第3話

「で、フェンスは乗り越えられるのか」

 再び表に出て道すがら魚の話をしてみると、興味が湧いたらしくどんなのがいるのかとかやすしに聞いた岸崎の、次の言葉がこれだった。

「いやダメだから…」

 有刺鉄線など無かった筈だし、足を掛ければ乗り越えられる高さだが、発想が小学生だ。

「でも上から覗けるし、それで見えなくてもスマホで川の中ズームしたら、魚いるか分かるんじゃないか?あ、でもホント久し振りだから、いるかどうか分かんない …あれ」

 恭は立ち止まった。おかしなことに気づいた。

「岸崎自転車 、足いいのか」

 自転車を置いてきたのはいいとして、右足を捻挫している筈の岸崎が、いつからか不明だが、さっきからほぼ普通に歩いている。

 歩きづらそうにしてたのは、靴ひもを辛うじて結べるくらい緩めてあったからで、よく見るとその右もしっかりと踏み締めて歩いている。

 言われて初めて本人も気づいたらしく、立ち止まると包帯で緩んだ靴の足元をじっと見て、ゆっくり上下左右に動かした。

「 全く痛くない。…おそらく完治してる。 ゛爪゛かもしれない」

 爪、と言われて何のことかと戸惑ったが、すぐに気づいた。

「そんな力ないけど」

「でも治ってる」

 岸崎は靴を脱いで包帯を取り払い、足首のシップを剝がす。

 少なくとも腫れてる様子はなさそうだ。

「捻挫は今日の部活中だ。ひどくはないが、数時間で庇わず歩ける程度ではなかった」

「て言ってもな…岸崎さっき言ったろ、人に刺さっても爪の作用自体は変わらない筈だって」

「爪の変質の影響で、別の力が発生した可能性がある。変質が力の増強に繋がっているとするなら根拠も充分だ」 

 さすがに捻挫まで疑わないし、否定できる根拠もないが、さすがに簡単に認めるには抵抗がある。

「…可能性はあるかもしれないけど、いきなり力の種類まで増えたりしないんじゃない?もし捻挫を治すような力を発揮してたら、とっくに彫爪部分、崩れてそうだし」

 爪に負担が掛かるのは量より質だ、これだけ力の質が上がれば劣化などあっという間だろう。

 だが岸崎は首を振った。

「あまり爪を過小評価しない方がいい。現に足は治っている。言った通り爪の変質が力を増強させていることは充分あり得るんだ。それなら出来ることが増えても不思議はない。…出来ること、出来ることか… 」

 何か気になるのか途中から独り言のように呟いた岸崎は、沈黙したまま解いた包帯とシップを丁寧に丸め、ポケットに突っ込みながら歩き出した。

 本当に痛みはないらしく、早足で黙々と進む。

 慌ててついて行きながらふと気になった。そういえばこいつ、自転車はともかく財布とか持ってきてんだろうか。岸崎の新しいスマホもどっちが拾い、その後どうしたかも記憶にない。

