ひと仕事終えて (X+9年1月)

「博士論文、出してきた。」

「おめでとう。うちはこれからお正月だね。」

「茂くんまで正月おあずけにしてしまってごめん。これから審査を受けるのだから気は抜けないけど、非常事態は終わったよ。就職もポスドク[注1]も不採用だった点では、めでたくないんだけどね。」

「それも天のおぼしめしと思って、子どもを生んでくれない?」

「そうか。だいぶ待たせてしまったね。あなただけじゃなくて、わたしのからだも、これ以上待たせないほうがいいかもしれない。」

「子どもをかかえると、就職がますますむずかしくなるだろうけど、覚悟できるかな?」

「うん。むずかしいところではあるんだけど、わたしはプロの研究者タイプというよりも、根っからの実験屋なんだよね。生物は専門じゃないけど、自分のからだの機能も、ためしてみないと気がすまないんだ。妊娠・出産の機能は、ためすだけというわけにいかないから、これまでがまんしてきたんだけど、そろそろ使いたくなってきた。」

「ぼくだけの収入で3人家族だと、楽ではないけど、なんとかやっていけると思う。ぼくの転勤でいなかに引っ越すと研究には不便になるけど、幸い、とうぶんはN市勤務が続くと思う。」

「非常勤の仕事はあって、職務経験としては やっておいたほうがいいんだけど、子どもができて あずけるところがないと 続けられないっていう問題がある。」

「県庁の近くに、不定期でもあずかってくれるところはあるよ。保育行政と関係ない会社の事業だから、単価は高めだけどね。通勤のついでにつれていくのは引き受けるよ。」

「では、きょうから避妊なしにしよう。」

- - - - -

「思えば、結婚してからもうすぐ9年になるんだね。卒業式のあとすぐ、市役所に書類を出して、結婚式は省略して、うちで初夜にしたね。なんだかあわただしかったな。」

「初夜には、わたしがこだわって、あなたをふりまわしちゃったかな。あなたの妻になったあかしがほしかったし、自分のからだの機能を早くためしたいという気持ちもあったんだ。ただ、あのときは妊娠するわけにはいかなかった。避妊については養育園でしっかり習ってたはずなんだけど、避妊具の扱いにふたりともまごついてた。おかあさまが見かねて手を貸してくださったのよね。はずかしかったけどありがたかった。」

「自分では使ってなかったけど、看護婦の仕事で感染防止のゴム手袋の扱いには慣れていて、それと同じ要領だって言ってたね。」

「衛生のことがよくわかった人が身近にいるって、ありがたいよね。思えばわたしも看護婦さんのいる施設で育ったんだから、いろいろ習っておくこともできたはずなんだけど、その値うちがわかったのは、離れてからだった。」

- - - - -

「ぼくら、同級生のうちで最初に結婚したんだよね。」

「ううん、そうじゃなかったんだ。ないしょになってるから、あなたも秘密をまもってね。わたしたちが高校3年のころ、養育園に子どもを生みに来てた高校生がいたんだ。」

「覚えてるよ。仮の名まえだと思うけど、「いずみさん」と呼ばれていたよね。赤ちゃんにお乳を飲ませてたあいまに、高校の勉強の感覚をとりもどしたいっていうので、相談にのったことがあるよ。」

「そうだったね。わたしが受験勉強で余裕がなくなって、就職が決まったあなたに代わってもらったんだった。「いずみ」っていう名まえは仮のものだったんだけど、今では本名だよ。その名まえで働いてきて、戸籍上の名まえも変えちゃったんだ。いずみちゃんは、別の高校の生徒だったんだけど、その赤ちゃんの父親が、わたしたちの同級生でね、彼が18歳になりしだい、結婚届を出してたんだ。彼は、結婚も子どものこともないしょにしたまま、大学に進学したから、同級生で知ってたのはわたしだけだったと思うけどね。」

「だれだろう?」

(ささやく) 「Sくん。」

「ええっ? 県庁の青少年課にいて、ときどき会ってるよ。青少年支援の仕事に思い入れがあるみたいだけど、そういう事情があったのか。」

「いずみちゃんは、親もとに帰るよりも養育園にいたかった。養育園は、善意だけで長く置いとくわけにもいかないけど、ちょうど働き手がほしいところだったから、臨時職員として働いてもらうことにした。仕事のうちで自分の子をせわすることもあって、給料をもらっているところに保育料をはらうっていう、ちょっと奇妙な立場になるんだけどね。いずみちゃんは、おおぜいの赤ちゃんのせわをする仕事を、まじめにやった。そのあいだにふたりめの子どももできたから、なん年もかかったけど、勉強の時間もつくって、高校卒業の資格をとって、それから保母[注2]の資格もとった。養育園のほうから「正規職員として働き続けてほしい」と見こまれる人になったんだ。それがちょうどSくんが大学卒で県庁に就職が決まったときで、職場が離れてて同居できないので、だいぶ迷ったすえに、思いきって、離婚してしまった。でも、子どもは共同で責任を持って育てるって言ってる。だいたい平日はいずみちゃんが、土日はSくんが見てるみたいだよ。今度の土日も、いずみちゃんが子どもたちをSくんにあずけに来るんじゃないかな。顔をあわせたいって言ってみようか。わたしたちも子育てを考えはじめたところだから、子育てについての先輩の話を聞きたいよね。」

「子どもづれもいやじゃないけど、ここはおとなどうしの話がしたいなあ。土日には、いずみさんに、子どもたちをSにまかせてから、ひまがあったら来てもらって、Sとは、別に、平日の夜で時間の合うときに会おう、っていうことにしよう。」


[1] ポスト・ドクトラル・フェロー。博士号取得後の研究者。

[2] 今のことばでは「保育士」。

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