第5話 海紋族は海の歌を唄う
翼晶族の足の指は、実は人族より少し長めだ。それで船縁をしっかり捕まえている様は、人よりも鳥のようだと思う。下から飛び上がった水飛沫が、褐色の足を何度も濡らす。木製漁船の縁へ乗っているその男は、灰色の翼を畳み背を丸めていた。そこそこ筋肉のついた両腕は、折り曲げた膝の上へ乗って、やる気なさげに前方へ垂れている。いつも着ている旅装束の、青い上着も靴もなく、今は下穿きだけを履いて脛辺りまで捲り上げている。
傍らのムイを眺めながら、器用なものだとローザは思う。なにせこの漁船、揺れているのだ。海の上だから揺れるのは当たり前なのだが、内陸生まれ内陸育ちのローザにとって初めての体験だから、こうして倒れないでいるのも一苦労だった。なのにムイはと言えば、船縁などという不安定な場所にいても一度も転がらない。彼は突然、大きな翼を少し膨らませる。何かと思えばバランスを取っただけらしい。羽毛の先が風を受けて、さわさわと沸き立っている。もしくはそれは、彼の胸のざわめきの表れなのかもしれなかった。
聖職者になってまで狩りに心逸るとは、翼晶族の本能は強いのだろうか。翼晶族は、勇敢に戦い続ける神の兵士として作られた存在と聞く。良き友人、または子として女神に作られた人族とは、根本的に性質が違うのかもしれない。突然親方が梶取りながら何かを叫び、若い男が持ち場へ飛びつき網を撒き、網を撒き。澪を引きつつ小さな船は進んで行く。
空を仰げば快晴で、鳥も届かないほど遠くには、蜃気楼のようにうっすらと岩らしき物が見える。空に浮かぶ島、教国領のどこか。ローザにとって実際見た事も行った事もない、名さえも知らぬ島だ。快晴の日は時々見えるものだと、大地の古い書物にも記されている。まさかあんな場所から国使が来るとは、数十年前まで誰も思っていなかったという。教国の登場で情勢は変わり、世の常識は変わり、そしてローザも少しずつ変わって行った。
余所見をすれば、小規模漁船団は近海へ出ていた。港の家々も随分小さくなったなと考えた、その時だった。ローザの体を一際大きな震動が襲う。木が軋む音と共に船はぐっと小さく傾き、元に戻ったかと思えば反対に傾く。数度続いた揺れに耐えきった頃、海の上を灰色の鳥が飛んでいるのが見えた。いや、鳥ではない。ムイだ。翼を広げ影を水面に滑らせると、銀色の輝きがちらちらと弾ける。いつもはこの好機を逃さず寄ってくる海鳥達は、大きな鳥を警戒して遠巻きに旋回しているのみだ。
走れ、走れ。日焼けした太い腕を、回して、回して、親方が叫ぶ。主船の指示を受けて、他の漁船も別の動きへ移行して行く。息を合わせて櫂を漕ぎ漕ぎ、等間隔の雄々しい声。白い帆の向きが一斉転回、ぐんと加速する。一陣の風が、一本に括った長い赤毛を乱暴に鋤いていく。
少し遅れてローザも縄へ飛びついて、男達に負けないよう引っ張る。彼女もムイも、手伝うためについてきたのだ。船から繋がる縄の先には網があり、網にはきっと魚が沢山入っている。ふわりと広がり、流される後ろ髪。ローザの目前には、広い広い海原がどこまでも続いている。海は彼女が想像していたよりずっと、とんでもなく広い場所だった。
ふと、ローザは海面に異変を感じ、思わず縄から離れた。身を乗り出して琥珀色の目を細める。灰色の物体が海面に浮かび上がって、体の一部と思われるものをちらつかせ始めた。見ている間に何体も集まってくる。どれも明らかに魚より大きい。彼等も魚を狙いに来たのだろう、とローザは思った。近くで一匹が大きく跳ねた際、魚をくわえていたのが見えたからだ。
上半身は人そっくりだが、男か女か分からない。下半身は鱗のない魚のようだった。つるりとした灰色の体をしているなかで、後頭部の髪の毛らしき部分が青白く発光していた。海面の一部が時々光っているが、別の個体の放つ光だろうか。ローザにとって、産まれて初めて見る生き物だ。