 コンビニで岸崎は無言のまま恭と全く同じものを選び、一緒にレジの前に立つと、品物を置いたまま動かなかった。

 恭はスマホの件は後で聞いてみようと思いつつ、2人分のパンやオニギリの支払いをしながらまた気づく。別人岸崎に、日常生活の知識はどのくらいあるのだろうかと。


「あそこか?」

 坂に入ってすぐ左手にある広場を見て岸崎が言った。

「来たことない?」

 岸崎の家がある地区とは逆方向だが、大した距離でもない。とはいえ中学校の方向ではないから、意外と通ったことのない道なのかもしれない。

 旧道は新しい道の下にあったので、旧道広場は坂道から見下ろす位置にある。上り坂から、広場に向かう緩い下りに逸れながら岸崎は言った。

「あるんじゃないか、岸崎は」

 今度は時間差で、恭は言葉の意味を掴み兼ねたが、これもすぐに気づけた。同時にこれは、コンビニで感じた疑問の答えを聞く端緒でもあった。

「岸崎の記憶は岸崎に全部あるわけじゃないのか 」

 言って2人して紛らわしい、という表情になった。岸崎が先に口を開いた。

「俺のことは匡直ただなおと呼べ」

「分かった。俺は加田でいいから、岸崎もそう呼ぶし、名前でも 」

 別人岸崎になってからお前としか言われないのが気になっていた恭は、機を逃すまいとすかさず返したのだが、岸崎、匡直は、妙にきっぱり嫌だと言った。

「゛お前゛でいい」

「なんでだよ」

「別にいいだろ、もとは目上に対して使ってた言葉だ。漢字に変換しろよ」

「確かに字面だけ見りゃそうだけど、それなんの関係があるんだよ」

 急に向きになって言う岸崎、いや匡直に、恭は半分呆れ、半分抗議の気もあって言い返した。正直壁を作られたようで寂しくもある。

「この身体はお前の爪の影響下にある。゛俺゛という形で抵抗はしていても、支配下にあるのは事実だ。だから゛お前゛は爪の持ち主への礼儀だとでも思っておけ」

「……」

 礼儀だとか言いながら、思い切り忌々し気だ。

 つまり、支配者への抵抗と服従の狭間での妥協点が゛おまえ゛だということらしい。思考まで捻挫してそうだ。

「礼儀とか、いらないけど」

「いる」

「加田っち」

 友人の片町はこう呼ぶ。

「嫌だ」

 頑として譲りそうになく、他に名案もなく、取り敢えずはと、恭は折れるしかなかった。

 自称、岸崎の免疫機能から発生した存在なら、性格も似てそうなものなのに、゛匡直゛は恭の知る岸崎とはまるで異なる。仮にいつもの岸崎がキャラを作っていたとしても、素が匡直だとかはまず有り得ないだろう。あまりにかけ離れてイメージすら湧いてこない。

( もしかして、抵抗勢力だからあえてそういうキャラなのか?)

 横を盗み見ると、匡直はちょうど広場の入り口で足を止めたところだった。恭も半歩遅れて隣に立つ。

「静かだな」

 匡直は到着した旧道広場を見回し、それから広場の真ん中まで歩いて空を見上げ、目を細めて太陽を少しの間、凝視した。恭もキョロキョロと見渡すほどでもない広場を見回す。

 気のせいか暫く来ないうちに、どことなく殺風景な感じになっていた。雑草が蔓延はびこったりというわけでもないが、当時も古かった幾つかの遊具は既に無く、唯一丸太で出来た飛び石は残っていたが、ペンキが剥がれ落ちたり、木が欠けたりしているのが、物悲しさの原因になっているのかもしれない。

 人も、休み中なのに1つあるベンチに年配の女性が犬と一緒にいるだけだ。きっと小学校の隣に新設された児童館のせいだけでないだろう。

「あっちだな」

 向かって右が新道の坂側でコンクリブロックの土手があり、左手がフェンスだ。ちなみに正面はまた道で、上り坂を行くと新しい道に繋がる。

 匡直は言いながらもう金網フェンスに向かって歩き出していた。


「 …」

 小さな川は土手と同じく白いコンクリ製の、本当の溝になっていた。

 水は澄んでいたが、水底はのっぺりして、生き物が姿を潜める石や草陰も当然なく、流れに勢いもあるため一目でとても小魚が棲めそうにないのが知れた。

「ごめん…いつ整備されたんだろ」

「まあいいさ、でも魚、どこ行ったんだろうな」

 何となく切ない気分になって、恭も匡直の隣で金網に凭れた。フェンス越しに溝を覗き込みながら、匡直は小さく息を吐いた。

「飯、食うか」

 どちらともなくフェンスを背に腰を下ろし、恭はコンビニ袋から照りマヨラードパンを出した。パッケージを破きながら、ついでに半端になっていた話を聞く。

「さっきの話だけど、岸崎の記憶がそのまま匡直にもあるってわけじゃないのか?」

 匡直がかぶりついたオニギリを飲み込む。

「 というより、必要なこと以外は曖昧としている、といった感じだな。この場所もお前の言うことを手掛かりに、ぼんやりと思い出せはしたが、他人の記憶みたいな部分もある」

