最終話 アウトスケイプ

 ついにスカイ・ホルダー当日になった。僕はいつもよりも早い時間に目を覚ます。悪くない寝覚めだ。

「頑張ってねミスミ。お母さん応援してるから。ちゃんと見に行くからね」

 朝食の時母さんが励ましてくれた。

「別に見に来なくてもいいのに……」

 僕は素っ気無さそうに答えたが、声が震えているのを上手く誤魔化せただろうか。

「ミーくーん」

 カリンの耕地の前を通ると、いつも通り彼女は土を耕していた。

「しばらくしたら見に行くね」

「……やっぱり来るの?」

「当たり前じゃん!」

 カリンは僕のそばまで駆け寄って来ると、両手で僕の右手を包み優しく微笑んだ。

「大丈夫! ミー君なら跳べる!」

 真っ直ぐな目で僕の瞳をまじまじと見てくるもんだから、何だか恥ずかしくなってきて僕は左手でぐいっとカリンの右手を引っ張った。

「あ! ごめん、痛かった?」

「いや……ごめん、緊張してて」

 確かにそうだったけど、このとき素直に「恥ずかしい」と言うのが恥ずかしかったんだ。

「カリン……今度、僕も手伝うよ」

 何をというのは言わなくてもわかるだろう。

「ほんと? じゃあ私も頑張ろうかな」

「じゃあ、行くね」

 見送るカリンを背に僕は再び歩き始めた。カリンの手は農作業のせいで酷く荒れていた。だから、ちょっとでも手伝いたくなったんだ。

 空に敷かれた大布の下にある一帯がスカイ・ホルダーの会場だ。だけどそこに行く前に僕はいつもの練習場所に寄った。メリアさんに会う約束をしていたからだ。

「おう、人を待たせるとはいい度胸だな」

 メリアさんはもう原っぱに来ていて、腕組みをして木の陰に立っていた。

「ちょっと待って下さいよ。まだ15分前ですよ。メリアさんが早く来過ぎたんですよ」

「うるせー……ついに来たな、この日が」

「……うん」

「もうやっちまおうぜ! キャンニューフライ?」

「……イエス! ……でも、『跳ぶ』は『ジャンプ』ですよ」

「うるせーっつってんだろ。これで私の役目も終わりだな。その調子だ。自信持って跳んでこい」

「はい! ……メリアさん、見に来てくれるよね?」

「……ああ、見てるよ」

「じゃあ、行って来ます」

「おう! ……」

 会場へと足を向けた僕は、途中思わず振り返ってしまった。メリアさんはその場を動かずにずっと僕の方を見ていた。そして僕は前に向き直り、もう振り返る事無く会場へ歩いていった。また会おうな、メリアさんは小声でそう言っていた。様に僕には聞こえた。


 会場に着くと、始まる前だというのにすでにそこにはたくさんの人が集まっていた。やがて開会式が始まる。村長のあいさつがあり、選手宣誓が終わるとすぐにひとり目の参加者の挑戦が始まる。今年の参加者は63人らしい。

 最初の挑戦者は中年の体格がいいおじさんだった。あの人なら跳べそう……と思っていたら、着地点ギリギリで布に落ちてしまった。失敗だ。いけると思ったんだけどな。周りの人達も意外そうな声を漏らす。おじさんは悔しそうに立ち上がり布の端っこにくっつく様に設置されている手作りの階段まで歩いていった。スタッフの人がそれを見届けてから少し経つと、次の挑戦が始まった。次は女の人だ。見た感じ、まだ20代って感じで、スポーティーな身なりをしているが、そんなに体を鍛えている訳でも無さそうだ。あんな人が跳べるのだろうか……。

 しかし、僕を含め会場内のほとんどの人達の予想を裏切って、その人は見事着地点に下り立った。会場からは驚愕と歓喜の声が上がる。あの人が跳べたのだから、僕もきっと……いや、絶対に跳べる……はずだ。

 どんどん挑戦が続き、僕の番が回ってくるまであと3人となった。僕は橋へ向かう昇降路を上り始める。

 ……緊張してきた……それは朝からずっとだったのだけど、今になってそれが顕著になっている。心臓はバクバクで、手汗も止まらない。拭いても拭いてもしょうがない。

 いつの間にかふたりの選手が跳んでいて、今から僕の前の人が跳ぼうとしていた。メリアさんの言葉を思い出す。自信を持て。僕が信じないで誰が僕を信じるんだ……どうやら前の人は失敗した様だ。て事は……もう僕の番じゃないか。

「じゃあスタート地点に立って下さい」

 係の人の指示に従い僕は橋の根元に立った。この先の道は数十メートルで途切れている。

「はい。準備が出来たので、いつでも跳んで大丈夫ですよ。自分の好きなタイミングで行ってください。頑張って下さいね」

 係の人は優しい言葉をかけてくれた。この人も信じているのだろうか、僕の事を。

 目を閉じる。周りの声が聞こえる。この中に、母さんもカリンもいるのだ……メリアさんも。深呼吸をして心を落ち着かせる。今まで練習してきただろ。大丈夫、お前なら出来る。信じろ。お前自身で。

 目を開けた。道はひとつだ。

「……行きます」

 僕はスタンディング・スタートの構えを作った。練習で何遍もやったから体が覚えている。5秒ほど止まって、左足で地面を蹴って走り出した。腕をテンポよく振る。一歩、一歩と跳躍地点に向かって近付いていく。僕は加速を始めた。

「ふっ……ふっ……!」

 もう半分以上走った。ラストスパートだ。行け。跳べ。飛べ。橋の終わりはもう目の前だ。最後の一歩を踏み出す。さあ、行け!

