第13話

 クラークはバーンズの来訪について気にしないことにした。

 自分のクライアントが犯人である可能性自体が低いうえ、仮にクライアントに犯人がいたとしても自分が次のターゲットになることはあり得ないと思ったからだ。

 陽性転移が高じて患者がカウンセラーに恋愛感情を持ってしまうことはよくあることだし、逆に陰性に転じて嫌われたり、場合によっては激しく怒り出したりするクライアントもいる。どちらにせよ、患者がそうなるのはそうする必要があったからこちらが意図的にそうさせたと言える。

 むしろ転移が起きていないということは、それは関係性の構築があまり上手くいっていないということだ。

 陰性転移が強くなり、度を越せば殺意というレベルまで達することもあるかもしれないが、それではカウンセラーとしてあまりにお粗末だ。

 もっとも、自殺願望があれば話は別だが。

 ふとシュルツ自殺説が頭を過ぎったがそれでは他の2件の犯行の説明がつかない。

 クラークはそれ以上シュルツやバーンズのことを考えるのをやめた。次から次へと悩みを打ち明けにやってくるクライアントの面談記録をさらっておきたかったのだ。


 引き継ぎとはいうものの、自分と患者の関係性をゼロから築くことに他ならない。それを思えば前任者のカルテ、つまり面談記録を読むことはむしろ予断を促し、新しい関係を築くのに良くない影響を及ぼすかもしれない。しかしクラークはシュルツの書いたカルテを読むことに喜びを感じつつあった。

 シュルツの面談記録は非常に簡素であった。これはカウンセリングにおける「傾聴」(患者の話を聞くこと)を重視するカウンセラーに共通することで、記号がポツリポツリとあるだけなのだ。

 クラークにはシュルツの記号がスムースに読み解けた。「mm」は「ママ」の記号だ。「dd」はお父さん、「dg」は犬だろう。他には「jb」「sc」など様々な名詞が短縮して書かれている。それらの名詞の横にはプラスマイナスの記号と1から10までの数値。

 例えばこんな調子である。

「mm-6、dg+7、ow-5、tr+2」

 おそらくこれは、

「お母さんに対して-6の負の感情を持ってしまった。それに対して犬には+7の愛情を持っていて、そんな自分に-5の評価をして落ち込んでいる。転移は陽性で+2」

 と読み解くことができる。

 実際に会ってみると、この女性は母親の介護疲れで気分が落ち込んでおり、飼い犬に慰められて日々過ごしており、しかしその犬も老齢で先立たれてしまいそうで悲しい。母親には早く旅出って欲しいが犬には長生きして欲しい。そんな風に思う自分は最低だし死んでしまいたい。

 そんな悩みを抱えていた。

 クラークはこのクライアントに共感を示し、愛犬はあなたのような愛情深い飼い主に出会えてさぞかし幸せな日々を過ごしているに違いない、お母さまもきっと同じでしょうと付け加えた。

 それを聞いたクライアントは堰を切ったように涙を流し始め、残りの時間は嗚咽を聞くだけで面談は終了した。

 クラークはシュルツに倣って、

「mm-2、dg+9、ow-2、tr+1、cr20min」

 ☆と記した。付け加えた「cr20min」とは「20分間泣いた」という意味である。


 クラークはシュルツ殺しの件は考えるのをやめたはずだったが、ふいに訪れる何もない瞬間に、訳のわからない不安感に襲われることがあった。その不安感を探ってみるとやはりバーンズに言われた一言がどうしても頭のどこかにしこりを残してしまっているらしく、ふいにそのしこりが不安のスイッチを入れてしまうようなのだ。

 帰り路の道すがら、路地の暗がりから男が現れて自分のすぐ後ろを歩いている妄想に駆られ、車の後部座席に怪しい影を感じ、アパートの鍵を開ける刹那、後ろから首に何か巻き付けられる幻覚をみた。

 シャワーを浴びているとき、ベッドで横になっているとき、それはふいにやってきてクラークの不安を煽る。

 クラークは曲がりなりにも心を扱うプロである。不安材料を理論的に取り除き、安全だと自己暗示をかけ、スポーツで汗をかき、バランスの取れた食事を心がけ、睡眠を充分に摂った。しかし発作的に訪れる死のイメージは拭い去ることが出来なかった。

 クラークは自分がこんなにも死を恐れることが意外だった。自分は自分に訪れる死を受け入れることができるつもりでいた。今日なんらかの事故に巻き込まれて死ぬかもしれない。明日悪性の腫瘍が見つかるかもしれない。たった今、どこかの血管が破裂するかもしれない。

 そう想像しても不安も恐怖も襲ってはこない。

 嫌悪感すら感じなかった。

 この違いはいったい何だろうか。

 クラークはもっと自分を知る必要を感じた。そして自分の心を覗き込むために静かに目を閉じた。


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