「そりゃまあ、匡直の存在に俺の爪も絡んでるんなら、半分岸崎とは別人、みたいなとこもあるんじゃないか」

 それならば素と違い過ぎることの説明もつきそうだと、何の気なしに言ったのだが、強い口調で匡直は言い返してきた。

「俺は岸崎匡直だ。お前の爪が原因で生じた存在だとしても、お前の爪が生んだものじゃない。 間違えるな」

「  」 

 その剣幕が却って岸崎の、匡直の不安を感じさせた気がした。

 爪の力同様、常識からすれば己が訳の分からない存在なことを、匡直はちゃんと理解している筈だ。それ故に自己の存在に戸惑ったり、不安に思っていたりしても変じゃない。

「だよな、ごめん」

 謝ると、匡直は「分かればいい」と言ってパックジュースを取りかけて、手を止めた。止まった、という方が正しいかもしれない。

 顔を上げた匡直の視線を追うのと、「じっとしてなさい」とベンチの女性が上体を浮かせて叫ぶのが同時だった。

 視線の先、土手の上のフェンスから小学生低学年くらいの女の子が身を乗り出していた。坂に沿ってある広場だから、土手も坂に合わせて高くなる。その一番高い位置に、なぜそうなったのか分からないが、きっと土手側のフェンス真下に落ちた水色のカバンを取ろうとしたのだろう。体が前のめりに浮いてしまっている。側面の金網を必死に掴んでいるが、今にも転がり落ちそうだ。

 それらは瞬時の視覚情報で、とっくに恭も匡直も駆け出していた。

 土手の勾配は急ではないが、転落して途中で止まる可能性は低い。女の子の下方辺りに埋め込まれた丸太があるのに気づいて青くなる。

 金網を摑む手の片方がずるっと滑るのが見えた。

「間に合えっ」

 駆けながら四肢に一層力を込め、恭は自らを鼓舞するように叫んだ。

「 間に合う」

 一瞬の間の後、言葉だけを置き去りに切るような風が脇を通り抜けた。恭は驚いてたたらを踏み、よろけながらそれが匡直だと気づいた時にはもう、土手を駆け上がった匡直が、転がり落ちる寸前だった女の子を支え、道路側に押し戻してやるところだった。



「とっても足が速いのねえ、お友だち」

 息を切らして追いかけてきた女性が感心したように言うのに、恭は曖昧に頷いた。

 本音は到底、間に合わないと思っていた。

 あのを聞いた位置からでも、タイム測定できるくらいの距離はある。わずか数秒で土手の上まで駆け上がるのは恭も含め、普通ならまず無理だ。人並み外れた脚力でもない限り。

「良かったこと、怪我はない?」

 下から女性に声を掛けられ、女の子がまだ体を竦ませたまま、ぴょこんと首を縦に振った。

 匡直はカバンを拾い、フェンス越しに何か話しかけながら女の子に渡してやった。怖がらせないようにか、岸崎に近い顔になっている。

 近くで見るとカバンはボックス型で、フェンスの隙間からは取れなかったのだと分かった。女の子は手を上げてカバンを受け取ると、もう一度ぴょこんとお辞儀し走り去っていき、女性は匡直にも労いの言葉を掛けると、「私もそろそろ」と言ってベンチに繋いだ犬の方へ戻っていった。


 女性が背を向けると匡直は土手から飛んだ。

 助走も力みも無い跳躍で、やろうと思えば出来なくもないが、助走も力みも必須の高さを、匡直は着地も乱さず難なくやってのけた。

「カバンを回しながら歩いてて手が滑ったみたいだ」

 迎えた恭に匡直は言った。

「足、速いんだな…並の運動神経とは思えなかった」

 他に言い様がなく、やや呆然と返事を返す。

 匡直は無理に作っていたらしいを即行はがし、低温状態に戻っている。

「岸崎の身体力に常人離れしたところは皆無だ。だからこれは爪で生じたもの。 ただ、力が増えたわけじゃない」

「?どういうこと」

 明らかな異変が起きて、とはどういうことか。

「これは単に爪が力を行使する為の゛環境設定゛のようなものだと思う。

その彫爪の支配は言い方を変えれば、ただの木には出来ないことを可能に、動作させる力でもある。それは対象が人なら、常人には出来ない動作をやらせることが可能な力だってことになる」

 ここまではどうだと目で問われ、恭は頷く。理解の範疇だ。

「 ただ、対人の場合にはそうした動作をさせるには身体の強化、運動能力の向上が不可欠だろう。だから岸崎の体内の爪片は、まずそれが可能な環境を岸崎の体に作り出した。…俺が人格を持ったのと似た理由だな。そうしなければ゛出来ないこと゛をやれない。足が治ったのはおそらくこの過程での余波だ」

 つまり、と匡直は一拍置いた。

「結論から言えば、お前は俺に常人、つまりお前自身の出来ないことを要求すればいい。さっき『間に合え』と言ったように、そうすれば俺をコントロールできる」

「?ちょっと待て」

 恭は止めた。思い違いがあるし、矛盾もある。

「『間に合え』って言ったのは要求とかじゃなく、俺自身に言ったんだ。それに今お前、俺が何も言わなくても土手から簡単に飛び降りたろ、あれだって普通の人間だとかなり難しいぞ」

