第6話 愛
ローザはもうずっと、目の前をうろつく灰色の背中を眺めていた。ムイは歩き出しては立ち止まり、落ち着かない様子で周囲を見回し、たまに首を捻ったりして、また何処かへ歩き出す。意味不明の独り言が小さく聞こえる。彼自身の母語である、教国語なのかもしれない。その後を、ローザが黙ってついて行く。
翼はゆるく閉じられ羽毛が寝ているので、緊張してはいないようだった。時にムイの翼は、彼本人の口よりも素直なものを語る。それにローザが気づいたのは、つい最近の事だ。他の翼晶族もそうなのだろうか。風が緩やかに流れ、生い茂る森の草木が揺れている。すれ違う者のない、街道から外れた小さく細い道を、二人でふらふらと歩く。
異変が起こったのは、突然だった。近くの草むらが大きく、生き物のように音を立てて踊る。ローザとムイは考えるよりも先に、どちらからともなくそれぞれの形で身構えた。果たして何の獣が飛び出してくるのか、はたまた晶鬼か、人間か。と暫し警戒していると、ふらりと視界に入ったのは縦に細長い影。目の前に飛び出してきたのは、旅仕様の鎧を身につけた一人の若い男だ。よく晴れた青空の下、太陽がしっかりと彼を照らしている。泥に汚れた外套の端には『風晶騎士団』の紋章。彼の置かれた状況は決して穏やかでない事を、汗にまみれ歪んだ顔が訴えかけていた。
「助けてくれ、サミンが、サミンが……!」
ムイが探していたのは、恐らく彼に違いない。ほんの数十分前に助けて欲しいという雰囲気の氣が届いた、とムイが言ったから、こうして二人で探していたのだ。ローザ達より少し遅れて、彼もこちらが同業者である事に気づいたらしい。若い騎士は足を引き摺るようにして近づき、両手でムイの二の腕辺りを掴み縋った。走ったせいで疲弊しているのだろうか。何処かに怪我までしている可能性もある。
「どうしました?」
「野良晶鬼がいたから、任務後のついでに退治しておこうと。しかし予想外に強くて、サミンとはぐれてしまって……」
上がる息を押さえつつ、男は必死で状況を説明しようとするのだが、言葉は彼の思いつくままに流れて行く。ただならぬ気配を察したのか、ムイの翼の毛が少し逆立っている。ムイが返したのは、冷静な言葉だ。
「大丈夫ですよ、落ち着いて喋ってください。怪我はありませんか?」
「俺は大丈夫です……」
「報告は飛ばしましたか?」
「い、いや……分からない。多分サミンは、まだしてない」
「任務外で晶鬼を見つけたら手を出さず離れる、氣に乗せて本部報告後指示を待て、ですよね。それに、自分の力が通用する相手かどうか、翼晶族なら敵に接触しなくても分かるはずです。
貴方もよく知っているはずですが」
ムイの口振りは穏やかだったが、飛び出す言葉自体は丸くないものばかりだ。それを聞いている男の表情が次第に曇る。ローザはムイと相手との間に、静かに入って行った。冷たく当たるムイをこのまま放置するのは、騎士の男がかわいそうな気がして何となく心が痛む。
「言いたい事は分かるが、ちょっと厳しい事を言い過ぎじゃないだろうか」
「ああ、すみません。こんな話をしてる場合じゃ、ありませんでしたね。年を取ると説教臭くなっていけない」
男が何か言葉を発しようとした時、彼の目前にムイの掌が現れ遮られた。落ち着いた動作で別の方向へ身体を向け、波を受け取りやすいようにするため軽く翼を広げる。表情の乏しい顔で虚空を見つめているムイを、二人の騎士が黙って見守る事数分間。ムイが気配を察知したらしい。
「どこだ?」
「あっちの方から……あっ、ローザさん! 待て、止まれ!」
ローザは指差された方向を見るや否や、制止を聞かず地を蹴って駆け出す。