「あれは追い払わなくていいのか?」
「あれって何だ?」
「灰色の、人くらい大きい生き物が、沢山集まってきた」
「海紋族の事だろ?」
海紋族というのは、名前しか聞いた事がなかった。大海神の加護を受けている知的生命とされ、大海神と同じく謎が多い存在だ。
「いいっていいって。あいつらは盗ってくだけじゃないからな!」
誰が放ったか分からない声が飛んでくる。
「母ちゃんの形見落とした時に、探してきてくれた事あったっけ。あれがどこのどいつだか、全然見分けつかねえけど」
「そうそう、こないだは、キャロんところの坊主が溺れてた時にね、助けてくれたんだ!」
ローザの隣に立つ若い漁師が、声を張り上げる。方々から押し寄せてくる、色々な音に掻き消されないように。彼の横顔は、真っ直ぐな笑顔だった。
「普段は網が閉じる前に撤収するけど、たまにすっとろい奴が引っ掛かってる事があってね。そういう時は、怪我してないか見て、土産の魚を少々持たしてやりゃあ恨まれない!」
どうやら海辺の人間達とは、ある程度友好的な関係を築いているらしい。しかしムイは、海紋族達と仲良くなれなかったようだ。一部の怖いもの知らずが、低空飛行している彼に近づき、足を引っ張るなどの悪戯をしている。彼等は飛べない人間しか見た事がないから、きっと翼晶族の事が珍しいのだ。
ムイは、直しては崩される体勢を戻しながら、口をぱくぱくと動かしている。遠いので何を言っているか聞こえないが、彼の事だから自国語で悪態でもついているのだろう。
「こりゃあいい! 船だけで追い込むより断然いい! なあ、アルト!」
「ふざけんなオヤジ、あの眼鏡野郎、空飛べるんだぞ! 魚と船を比べてもいいが、鳥と船を比べるのは土俵違いってもんだ!」
「そうだそうだ」
「ちげぇねえ!」
ひと仕事終えた漁師達は、次々と木造の船着き場に船をつけていく。作業の合間に暇さえあれば、威勢のいい大声を投げつけ合いながら。この街の人間は、良くも悪くも明るい性格が多い。ともすれば、あまりに友好的態度であるが故、受け取るこちらが逆に困るほどに。この数日間彼等を観察している内に、ローザはそういった感想を持った。南方に位置した、比較的温暖な気候が原因のひとつかもしれない。
どこまでも続く海と空という開放的な景色が、そういった心を育むのだろうか。
「しかしよ、姉ちゃんスゲー力だな。ビックリしたぜ」
「正直俺は見くびっていた……」
「今度エリックと腕相撲してみて欲しいよな。どっちが勝つかね」
「俺は姉ちゃんに賭けるかな!」
「おいおい、女の子に腕相撲とか」
男達は口々に好き勝手言うと、最後に必ずと言っていいほど豪快な笑い声を響かせるのだ。
ローザ達の乗った船も、ようやく桟橋に到着する。船が止まるか止まらないかの内だった。お先にとムイが空から飛び降りれば、組まれた木の板が足の裏の衝撃を受け、ほんの僅かたわんで音を立てる。個人でなくこの街が作ったのか、一帯の船着き場は構造が統一されしっかりとした作りだ。時期の異なる修繕跡も見つかる事から、大切に使われているらしい。ローザも慎重に、久々の陸へ降り立つ。初めての海上という事で船酔いを心配したが、今のところ体調に問題はない。一方ムイは、疲れた顔をして肩も翼も落としている。
「いやー、まさかあんなのが出てくるとは。海に落とされるかと思いましたよ……」
「ははは、災難だったな! あいつらは他の動物より頭がいい。歌を歌ったり、悪戯を思いつくくらいの脳味噌まである」
「海鳥の方は、兄ちゃんが飛んでただけで一羽も寄って来なかったな。ほんと」
「喜んで貰えて嬉しいです。内陸の方には……、個人的な体感ですが、私を見ていい顔をしてくれる人族があまりいなくて」
「意外だな。他人の事なんて、全く意に介していないと思っていたが」
