになっていき、同時にクラスの雰囲気も確実に悪くなっていった。全てを示し合わせたわけではないだろうが、結果、秋の立場を悪くするために、クラス全員が口をつぐんだ。

 この後ろ暗い団結がおっとりと、それなりに纏まっていたクラスをおかしな方向に行かせてしまった。

 そしてそれは、やっぱり自分のせいなんだろうと、秋は思った。


 曲がりなりにも難関私立の受験を勝ち抜き、1年間はあのスパルタ式な学校に、これだけは自慢だが、無遅刻無欠席で通い続けたのだ。祖父のことはともかく少しはメンタルも体も強化されたつもりだったが、退学といい、こう立て続けに色々あると何となく気疲れして、真っ直ぐ立っている筈なのに、秋はどこか常に体が傾いてるような気がしてならなかった。

 細かいことばかり目が行くようになり、リビングで宿題する夏樹が消しゴムのカスを残しただけで怒鳴ったりしたので、最初はケンカになったが、段々自分がリビングに入ると夏樹は逃げ、母親もあからさまに機嫌を取ろうとしたり、腫れ物に触るような接し方をしてくるようになった。

 家では持て余され、クラスではトラブルメーカーだった。

 ある夜、連休を利用し遅くに帰って来た父を最寄りまで迎えに行った母が、戻ってきて玄関で話すのを秋は聞いた。

 気まぐれで父を出迎えようと、扉を開けかけていた。

「 話そうとしてもピリピリしてダメなのよ、一度あなたから話してくれない?やっぱり男同士の方がいいと思うわ。もうホントお手上げ、夏樹にまで影響が出て可哀想で 。そうだ、あの子寮に入ることになっても構わないって、まだ新しい学校だけど実績もあるし、受かる学力があるんだから、いっそそういう挑戦もいいかと思うのよ 。」

 秋は僅かに開いた扉を閉じた。

(いつ、あんたは何を話そうとしてきたよ?)

 怒りで頭がガンガンしてきてボウっとなった。

 それくらい頭にきた。

 そもそもこいつは話を聞こうとしなかった。分かってくれようとしなかった。いつも、そうだ。話といえば一方的で近頃はそれすらなくて、ピリピリしてるって、それを注意するのがあんたら親の役目じゃないのかよ?

 父なのか、何度かドアをノックされたが無視をした。ヘッドホンをつけ秋はゲームに没頭しようとしたが、むしゃくしゃし、他の何をしても気が散ってしかたなかった。

 

 休み中部屋に籠り切り、月曜に目が覚めると既に1限目が始まった時刻だった。

 部屋から出ると人気ひとけは無く、朝食の置かれたテーブルに起こしたけれど起きなかったので、学校には遅れると連絡をしておきました。と母の字で書かれたメモを見つけた。

 眠れず夜更かししたせいかもしれないが、ノックの音すら記憶に無い。母は朝は比較的ゆっくりしていたので、これまで秋が目覚ましを忘れても二度寝しても起こされないということはなかった。

「 …」

 シンとしたリビングで秋はメモを見つめた。

 落胆しそうになる気持ちをどうにかフラットに保とうと、冷めてカサついたトーストを飲み込み制服に着替えたが、それ以上はなぜか根が生えたように動けなくなった。

 2学期半ば、以来、秋は登校しなくなった。

 訪れた担任と、苦悩の母を演じる2人に学校は辞めると言った時、同時に浮かんだ母親の安堵と厄介払い出来たという担任の顔を見ても、胸糞の悪さより目の前からさっさと失せろという気分が勝った。

 もう一人になりたかったのだ。SNSも全て断ち、秋は一層部屋に籠もるようになった。昼過ぎに起き、殆どの時間をゲームやネットに費やして、寝る前の明け方前か、深夜に気分転換にコンビニに行って寝る。

 秋の引きこもりに父からは何も無く、祖父にも話は行ってないようだったが、代わりに父方の、というカードを切ったのだろう、年明けに来た祖父母は知り合いの子も行って良かったからというフリースクールの案内を持ってきた。

 親はもう自分とはまともに向き合う気もないのかと、秋はまた激しく怒りを覚えたが、優しく孫を気遣う祖父母の心配まで突っ撥ねることは出来なかった。促され何回か通ったが、アットホームな雰囲気があのクラスを思い出させて足が遠のき、結局、祖父母の手前、地元公立中への転入手続きだけは済ませることになった。

 父の祖父母への義理を済ませれば、秋の生活はまた元の不機嫌で無為な生活に戻っていった。

 

 秋はコンビニを出ると、スマホを見ようとしてバッテリーが残り少ないことに気づいて舌打ちした。

(帰って充電しないとな)

