第5話
大きくて厚いパンケーキ(ジェイソンは"バノック"と言っていた)にバターとメイプルシロップをたっぷりかけて、熱々のクラムチャウダーと食べるのは本当にとろけてしまうほど幸せだった。
「なかなかキレイだったでしょ?」
「素晴らしかったわ! 朝の散歩を趣味にしたいくらいよ。そういえば、湖で何度も小さい魚が跳ねるような水音を聞いたんだけど光ってて何も見えなくて。あれは何かしら?」
「たぶんカイツブリだろう。運が良ければカワセミかもしれない。けど見えないんじゃ意味がないか」
ジェイソンの食欲は大変なものだった。パンケーキ3枚がみるみるうちになくなっていく。
「魚じゃないの?」
「跳ねる魚はかなり大きいんだ。派手に音がするからすぐにわかる」
マグカップに注いだクラムチャウダーをぐいと飲み下す。スープにスプーンは使わない主義のようだ。
「それに湖の中央寄りで跳ねる。岸に近いところで音を立てるのは小魚をねらう水鳥だと思う。で、鴨はまだ来ないし、アヒルはガーガーうるさく喋るからすぐ分かる。となると此処で越冬したカイツブリなんじゃないかなと」
振り返って棚のソーセージの缶を睨む。食べ足りないのだろう。
「時間があればラズベリーを摘んできたんだけど、ボイラーを早くやっつけないと電気が使えないからね」
「野生のラズベリーが生ってるの? 見たことないわ」
「まだちょっと時期が早いんだ。もう後一週間もすれば収穫期だ。試しにジャムを煮てみようと思ってね」
「素敵ね。心底羨ましいわ!」
「そう、ならそれまでここにいたらどう?」
メリンダはジェイソンの表情を窺った。おそらく揶揄い半分、でも半分は本気だろうか。確かに心惹かれる申し出だった。
「ジェイソン、お誘いは嬉しいんだけど、あたしには無理だわ。論文の題材を春のうちに複数見つけないと。ここはちょっとあたしの求めてた環境とちょっと違うみたいだし」
「そうなの? 気に入ってくれてたかと思ってたよ」
「もちろん気に入ってるわ! でもメールで伝えたように、あたしの研究テーマは観光資源のない場所にお客を呼ぶアイデアについてなのよ。ここは観光資源がないとは言えないわ。町から30分で手に入る手付かずの自然。美しい湖。
「美味しい料理」
「そう。ここに湖がなくて、あなたが山奥で料理だけで勝負するなら題材になっていたかもしれないけど、湖の畔のヨーロッパ風のペンションで素敵な料理というのは古典的というか、正攻法というか、、、」
「ありきたり?」
「悪い言い方になってしまうけど、そうなの」
メリンダはジェイソンが気を悪くするかと思ったが全く意に介さないようだった。むしろ楽しんでいるように見える。
「キミは勘違いしているようだね。フライデーランドはいわばレンタル山小屋だ。食事は出さない。湖も、白い館も舞台装置でしかない。宿泊客には絶対的な経験をしてもらう、、、」
そこでメリンダの携帯が鳴った。発信者を見ると父親だった。
「ちょっとゴメンなさいね」
通話ボタンを押すと父親が単刀直入に話し始めた。
「今メールを見たんだ。今夜、釣りに出発するんで積み込みをしたかったんだが何時ごろ帰ってこれる?」
メリンダがもうこっちを出るから間に合うと思うと伝えると安心した声で気を付けてと付け加えて電話は切れた。
「キミの勘違いを正す時間はないようだね。ならば、そういう運命なんだろう。楽しかったよ。来てくれてありがとう」
ジェイソンは立ち上がって握手を求めてきた。
「こちらこそ勝手に押しかけたうえ、美味しい食事までありがとう。レポートには使えなかったけど最高の週末にはなったわ」
「それはなによりだ。レポートが上手くいくよう祈っているよ」
「今年の夏は取材漬けになると思うから、来年のスプリングブレイクか、卒業の決まった夏に遊びにくるわ」