サミンという人物が助けを求めてから、もう何十分も経ってしまっている。最悪の事態を考えたくはないが、その可能性が全くないとは言い切れない。
代わり映えのしない森の中を暫く走る。忙しなく動くローザの琥珀色の瞳は、ようやく見慣れないものを捉えた。草むらの中から飛び出している、細長い翼の端だ。目の前を覆う種類も雑多な草木を掻き分けて行くと、やはりそこには人がひとり倒れていた。己の赤髪を纏めて耳にかけ、その耳を女性の口の辺りに持って行く。弱々しいが息はしていた。目立った外傷もないようだ。ローザは翼晶族の女性を抱え、近くに見つけた比較的平たい場所まで運んでいく。近くに落ちていた錫杖の回収も忘れない。栗色の翼を持つ彼女はとても小柄で、褐色の肌も相まって全体的に茶色い。触れられた事で意識が戻ったらしく、彼女はうっすらと瞼を持ち上げる。彼女の瞳はしばらくぼんやりとしていたが、数秒後には覗き込んでいるローザへ焦点が合う。疲れて力が腹に入らないのか、囁くような声を発した。
『誰……』
「安心しろ。助太刀に来た者だ」
「ごめんなさい。近く村小さいある、私、戦おうとした。力が不足、経文、効かない……」
「通じなかったら、普通に話しかければいいんじゃないのか?」
晶鬼は元々翼晶族だったのだ、会話による説得方法もあるのではないかとローザは考えた。なによりムイが、口語で晶鬼に話しかけているのを何度か見ている。しかしサミンは渋い顔をした。
「それは、余計、無理。常識的に考えて……」
溜め息の後の呆れたような言葉は途切れ、サミンの顔色が一気に変わる。彼女は目を見開き、ローザの向こうの空間を、真っ直ぐに見ていた。ローザの背中から脳天に向かって、冷えたものが駆け上がる。反射的に振り返ると、赤黒い肉体が大口を開いている。ゆっくりとした世界の中で迫る、邪悪な氣を纏う風の塊、晶鬼。自分の息がやけに大きく聞こえる。逃げたサミンを追って来たのだ。ローザは唇を噛む。心を決めて、大剣の柄に手をかける。間合いに入った頃合いを見計らって刃を寝かせ、大きく横に薙いだ。かすった程度。攻撃に移るタイミングが少し早すぎた。怯んだ晶鬼は一旦飛び下がるが、すぐに再接近。鋭い爪を振りかぶり、体勢を整えている最中だったローザの右腕を斬りつけてくる。腕の中のサミンが、短い悲鳴を上げた。斬られた場所は一息後に燃えるように熱くなる。今回はかすっただけで済んだが、それでも痛い。まともに当たっていたら腕が飛んでいたかもしれない。
この固体の機動力が予想以上に高かった。剣を敵と平行にして地面に突き刺し、楯のように扱うのが精一杯だ。これで次の攻撃は防げる。運があれば、更に二撃目。大剣の腹の上で火花が散る。
二撃目は脇から飛んできた。攻撃を避けるために、サミンと一緒に転がるように武器から離れる。ローザが起き上がると、少し離れた場所にサミンが倒れていた。翼晶族の僧侶であるサミンはもう、疲れきって戦える状態ではない。人ならざる者の大きな瞳に捉えられる。息をする度に傷口が痛む。
鋭い音が飛んでくる。それは、ローザが走って来た方向からだった。木の枝が揺れる音が、何度も響く、どんどん近くなる。ムイが駆けてくる。翼を拡げ風を操り、人を阻んで生い茂る木々の腹を蹴り、間を縫うように。翼晶族が本気で速度を出そうとするとき、殆ど地面に足をつけない。彼等の脚は、二対ある。
ひとつは足。もうひとつは翼。ムイは前だけを見ている。己のエギル鋼製弓銃を、腰の固定器具から完全に分離させ構えていた。速度を落とさず二人を追い越す。
距離が近すぎて二人が逃げられないなら、それを補う手を打たなければならない。ムイは躊躇いなく、ローザとサミンの前へ。
瘴気渦巻く口の中へ上半身を捩じ込むと、弓銃を縦にして身体全体で強い衝撃に備える。