「そうだな」

 意外にもあっさり認めた。

「試したいことがある。何か命令しろ。速く走れとか、跳躍しろでもいい」

 土手から距離を取りながら匡直は言った。

 考えが読めないのは端からだ。理由は後で聞けるだろう。

「いいけど、それ普通の命令じゃないの?」

 構わない、と言うので恭はちょっと考えて発した。

「その場で思い切り飛び上がれ」

 何も起こらない。

 つと体を屈めた匡直は、地面の砂利を一つ摘んだ。グラウンドで見つける石粒と粒子が固まったようなあれだ。

 拾い上げると同時に目の前の土手目がけて投げ、次の瞬間コンクリ表面に細かな白煙が散った。強い衝撃で砂利が砕け散って粉になったのだ。

 恭は匡直を振り返った。

「これで確信が持てた。俺が命令を聞かなかった、というより聞けなかったのは、お前自身に問題があるってことだ」

「…俺自身の問題?」

 匡直は頷いた。

「もう一つ分かったことは、人、俺をコントロールするにはその命令に゛強制力゛を加える必要があるってことだ。この高い身体力は俺の意思のみでも使えるが、それをお前がコントロールして使おうとするなら、命令に強制力が必要になる。 命令を下す際の゛強制力゛が足りないと、多分俺は無心になれない。今やったことは、それを確認する為だった」

「…今の俺の命令に、強制力が欠けていたから、匡直は実行しなかったってことだよな?」

「出来なかった、だ。゛強制力゛っていうのは、おそらく…精神力、心の強さ、気持ちの強さ。さっきのあの切迫した状況下で言えば、必死さ。 そういうものが、命令する上で必要で、それが俺への強制力、コントロールに繋がる」

 やや古風に言えば『念ずる力』、だろうか。

「お前は言ったよな、『間に合え』と、あの状況であの子の転落が免れないのは分かっていた筈なのに。そこには無理でも『間に合って欲しい』という、言外の強い気持ちがあったんじゃないかと俺は思う。違うか?」

「…何とか助けたい、とは思ってた」

 衝動で出た言葉だ。気持ちなど覚えてないが、必死だったのは確かだ。「俺はその言葉を聞いた時、咄嗟に応えられると思った。思った時には確信に変わっていて、体が勝手に動いてた。お前自身の意図はどうあれ、あの時お前は俺に、不可能なことを要求したに等しかったんだ。だから俺はその言葉の強制力に反応し、無意識下で体が動いた。これが解答で間違いないと思う」

 異論と言われても説明について行くのがやっとだ。木との比較くらいしか自分には出てこない。

「…どんなに強く念じても、木は碌なこと出来なかったのにな…」

 自嘲気味に呟くと、何の奇跡か慰めるように匡直が言った。

「とはいえ、こちらもあくまで岸崎から引き出せる身体能力ので動けるのみだ」

 苦笑って返し、残念だ、と心から思いながら恭が右手の彫爪をしげしげと見つめると、匡直が近寄ってきた。

「左も見せてみろ」

「 ひびが入ってる!」

 痛みもなく、刳り貫かれた模様の一部から爪表面の歪みを辿り、小さなひびが入っていた。

「…彫爪のより早い劣化条件が量より質なら、このひびは強制力を持った時に入ったと考えるのが自然だな」

「それって女の子を助けた時の」

 匡直は頷き、ややあって土手の一番高い場所を指差した。

「おい、ちょっとあの土手の上に 」

「イヤだけど⁉」

 切迫状況を作って、強制力ある命令を出させようというのだ。

 自分が危険な状況に陥って匡直に助けを求める、というのはそれは切迫感ありまくりだろう。が、例えば土手から落ちる瞬間に、タイミングよく声が出せるとは限らない。それ以前に人道的にどうかと思う。匡直とて人を守る人、の筈だ。

「そうか?」

 本気ではなかったと見えて匡直が半笑いで引く横で、恭は必死に対処策に頭を巡らせ、運良く捻り出すことに成功した。

「力を増やしたわけじゃないけど、高い身体力を維持したりするエネルギーは爪から出てるんじゃないか?」

「可能性は高い」

「それならその高い能力だけを、命令無しに単純に使いまくることも、爪の力を消費することにならないか?質より量になるだろうけど、変化が出始めたら劣化は早いし 」

 同意の代わりに匡直は宣言した。 

「方針は決まった」


 





 

 

 


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