漁師達より先に、思わずローザが言葉を発した。彼女の方へムイは顔を向ける。眼鏡の奥のその瞳は、空のように薄い青をしていた。ムイは頭に片手を回し、灰色の癖毛を掻きながら、見ているこちらまで気が抜けそうな表情を作る。
「え? そんな風に見えます? やだなー、照れるじゃないですか」
「誉めてない。誉めてないぞ」
ローザが二度も否定をしていると、親方が大股で輪に入ってくる。残りの作業を部下に任せ、異邦人と話をしにきたらしい。海の人間は老人まで好奇心旺盛だ。
「ま、海岸は何でもかんでも流れ着くからなあ、その辺あんまり気にしねえのかもな」
「そうそう、親方の言う通り。人族の他所モンだけじゃない、さっきの……海紋族の奴らもたまに来るしな。変なモンは見慣れてんだよ」
「あんたらのおかげで、海も元に戻ったし。毎回手伝って欲しいくらいだ」
「光栄です。しかし、私は神に仕える身ですし。たまたま丁度、狩りをしていい日だったので、皆さんのお手伝いができただけなんです」
「肉を食べていいのか?」
「私の宗派では、殻蝦類以外を食していい日が定期的にあるんですよ。ただし、自分で狩りをしたものでないと駄目です。それから、必要分以上の量を狩るのは絶対駄目。人の住むところで他人の家畜を狙う訳にいかないですし、野宿中は小さい野性生物と日時都合よく遭遇しなくてですね。しかし、今日は偶然解禁日。漁に参加したという事は、私は自分で狩りをしている。ただし魚は一人分頂く、つまり一匹です。今日は正々堂々と、肉を食べていい訳です!」
宗教にさして興味もなく決まりなど知らない漁師達は、ぼんやりとした顔で立ち尽くすばかりだ。途中から余計な質問をしたと後悔する者や、明らかに聞くのを諦めている者までいた。自分くらいにしか分からない話を、長々熱心に解説されても困るだろう。謎のポーズを決めるムイを無視して、ローザは脳内記憶を漁る。ある日野宿をしていた時、兎を一匹狩ってきた時があった。一匹しか狩ってないので大丈夫、と言っていたのを。思えばあの日も食肉解禁日だったのだろう。
こっそり鶏肉を食べていた日もそれだったのか、どうなのか。好き勝手やっているようで、酒以外は最低限の規則を守っているらしい。はたまた、いつもの屁理屈のこじつけかもしれない。
空気を変えようと口を開いたのは、親方だった。
「それはともかく、だな。リッコムの言う通り、やっぱり何かお礼でもさせてくれねえか。怪物まで退治してもらってるしよ」
「その言葉だけで充分嬉しい……と、言いたいところですが、地酒の」
すかさずローザは、無言で背中を小突く。ムイは顔を歪め、大袈裟な動きをした。短く上げた呻き声にわざとらしさはなく、本当に痛かったらしい。ついうっかり、力を込めすぎてしまったようだ。
「じょ、冗談ですよ。細長い宝石のようなもの、流れ着いてませんでしたか?」
「いや、見てないな。探し物か?」
「そうですか。探し物といえば探し物なんですが……、いや、ありがとうございました」
ムイは顎に手を添え難しい顔で、教国語で小さく呟く。一体どこへ行ってしまったのだろうと。任務の内容は片付け終わったのに、まだ仕事の事を考えている。
真面目なのか不真面目なのか、分からない奴だとローザは思う。
その後、漁師達も休憩に使うという浜辺の木陰で休んだ。周辺に自生する大きな葉から作られる敷物を敷き、彼等が分けてくれた『疲れに効く飲み物』を飲みながら。この地域で採れる柑橘類を、砂糖と塩で煮たものでできている。岩影で冷やしておいた鉄製の器に入れ、冷たい井戸水で割り上からミントの葉を散らす。甘酸っぱく、ほんのり苦い。細長い金属棒でかき混ぜれば、無数の細長い果実が花吹雪のように渦を巻く。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。敷物の上で、ローザは仰向けに倒れていた。呑気に一人で昼寝をしても何も起こらないとは、やはり安全な街だ。顔を横に倒すと、例の『疲れに効く飲み物』が静かに佇んでいる。少し持ち上げてみると空だ。どうやら溢したりしていないらしく、安心する。同じ体勢をし続けて固くなった身を起こす。太陽は傾き始めていた。海辺の夕焼けは綺麗だ。