 ところが、その最後の左足を橋から離そうとした時に、勢い余って大きく体勢を崩してしまい、そのまま前のめりになった状態で僕は空へ放り出された。

「うあっ」

 その一瞬で、僕は見た。

 村が、僕が住んでいるこの村が、空と一緒にどこまでも続いているのを。なぜだろう。あれだけいつもいつも狭い狭いと感じていたこの村が、この時だけは果て無く広がっている様に感じられた。

 ほんの一瞬だったけど、その景色は僕の瞳に鮮明に刻み付けられた。

 その直後、世界がひっくり返る。

「結構いい村だな」

 メリアさんが耳元で言った。


 それから、メリアさんの姿を見る事は二度と無かった。

 結局、スカイ・ホルダーに僕は失敗した。あの後、大布に落ちて、しばらく空を眺めていた。メリアさんが僕に見せてくれた景色。不思議な事に、失敗したのに悔しい気持ちは全く無かった。ただ、空を見つめていた。係員が心配になって僕を起こしに来るまで、ずっと。

「残念だったわねえ」

 階段を下りるとそこで待っていた母さんが悔しそうに言った。

「でも、すっごくかっこよかったわよ」

 それを聞いた時、僕は照れ臭くて何も言わずに俯いた。

 一方、クラスの中ではいい笑い者だ。

「いや~、あそこでこけるのがミスミっぽい」

「せっかく練習してたのにねえ」

「だっせー」

 失敗してもちょっとした英雄気取り……どこが。

「でも、お前なら跳べるって思ったんだけどなあ」

 ライラックが納得のいかない顔で言う。

「あそこでこける直前まで、こいつは絶対に失敗しない、って。何かそういう確信があったんだよな」

「……ありがとう」

「ま、おつかれ」

 にっ、といつもの笑顔で僕の肩を軽く叩いた。

 こうして、僕の人生の中で記憶に残る出来事ベスト3に間違い無く入るであろうスカイ・ホルダーは幕を閉じた。

 そして、メリアさんの事も、僕はきっと一生忘れない。あの人の事だから、どうせいつかまたひょこっと顔を出すのかもしれない。また来たくなっちまった、とか言って。それとも、僕が大人になって、アップタウンに行けば会えるのかな。

 そもそも、メリアさんは本当にいた・・のだろうか。


「ミー君、そろそろ休憩しよ」

 日曜日、約束通り僕はカリンの手伝いをしていた。

「え、もう?」

「ミー君張り切りすぎ。そんなだったらもたないよ」

「……わかった。じゃあ休憩だ」

 カリンに促されて僕は鍬を置くと、ふたりで大石に座った。カリンがいつも休憩の時に使っているあれだ。

「手、痛くない?」

 カリンは僕の手の心配をしてきた。自分の方こそボロボロなのに。

「大丈夫だよこれくらいじゃ。カリンこそ、女の子なんだからあんまり無茶するなよ」

「私も大丈夫だよ。もう慣れたし」

「そういう事じゃなくてだな……お?」

 その時、僕達が座っていた石が突然ぐらりと動いた。

「およ? 動いちゃった。ふたりじゃ支えてくれないのかな」

「もともと下の土が不安定だったんだろうな……雨で柔らかくなっちゃったのかな……ん?」

 立ち上がって石の下を見てみると、僕は気付いた。

「……カリン……これ……」

「え?」

 カリンもその下を覗き込む。

「……ミー君……」

「……ああ……こんな所に……」

「…………やったあ!」

 予想通り、カリンは泣きながら抱き付いてきた。

「ちょっ、おまっ、近いって!」

 そこには、小さな芽生えがあった。カリンがいつか種を埋めたのか、どうやってそこに種が埋まったのかは知らないけど、それは、間違いなく小さな花の芽だった。

「やったあ! やったあ!」

「痛い痛い痛い……!」

 きつく締め付ける様なカリンの手を解こうとしながら僕はカリンに言う。

「……カリン……枯らすなよ。僕も、絶対に枯らさないから」

「うん!」

 僕が住んでいるのは崖に包まれた小さな村。空に開かれたこの村で、僕はまだまだ、これからも生きていく。


 アウトスケイプ 完

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アウトスケイプ 神橋つむぎ @kambashitsumugi

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