飛び込んできた獲物に食らいつこうと、勢いよく閉じた牙は、ムイの上半身へ傷をつける前にしっかりと阻まれる。剣と剣を打ち合わせるのに似た激しい音が、長閑な昼下がりの森に木霊した。
ムイは眼鏡越しにそれを見届けた直後、武器から手を離す。敵に背を向ける暇もなく、翼を大きく操り走るよりも早く後ろへ。まだ唖然としているローザを、通り過ぎ様に脇に抱える事を忘れない。靴の踵を少し引摺りながらも、素早く距離を取る。ムイに助けられたのだと分かった頃には、ローザは比較的安全な場所に移動させられていた。ローザの視界には、異物を口に入れられて藻掻く晶鬼が映っている。人間に似た大口からは瘴気が激しく吹き出して、木か鋼の歪んでいく悲鳴が何度も響く。顔を降って探すと、遅れて来た騎士の男が少女を担いで後退していた。栗色の翼が草むらの中へ消えて行く。サミンは無事、相棒に助けられたようだ。
「直情的な戦い方は、感心しないですね」
ムイは視線を正面に向けたまま、ローザの方を少しも見ずに言う。視線の先に敵を捉えているのかどうなのか、抱えられたままでは角度が悪く分からない。片膝をついた彼の呼吸が、珍しく乱れている。しかしそれも、すぐに元に戻っていった。
「すまない……僧侶の護衛としてあまり役に立てないどころか、お前の武器も駄目にしてしまった」
「私を誰だと思ってます? 射撃の下手な弓兵じゃないんですよ。 それに壊したのはローザさんじゃない、私です。特注品なのでちょっと残念でしたが」
「特注品だったのか」
「いいですかローザさん。人間命が一番大事です。命だけは、唯一お金で買えませんから」
「うん……愛は? 愛もお金で買えないだろう」
ムイは小さく唸った後、あっさりとした口振りで呟く。
「ものによるんじゃないですか」
晶鬼はいよいよ口の中の物を噛み砕き、鋭い爪を備えた足で地を蹴る。その時騎士の男が草むらから飛び出してきて、晶鬼の脇腹を剣で斬りつけた。邪魔をされた晶鬼は、剣を構え直した騎士に向かって轟と吠える。ムイとローザ達から注意を反らす事に成功した彼は、そのまま晶鬼の相手を始めた。
「下がっていてください」
ムイの言葉にはっきりと返事を返し、ローザは頷く。怪我をしているローザが加勢をするのは、足手纏いになりかねない。前で戦っている騎士の代わりに、サミンを守る役をするべきだ。ムイは敵の動向を注視したまま、懐に両手を入れ何かを探し始めた。小刀を持てるだけ取り出すと、札を一枚口にくわえる。立ち上がる最中何か言ったらしいが、紙をくわえたままでは不明瞭な息にしかならなかった。
ローザは流血する右腕を押さえ、サミンのいる方へ走り出す。
戦いの後、すぐに街道へと戻り安全を確保する。怪我した方の手を出すようムイに促されたので、ローザは地面に座って腕を捲る。ムイが手をかざし自らの氣を注ぐと、ローザの傷は少し塞がり痛みも和らいだ。神官達の『癒術』と似たようなものだという。氣での治療をローザは何度かしてもらってきたが、なかなかに体力を使うらしい。少なくともムイはこれをやる度、毎回額に汗を滲ませながら苦しい顔をする。こっちは苦手なのだろうか。
「守って貰う側の私が、どうしてこう毎回余計に働かされる羽目になるんですかねえー」
「面目ない」
何だかんだと小言を言いながらも、彼は手際よく動いた。清めの水を染み込ませた布で周囲の血を拭って、新しく出してきた細長い布を当て、力加減を調整しながらしっかり巻いていく。一連のこの作業は片手ではできないので、彼に全てをやって貰うしかなかった。騎士の男とサミンの二人も、お互い必要な処置をしていた。手当てが終了した頃、二人が近づいてくる。ローザとムイは立ち上がった。騎士の男がこちらへ向かって頭を下げる。
