土木工学 (X+3年9月)

「部長から、大学で勉強してこい、と言われたんだ。」

「えっ、県庁をやめるの?」

「いや、職員として給料をもらいながら4年間大学にかよわせてくれるっていう、ありがたい話なんだ。卒業できなくても4年で終わりだけどね。」

「茂くんのところの部長って、土木部長だよね。土木を勉強してこいってこと?」

「そのとおり。」

「行き先は、N大学の工学部かな?」

「うん。ほかの可能性もあったんだけど、こっちが引っ越さないで行けるところを希望したので、そこにしぼられたんだ。社会人入学の入学試験があるんだけど、そこで問われる基礎知識は県の土木部の仕事で使ってるのと同じだから、よほどへまをしなければだいじょうぶだろうって言われた。」

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「土木工学って言っても広いから、そのうちとくに何を勉強してこいっていう課題があるよね?」

「それがね、土木工学全体をつかめ、社会の中での土木の意義も考えろ、っていう課題なんだ。」

「幹部候補生だね。」

「まあ、そうかもしれない。ただし、部長みたいな管理職になる道じゃないよ。参謀というか、ブレーンというか、政策を考える役まわりだよ。

県庁は毎年、土木の大学卒の人をとってる。護岸の専門家とか、コンクリートの専門家とかがほしければ、土木のその専門の研究室で修士をとった人を採用すればいい。でも、そういう人は、自分の専門ばっかり見てしまう傾向があるんだ。土木全体が見える人、さらに、県庁の仕事全体の中で土木の役割を考えられる人って、少ないらしい。」

「茂くんならそれができるって見こまれたんだね。何かきっかけがあった?」

「部長は日ごろから職員それぞれを観察してたにちがいないんだけど、最近の心あたりとしては、こういうことがあるよ。

先月、岬ちゃんといっしょに、T岬の下の海岸を歩いたよね。あそこの護岸工事も、県の土木部の仕事なんだ。ぼくの直接担当じゃないけどね。

何かの会議のあと、たまたま部長と雑談になってね、T岬を歩きながら考えたことを話したんだ。

ここの護岸工事では、まず、歩く人が落石でけがをしないように、というような安全が大事なことは確かだ。

そのうえに、観光地だから、観光客がもっと歩きやすいようにとか、車が通りやすいようにしてほしいとかいう希望をする人もいる。

だけど、観光地だからこそ、自然の景観を変えてほしくないと希望する人もいる。しかし、景観を変えるのは人間だけじゃない。波が岩を削ったりして、自然に変わることもある。それは、変わるままにしたほうがいいのか、変わらないように工事したほうがいいのか。

護岸工事の理想には矛盾するものがいくつもあって、むずかしいですね、って話した。

そうしたら部長は、土木行政はいつも、そういう対立する動機のあいだの調整なんだ、と言ってた。

そのときの話はそれで終わったんだけど、次の週に係長がぼくの経歴のことをいろいろきいてきたのは部長の指令だったらしいから、それまでに部長はぼくを大学に送りこむことを思いついたらしい。」

「迷ってるだけじゃなくてそのさきを考えられる人になりなさい、ってことなんだね。」

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「土木工学の教科書をいくつかながめたんだけど、物理の続きみたいなところがあるね。」

「物理学科の物理とはだいぶちがうんだけどね。どっちも、高校の物理からの発展ではあるかな。」

「高校のときのぼくは、理工系に行こうなんて考えなかった。理科は苦手だった。でも、物理をとった。岬ちゃんと同じ教室にいたかったからだった。物理の成績はよくなかった。でも、嫌いじゃなくなったんだよ。いま土木を勉強してこいって言われて、「はい、行きます」って言えるのも、岬ちゃんに出会ったおかげかもしれない。」

「わたし、茂くんが大学に行く機会をとりあげてしまった、っていう負い目がずっとあったんだけど、借りは返せたみたいだね。」

「負い目に感じなくていいんだよ。あのときぼくには、ぜひ大学に行きたいっていう動機がなかったんだから。でも、もしあれが貸しだったとしたら、利子をつけて返してもらったよ。まったく、なさけは人のためならず、だね。」

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