静かすぎるとローザが思えば、どうりで傍らにムイの姿はなかった。目で姿を探し始めた頃に、ちょうどムイが戻って来た。大きな翼を広げ、低空飛行で向かって来る。
空を飛ぶと徒歩より早く移動できるのは、ローザも知っている事だ。着地するなり細かく乾いた砂が舞い散り、たまらずローザは片手で顔を庇う。ムイは一言失礼と言ったきりで、反省の色は特にない。
「漁師の奥様方が、晩御飯を用意してくれるそうです。私は彼女達を手伝いに行きますが、ローザさんはどうします?」
聞くなりローザは渋い顔になった。ムイは料理ができる。しかも、それなりに上手い。初めて知った時ローザは、人は見かけによらないと思ったものだ。何百年生きてきた知らないがずっと独り身だそうだから、料理ができてもおかしくないのだろう。反対にローザは料理が苦手だった。怪力になってしまったせいで昔より戦闘で有利を取れる場面が増えたし、動かせなかったはずの重い大剣を持てるようにはなった。しかし逆に、野菜などの柔らかく繊細なものを扱うための、微妙な力の加減が上手くいかない。とんでもなく不器用かのようになってしまうので、人に見られると恥ずかしい。ムイについて行きたくない理由は、他にもあった。幼い時、家事は全て別の者の仕事だから覚える必要はないと、あまり熱心に教えてもらえなかった。それ故味付けや食材処理に自信がないままで、台所に立つ事を避け続けている彼女だった。
天空神が大地を荒らす前の、故郷に住んでいた幼い頃。周囲に言われるまま、武術や勉強が一番大切だと思っていた。
助けてくれたあの騎士も怪我が元で数日も持たず死んでしまい、どこだかも分からぬ広い街道の上で一人になって、家事も生きるために必要な技術だと気がついた。火の起こし方さえも分からず、今は亡き者達に脳内で文句を言っていた頃を思い出す。考え事をしていると、自然に俯いてしまう。
過去に全ての意識を持って行かれそうになった瞬間、視界の端で何かが大きく動いた。顔を上げると、褐色の両手が妙な動きをしている。前から思っていたが、何なのだろうか。ムイはローザが我に帰ったのを確認すると、大袈裟にしょぼくれて右手を伸ばす。おまけに一気に何十年も老け込んだ動作までついている。
「ローザさんや……、お爺ちゃんと一緒に来てくれないのかい? 寂しいのう……」
「…………」
「さーみーしーいーなー」
「分かったよ。行けばいいんだろう、行けば」
ローザは溜め息をついた。彼女が言うのも何だが、ムイは面倒な性格をしていると思う。普通に素直に頼めばいいのに、しばしば彼はそうしない。しかも、ローザが断りきれなくなるのを知っていて、わざとこういう言動をするのだ。ウァシニもそうだが、子供なのか大人なのか分からない。
「私の事を好きになってくれたのは嬉しいんですけど、もう少し他の善き人々とも交流とかした方がいいと思いますよ」
「お前の事が好きになったから、いつも一緒にいる訳ではない」
「そんな酷い」
冗談めかして笑うムイの手を取ると、先程の年寄りとは思えないほど元気に引っ張り上げられた。ローザは足元の器を持って、ムイは敷物を畳んで脇に挟み、二人歩き出す。ローザは足を運びながら、あの海紋族というやつをいつか間近で見てみたいものだ、と何となく考えていた。波の囁きに混じって、海の彼方から知らない音が聞こえてくる。もしかするとあれが、海紋族の歌なのかもしれない。
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