クラーク
第10話
クラークは自分のオフィスのPCに映し出された患者目録を前に呆然としていた。
大学を出でてスクールカウンセラーを数年やったのち、いろいろな職業を転々として数年ぶりにカウンセラーの仕事にありついたのだが、今まで見てきた「あちら」の世界と「こちら」の世界のあまりの違いに戸惑いを隠せなかった。
ここはフィラデルフィアはオールドタウンにある「ケンジントン・クリニック」の一室。
名前の通り、かつてはケンジントン・ストリートで開業していたらしいが、今ではここオールドタウンに居を構えている。
煉瓦で作られた雑居ビルの階段を上がった正面。エレベーターホールの右。真鍮のプレートの付いたマホガニーのドアを開けると、そこがクリニックだ。
今日が初日である。亡くなった前任者の代わりにと急遽声を掛けられ、ニュージャージーから引越してきたのだ。
明日からは患者ひとりひとりに前任者から自分に引き継がれたことを説明しなければならない。いきなりハードルの高い仕事が待っている。
そこで自分に与えられたオフィスで患者目録を確認し始めたところだ。
掛かりつけのカウンセラーを持つのが流行ったのはバブル景気の八十年代からだと聞いているが、このクリニックではその時代からあまり客層は変わっていないらしい。経営者、会社役員、医師、弁護士と高額所得者とわかる職業名や役職名がずらりとならんでいる。おそらくこの連中のカウンセリング内容はどれも似たり寄ったりだろう。いわく仕事のストレスが云々。いわく家族との不仲云々。いわく若い頃のような自信が云々。どれも猿の戯言である。
クラークは独り笑みを浮かべた。自嘲の笑みだった。
かつて就いていた公立高校のスクールカウンセラーは壮絶だった。高校生らしい恋の悩みや将来への不安などが持ち込まれることなど一切なく、親からの虐待、両親の不仲、薬物依存、いじめ、自殺願望、破壊衝動、自傷行為など、青春の生々しい濡れた傷口を目前に突き付けられるような毎日だった。
クラークのオフィスを訪れる彼らはあまりに幼く、あまりに貧しかった。彼らに助言できることなど何もなかった。彼らが死んだほうがマシと言うなら、それは本当に死んだほうがマシだったのだ。
それでもクラークは皆に同じように言い続けた。高校を卒業して仕事に就けば家を出られる。街を出られる。逃げられる。なんとか逃げてくれ。それまでなんとか持ち堪えてくれ。なんとか我慢してみてくれ。
しかし高校を卒業してもまともに仕事を得ることができる可能性はほぼ皆無だとクラークは知っていた。企業は実務経験者しか採用しない。高卒の若者が就ける仕事は限られる。そして貧困層の暮らすプロジェクト(低所得者向けの公営マンション)周辺には産業や商業施設など皆無なのだ。
あるのは売春とドラッグのみ。
食料は人権団体がスーパーの売れ残りを配給してくれる。それに頼れば働かなくとも生きていくことはできるのだ。
だが、独り立ちをするなり街を出るための金を稼ぐにはカラダを売るかになるかドラッグを売るかしかないのだった。
何もしてやれぬまま生徒たちは卒業していき、また同じような子供たちが入学し、クラークのオフィスに訪れる。
やがてクラークは疲弊してしまった。学校にはなんとか足を運んだがタイムカードを打つとカウンセリングはキャンセルし、地域協力を仰ぐ名目で外出し、近所の教会に入り浸った。牧師たちも同じような悩みを抱えていて、同じように守秘義務を持っているため存分に愚痴ることができたのだ。
牧師たちに不満をぶちまけると、何らかの行動を起こしているような錯覚で自分を慰めることができたが、オフィスを留守がちにしていると、校長からカウンセリングをキャンセルしていることを咎められるようになった。
スクールカウンセラーは管理職なのだ。トラブル全般に関わることが求められる。クラークは追い詰められた。
クラークは銃を購入した。
オフィスの引き出しに弾を込めたグロックを置いた。
本当に辛くなったらいつでも死ねると思ったら少し気が楽になった。
そんな彼を救ったのは州の財政悪化だ。教育に割りあてられる予算が激減してスクールカウンセラーもカットの対象になったのだ。
校長にそれを聞かされてクラークは安堵した。
体育も美術も音楽も、学問として重視されない教科は全て既にカットされていた。