 マンションまで歩いて10分足らずだが、ここ数日は絶えずいじっていたから使えないと苛々してくる。

 数日前、真新しい制服がテーブルに置かれてあって、公立中への転入が間近に控えることを自覚すると、急激に不安に襲われだした。要は不安からの現実逃避でよけい手放せなくなっていた。

 秋は渋々スマホをしまい顔を上げた。

 出掛けるのは気分転換といいつつ画面を見ていることが多いので、意外と周辺が新鮮に映る。午前3時から4時くらいにほぼ毎日歩いているが、国道沿いに出ても車の通行は数えるほどで、人に至っては会った例がない。母親は秋が深夜出掛けることに気づきもしなかった。

 …不安なのは、度重なる環境の変化より前の学校のことをネタに嫌がらせを受けないかということだった。同じ町での転校で、話などすぐに伝わる。

 国道の歩道橋が目に入ったからだろう。

 ふと(死んでしまえば )と秋は思った。

 前に事故でもあったのか、本来の欄干の外側に、どう考えても後からで倍の高さはある金網フェンスが取り付けられている。事故防止、言ってしまえば自殺防止だろうフェンスを乗り越え、下に落ちればまず無事に済まない。

 そうすれば自分をハブッたクラスメイトらはきっと後悔する。親も、祖父も、死ねば皆、自分がそれほど苦しんでいたことに気づきショックを受けるだろう。でももし運よく一命を取り留めれば周りも変わり、自分も生き返った気持ちで一歩踏み出せる。そこまで考えて、秋は嗤った。

「なんだ、全然本気じゃないじゃん」

 要するに自分はこの窮状を知らしめ、状況から抜け出すきっかけが欲しいのだ。だから゛万一゛のことを考える 。

 気づくとバカバカしくなった。

(あんな奴等のために死ぬとかアホだろ)

 学校への不安は変わらなかったが少し心が楽になった。自分はあいつらに完全に追い詰められてはいないと、思えたからかもしれない。

 どれくらいか振りで心の中に差した薄明りを感じながら帰宅し、玄関に入ったところでコップを持った母親に出くわした。母は驚いた顔はしたものの、それだけだった。

「…夜出歩くくらいなら昼間にしてちょうだい。新しい学校にでも行ってみたらどう?部活してる子にでも声掛けて 」

 口を開こうとして喉が痙攣した。言いたい事がたくさんある筈なのに声が出ない。

「 …うるせぇよ、ばばあ」

 漸く出たのはこれだけだった。

 秋の言葉に化粧っ気ない母親の寝起きの顔がひるんだ。固まった素の母親を見て秋も僅かに怯み、それを悟られたくなくて急いで自室に入ると扉を閉めた。怒りと失望が再び秋の心を占める。

 こんな時間に出歩く自分に母親は心配の言葉さえ掛けようとしなかった。そんな言葉を期待して、またショックを受けている自分にも苛立つ。

 この前ほどの激しい怒りは生じてこなかったが、無性に悲しくて胸が潰れそうだった。更に言葉にすればより惨めさが増しそうで、代わりに秋はあの歩道橋の事を思い浮かべた。

( 苦しめばいいんだ)

 自殺者の出た家など外聞最悪だ。都市部なら情報が紛れても田舎ならどうか、虚栄心の強い母親への打撃は相当なものだろう。

(いい気味だ)

 戻ったばかりの家を出て、また歩道橋に向かった。

 さっきより闇が薄らいできた気がするが、依然町は静まり返ったままだ。

 負の感情のみでごちゃごちゃになった頭のまま、秋は歩道橋の真ん中に立った。フェンスの金網に手を掛けて揺らし、足を掛ける。取り付けられたフェンスは安定感があるとはいえず、靴だと登りにくい。よく飛び降りで揃えられた靴のシーンがあるが、あれはフェンスだのを越えるのに邪魔だからなんじゃないかと秋は思う。よじ登ると直ぐに天辺てっぺんに手が着いた。

 下を覗くと思った以上に高かった、落ちればまず助からない。薄いフェンスだけで身体を支える不安定さに俄かに恐ろしくなったが、秋は思い切ってフェンスの外へ片足を出してみた。

 無意識に唾を飲み込み道路を見下ろす。とっくに飛び降りる気など失せていたが、寒さとは異なる体の内側からの冷たさが全身を襲い、ふちを握る手が震えた。

 動揺が体のバランスを僅かに崩し、フェンスが揺れた。

「うわっ」

 秋は声を上げ、何とかフェンスにしがみ付く。青ざめて動悸が体中を支配する。ガシャッと鳴った金網が耳を打った。前のめりになった体を少しでも揺らさないように細かく、慎重に息を吐きながら、恐る恐るフェンスの内側にある足を下ろそうとして金網に靴底を滑らせた。