「それは楽しみだ。じゃあ、また」
暗い森の中をチェロキーで抜け舗装路に出るとメリンダは潜門を改めて見た。昨日は気付かなかったが門の横木に小さな人形が幾つも嵌め込まれている。
一つはメリンダも知っているものだった。それはロダンの「考える人」のフィギュアだった。
美術館の土産品か何かだろうか。妙な取り合わせに違和感を感じたものの特に気にすることなく車を発進させた。
往路と違い、復路はとても早く感じられた。
高速を走らせながらメリンダはジェイソンとのやりとりを反芻する。
ジェイソンはあたしに好意を持ってくれていただろうか。
昨夜ジェイソンに身を任せていたらどうだっただろう。
日に焼けた肌に栗色のくせっ毛、ゆったりしたカーゴパンツにフランネルのシャツから覗く筋肉質な腕。
そして彼からしたお日様と石鹸の匂い。
やはりあたしは貴重なロマンスを逃したのだろうか。
だとしたら、あそこであたしはどうすれば良かったのだろうか。
彼の部屋をノックする?
彼に抱き寄せられた時にもっと積極的になるべきだった?
そんな思考サイクルを何度か繰り返すといつの間にか家の前まで辿り付いていた。
ガレージに車を入れるまでもなく、父親が釣り道具をガレージ前に積み上げている。
「おう、おかえり。取材はどうだった?」
「空振り。凄く良い所だったけど」
「良い所過ぎたか」
「そうなの」
まあ、まだ卒業まで時間はあるんだし、なんて言いながら父親は釣り道具の積み込みをはじめる。
メリンダは自室に戻ってすこし寝ようと思った。
慣れないベッドで寝た時の常として睡眠時間が足りてない感じがしたのだ。
それにベッドの中で彼のことを少し考えてみたい。
そこで父親に呼び止められた。
「メリンダ、おまえその宿で車のキーは掛けたか?」
「いいえ? だって誰も居ないのよ?」
「その男にやられたな。S&Wがなくなってる」
グローブボックスで見つけた拳銃のことだとすぐ分かった。
「え、ホント? あたし行く途中で見たよ?」
「だからそいつにやられたんだよ、山小屋のオーナーに」
慌ててグローブボックスを覗くと行きに見たナイロンのケースに入った拳銃も、その下にあった弾の箱もなくなっている。
一応、座席の下や後部座席も見てみる。
「あれは州軍に登録してあるやつだから、変なことに使われると厄介だぞ」
「ちょっと待って。電話してジェイソンに聞いてみるから」
「やめとけ、黙って人の物を盗る奴が本当のことを言う訳がない」
「じゃあどうするの?」
「どうもしないさ、ただ、軍と警察に紛失届は出す必要がある。気が向けばそいつを調べてくれるかもしれない」
「そんな、彼に悪いわ」
「拳銃を盗る方が悪いだろう」
「そういう人じゃないのよ」
そうは言ったものの本当のことはメリンダにも分からない。そうであってないで欲しいと思っているだけだ。
しかし状況から考えるにやはりジェイソンが盗んだと判断するのが正しいだろう。
彼と一線を越えなかったことはむしろ僥倖だったかもしれない。
「父さん、ごめんなさい」
「いいんだ、お前に貸す時に入れっぱなしにしたのは所有者であるパパの責任だ。ただ、銃があると分かっていたならグローブボックスも車も鍵を閉めるべきだった。それは理解できるな?」
メリンダは頷いた。ニュースでは子供による銃の誤射事件が定期的といって良いくらい流れる。
銃の管理についての意識は自分では高いつもりだった。
それがよもや銃の盗難の当事者になるとは。
最悪の事態が頭を過ってメリンダはぶるっと身を震わせた。
眠気はどこかへ行ってしまっていた。
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