そんな教育に未来などあるはずがない。
クラークは家を引き払い街を離れた。卒業生たちに合わせる顔など持ち合わせていなかった。
クラークはPCの患者目録の中に不思議なマークを見つけた。患者の支払いの項目だ。ほとんどの患者がカードで支払いをしており、ごく僅かの数名が現金である。それ以外に「S」と記入された患者がいるのである。
クラークはオフィスを出て受付へ来ると会計を担当している職員に尋ねる。
「この支払いの項目の『S』ってなに?」
彼女はにっこりと微笑むと答えた。
「そのマークの患者さまは費用負担がない方たちですわ、ドクター。州の保護プログラムでカウンセリングを受けてらっしゃる方たちです」
彼女は微笑みを絶やさず感じが良い。人気クリニックが人気である秘訣だろう。若く美しいことはそれだけで価値がある。
「その人たちだけ絞り込んでリストって作れるかな?」
「もちろんですわ。少々お待ちください」
彼女は数秒PCを操作したのち、
「ドクターのオフィスのプリンターに出力しておきましたのでご確認くださいませ」
と、再び微笑みをこちらに向けた。
クラークはお礼を述べると踵を返した。
オフィスへ戻ると確かにプリンターにリストが鎮座している。
クラークはリストを手にしてカルテ室へ向かう。
リストは6名。すぐに集めることができた。
クラークはオフィスに戻るとカルテに目を通し始めた。
数時間後、廊下から数名の足音が行き来する音が聞こえてきて今が17時半になったと知ることができた。
かなり集中してカルテに向かっていたようだ。窓から差し込む日差しもすっかり弱くなっている。
クラークも帰ろうと立ち上がりカルテをまとめているとオフィスの扉がノックされ、先ほどの会計の職員が顔を覗かせた。
「事務方はもう皆あがりますが、何かございますか?」
「いや、僕もあがるから大丈夫。ありがとう」
普段の業務では使い終えたカルテは受け付けに渡して指定の場所へ戻してもらう。このまま勝手に戻して良いものか判断に迷った。
「ごめん、ちょっと待った。このカルテは普通に戻しておけばいいんだよね?」
閉じかかったドアが再び開いて顔も戻ってくる。
「あら、カルテ室の鍵は閉めてしまいましたわ。ご一緒します」
「すまない、手数をかけるね」
クラークはカルテを手にして彼女の後に続く。
彼女は事務カウンターの中の小さな卓上金庫を開けると小さな鍵束を取り出し、その鍵で鍵箱の錠を開けて別の鍵を1本取り出した。
「厳重なんだね」
「そうですね、以前、患者さんが忍び込んでカルテを盗み出そうとした事があったらしくて」
「犯罪に関わったクライアントが証拠隠滅にきたのかな?」
カルテ室の鍵を開け、手分けしてカルテを戸棚に戻し始める。
「どうでしょう? 記録に残されたくないことをしゃべっちゃって後から気まずくなるケースもあるんじゃないですか?」
「カルテにそんな細かいことは書かないけどね」
「そうでしょうけど患者さんには分からないでしょうから」
「なるほど」
カルテを戻し終えてカルテ室を施錠し、鍵を鍵箱の中の所定の位置にぶら下げて施錠。鍵箱の鍵はダイヤル錠のついた小さい卓上金庫にしまった。
「ドクターはひょっとしてドクター・シュルツの死について調べてらっしゃるの?」
唐突の質問にクラークは驚いた。
シュルツ氏とはクラークの前任者。殺人事件に巻き込まれて亡くなったと聞いている。犯人は未だ見つかっていないとも。
「いや、そんなことは全然」
即座に否定したが逆に疑問が湧く。
「何故そんなふうに思うの?」
彼女は不安そうに眉をひそめて答えてくれた。
「だって警察も保護プログラムの患者のカルテの閲覧を申し込んできたものですから、、、犯人がこの中にいるのかと思って」
クラークは背中に寒気を感じた。保護プログラムの患者たちは主に暴力犯罪の被害者たちだった。通常は犯人扱いなどされないが、被害者がなにかのはずみで加害者にまわることも可能性としてある。
なにしろ他の患者は金持ちばかりなのだ。州の補助でカウンセリングを受けるような低所得者に疑いが向くのは当然だろう。
しかし、経験の浅いしかも数年ものブランクのある自分がこんな人気のクリニックに採用された理由の一端が垣間見えた気がした。
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