 今度は声を出す間もなく、力を込める間もなく震えたままだった手も離れ、体は道路側にスルリと落下した 。心臓が止まり、時間までが止まったように感じた瞬間、秋の体は厚い布っぽい何かに捉えられ、一度何かにバウンドし、また何かに、誰かに体を持ち上げられたまま跳躍したと思ったら、着地と同時に体がアスファルトの上を転がった。

 秋は咄嗟に体を丸め衝撃を和らげる。

「大丈夫かっ」

 駆け寄る靴音と自分より少し年嵩としかさの男の声が聞こえ、前で止まった。その相手はわけが分からずバクバクとなる心臓音がおさまらない秋と、もう一人の誰かに言っているようだった。

「ああ、服が擦り切れたくらいだ」

 背後から転がったままの秋と同じ高さで声がした。

「おいお前、あんなとこで何してた、危ないだろ」

 前に回って来たその声に、肩を揺すられ詰問される。

 揺すられて、秋は覗き込んできた相手と目が合った。怖い目で睨まれて思わず目を逸らすとその後ろに立つもう一人とも目が合って、慌てて逸らした先に倒れた自転車が目に入った。

「  」

 考えるより先に体が条件反射を起こした。秋は起き上がるなりその自転車に飛び付くと、引き起こしながら跨った。何か荷が解けたのかカラコロと音がした。

「あっ!」

 立っている人の自転車かと一瞬躊躇ったのに反し、足は猛然とペダルを漕ぎ始めている。

「待ててめえっ」

 声はあっという間に遠ざかった。


(ヤバイ、ヤバい、マジやばい)

(なに逃げてんだよおれ、しかも自転車盗っちゃってるよ)

 半ばパニックを起こしながら秋はメチャクチャにペダルを漕ぎ続けた。やばいを連呼しながら自転車を飛ばし、気づくと知らない場所だった。

 自転車を止め背後を確かめ、誰も追って来てはいないのにホッとする。まだバッテリーが切れてなかったスマホで位置を確認すると、マンションからそう遠くは離れてない。

(自転車どうしようか…)

 持って帰るわけにもいかず、かといって乗り逃げした自分が交番に届けるわけにはいかない。

「 乗り捨てるしかないよな」

 目一杯自転車を漕いで掻いた汗が引いてくると、秋の頭も漸く冷えた。

「俺、相当キレてたんだな…」 

 母親の言葉にキレて、腹いせに死んでやろうなどあまりに短絡だった。本当にそれを考え実行する人はきっと、相当の覚悟を持っているか、それ以外に考えが及ばないほど追い詰められた人だと思った。少なくとも衝動任せで、フェンスから下を覗いただけで震えた秋には出来るような事ではなかった。

 俄かに思い出し、ゾッとする。漸く自分は助かったのだという実感が湧いた。

(あの人が助けてくれなかったら今頃は ?)

 秋はその場から動けなくなった。その時にやっと、その異様さに気づいたのだ。

 縁から手が離れたと思った時にはもう、降って湧いたように(秋にはそう感じた)人が現れて秋を抱え、おそらく通過する車を踏み台に歩道に避けた。

 意識を集中させ、途切れ途切れの記憶を繋ぎ合わせた上で、秋はその結論しかないと思った。普通の人間に出来る技じゃない。なのに動作はスムーズで無理をしてるようには感じなかった。

 もし自分を驚かせないようこっそり近寄っていたのだとしても、普通なら下から手を伸ばして足を摑む。それも間に合わずフェンスを登ったとしても、やはり手を伸ばして背後から秋を捉えようとするのが精々だ。下手をすれば自分まで巻き添えなのに、あの助け方のほうこそ自殺行為だと言っていい 。サーカスの団員でも、世界レベルの体操選手だとしても可能性としてしっくりこない。まるで特撮かマンガの世界だ。

 つまりさっき起こったことの全部が普通ではなかった。

 自分を助けたあの人物は危険を顧みる必要のない、驚異的な身体能力を持ったな人に違いなかった。

(もう一度会いたい )

 不意にそんな気持ちが芽生えた。なぜかあの人にもう一度会えれば何かが変わり、今の状況を打ち破る勇気が得られる気がしたのだ。というより、とにかくもう一度会ってみたかった。助けて貰ったお礼も言ってなかったし、可能なら色々聞いてみたい。テンパっていたとはいえ自転車を乗って逃げた非礼もお詫びしたかった。

「そうだ、そうすりゃいいじゃんか!」

 逃げる最中は気づかなかったが、自転車は安物には見えないが趣味というより通学用っぽい。うろ覚えだが声や体格からあの人は自分より少し上、高校生か大学生くらいに感じられた。

 日常的に使っているのならきっと困っているだろう。(怒ってもいるだろうが、そこは考えないことにした)

 カギに付けられた凝ったキーホルダーも目に入った。

(いい取引材料になりそうだ)

 きたないやり方だが、この際どんな手を使ってでも会いたい。

 秋は自転車に乗り直し、マンションへと自転車を走らせた。

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