「本当にありがとうございました。貴女が危険を省みず走って行ってくれなければ、きっとサミンまで……」
「いや、彼女の声に気づいたのもムイだし、助けようと言い出したのもムイだ。礼なら彼に」
「そうだったんですか。ムイさんも、ありがとうございます。ほら、サミン」
「ありがとう」
「いやいや、当然の事をしたまでです。ええと、」
「あ、俺はエリアスと言います」
「そう言えば、ごたごたして名乗ってなかったな。私はローザだ」
一連のやりとりの後、人族は人族同士でお互いに握手を交わす。王国人同士は気が楽だ。簡単な世間話を終えて隣を見ると、ムイはサミンと向かい合っていた。サミンはローザよりも背が低いので、彼女は首を反らしてムイを見上げる形となる。教国語を使い小声で何かを話しているのだが、ちらほら知らない単語が混じる上に早いため聞き取り辛い。エリアスは渋い顔をして、二人の間に入った。彼はローザよりもずっと、教国語が分かるようだ。
「その位にしてやってくれませんか。俺は、貴方の主張を否定する気なんかありません。いや、貴方の方が正しいくらいだと思う」
「何言うの、エリアス。私、間違ってない」
語気を荒げて興奮し始めたサミンは、エリアスによって静かに彼の側に引き戻される。ここに来てローザは、僧侶同士が言い争いをしているらしいと気がついた。
口調が別段荒くなかったので、ローザはただ世間話をしているだけかと思っていた。やはりもっと真面目に教国語を勉強するべきだった、しなければいけないとローザは思う。ムイは笑顔を浮かべ、片手をひらひらと横に振った。
「いやいや、私も否定するつもりはないです。ただ貴方がたのような人に産まれて初めて会ったので、驚いてしまいまして。年長者心から、余計な口出しをしました。失礼をすみません」
一連の言葉を聞いたエリアスとサミンは、同時に少し驚いた顔をする。二人揃って意外だという気持ちが、隠される事なく表に出ていた。
「また、怒られたのと思った……」
「そうだな。俺達の関係に気づいた人は、怒って否定するか、気味悪がって軽蔑する人ばかりだったから」
「それは大変ですね」
「なあ、さっきから何の話をしてるんだ」
話に一人だけついていけないローザは、思い切って直接聞く事にした。
「気づいてなかったんですか。貴女ちょっと鈍すぎません?」
ムイの言葉をローザは無視した。
「俺達、恋人同士なんです」
代わりにエリアスが、小さな声で教えてくれる。自分達しかいないのだから小声でなくとも大丈夫だが、照れ臭い気持ちがあったりするのだろう。それに、いくばくかの後ろめたさも。イル教で結婚そのものは禁止されていないが、慎ましくない恋愛や別種族同士の関係についてはその限りではなかった。たちまちサミンが顔を赤らめて俯く。乙女のような素振りの彼女を見て、エリアスへの気持ちが本物であるのをローザは知った。そして、エリアスがサミンを思う心も。
「あの、俺達の事は」
「もちろん、誰にも……偉い人に言ったりなんかしませんよ。私不良なので」
「自分で言うか」
ムイが悪びれる事なく頬笑むので、ローザはすっかり呆れてしまう。エリアス達と方向が同じという訳で、途中まで共に行く事にした。他愛ないやりとりを二つの言語で続ける間にも、四人はせっせと足を進める。しばらく歩いていると、遠くの方に分かれ道が見えてきた。彼等は躊躇いなく、右の道を選んで歩いて行く。手を降って、朗らかに別れの言葉を送りながら。ローザ達とは別の方向へ行く。またいつか、彼等と会う事もあるだろう。機会さえあれば。
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