第7話 騎士団長の休日

 ムイとウァシニが喋らなくなってから、何分が過ぎただろう。彼等は今、とても真剣なのだ。机の上には、沢山の四角が記された四角い盤が広げられている。教国産の金属で出来ているのだろうが、エギルとも違うその金属の名をローザは知らない。銀色の内に青みがかった光沢があるので、冷たい美しさを感じさせる。顔を突き合わせる二人の間で、琥珀色の瞳を静かに揺らしながら、進むゲームを眺めていた。ルールはよく分からない。最初に二人から教えて貰ったものの、ややこしいという印象だけがローザの頭に残ってしまった。似た盤上ゲームは王国にもあるのだが、ここまで複雑ではなかったように思う。

 ムイとウァシニが座っているのは、不思議な形の背凭れのついた椅子だ。翼があるのを考慮しての形だろうが、人族のローザにはいささか背中の守りが頼りないように見える。もちろんローザは人族なので、人族用の椅子を使っていた。


 平たい金属製の駒が、褐色をした二つの手によって設置されていく。向かい合う、きめ細やかな少女の手、案外無骨な青年の手。駒を掴む指は時に迷い、時に素早く決断する。金属同士が軽く当たる小気味よい音が、天井の高い室内に響く。時々裏返されたり、元に戻ったりする。案外軽く出来ているらしい、と指先の動きを見ながらローザは思った。駒には教国文字が一文字、ないしは二文字程度黒色で書かれていて、裏にはまた違う赤文字の刻まれた面が出てくる。しばらくしてウァシニがしたり顔で、赤色の駒をある場所に置く。

それが終わりの一手だと、置かれる直前にムイは気がつき表情筋を引き攣らせる。少女のしなやかな指が、ムイの手持ちを一気に引っくり返して行く。躊躇いも同情もなく、黒から赤へ、黒から赤へ。適当につまんでいるようにしか見えないが、ウァシニはもちろんルールに乗っ取って動かしている。ムイが眼鏡の位置を直し、やや身を乗り出して、目を見張る。怒涛の勢いで己が逆転負けして行くのを、ただ眺める事しかできなかった。

「ぬあーーーッ!」

 たまらずムイが、雄叫びを上げた。



『また嵌めましたね! 何手前だ……、何手前から仕込まれて……あっ!?』

「お主、自分が勝てそうになるとすぐ焦るのう。お主を苛めるのも楽しいが、ギルベルトと遊んだ方がより勝負が難しくなって楽しいのじゃ」

 ウァシニは得意気に笑み、白く美しい翼を四枚とも膨らませた。ギルベルトというのは副騎士団長の事だ、とローザは記憶を便りに思い返す。髭を綺麗に整えた老紳士で、体格も良く強そうな人物なのだ。辺境生まれのローザは詳しく知らないが、確か、王国ではかなり有名な人間らしい。

「焦ると筋が乱暴になり、一気に分かりやすくなる。本質はなかなか変えられるものでないのか」

「うっ」

「今日はそれが顕著に出ておるな? やはり二日酔いか?」

「うう……」

 ウァシニに言葉で追い討ちをかけられ、ムイはぐうの音も出せなくなる。灰色の翼は細くしぼんでいた。ウァシニの言う乱暴な筋というものが、ずっと側で見ていたローザには分からなかった。やはり長い付き合いだと、その辺りの微妙な事が分かるのだろうか。ウァシニは片手を口許にあて、ローザの耳元付近へ顔を持ってきた。意地の悪い微笑みを浮かべながら、緑色の目を半分伏せる。

「ローザよ、よい機会だから教えてやろう。この男はな、今でこそ神に仕える聖職者だが、昔は」

 突然ムイが大きな声を出しながらウァシニを引き離したので、肝心なところが聞こえなかった。

「何勝手にバラそうとしてるんですか人の黒歴史を! ローザさんには秘密にしておくって約束だったでしょうが! 何という下衆の行い! どうなんですか聖職者として!」

「未だに酒壷から左足が抜けてない奴に、聖職者としてどうこうなんぞ言われたくないわ」

「はい聞こえない! 何も聞こえない! 若い頃の話なんかいいですから、もう一回やりましょう!」

「よい歳をしてごねるのはやめんか。三回勝負と決めたろう」

 ウァシニは盤を片付けながら、部屋の隅に控えていた使用人を呼びお茶を頼んだ。三回目の勝負が終わったのだ。盤を動かした拍子に滑り落ちた駒が、ひとつ。ぽつりと少し寂しそうに、元いた箱にしまわれるのを待っている。ムイは片付けを手伝う気力もなく、机に突っ伏して言葉にならない情けない声を上げた。

置かれている状況を終始見ていれば納得もできる。


 二人が最近ハマっているのは、『シタランカ』という、教国に古くから存在する盤上ゲームだった。何年間返り討ちにされているのか定かではないが、長命の彼らの言う最近など、人族から見ればとんでもなく前からかもしれない。ムイが身動きすると駒がじゃらじゃらと散り、数個が床に墜落して軽い音を立てた。

ローザが拾い集め、ひとつひとつ机の上に戻してやる。それをウァシニが、ムイを邪魔そうにしながら回収する。改めて見ると、読めるような読めないような文字だ。日常で使う字とは違うのだろう。



 ウァシニ騎士団長の私室に入る事が許される者は、もちろん限られている。彼女の貴重な休日にともなれば、更に少なくなるはずだ。位の高い人間の暇潰しにつき合うというのは、いくら仕事でなくても神経が磨り減る。遠慮する気もなくこんなに寛いでいるのは、風晶騎士団広しと言えどもムイくらいだ。

もっとも彼はウァシニと知古らしいので、気兼ねする必要がないのかもしれないが。全く違うように見える二人が、どんな経緯でこの関係に至ったのかは、ローザには想像もつかなかった。

「若い頃なあ……。ローザの子どもの頃は、一体どんな童だったのじゃ?」

 軽く飛んで棚へと箱をしまいながら、ウァシニはローザに話しかける。手を伸ばして届かない場合でも、翼晶族なら翼を使えば届く。それがローザには、何だか羨ましく感じられた。ローザが返す言葉を考えていると、何故か横から返事が飛んできた。

「まあ、何となく分かりますよ、色見てれば。一番初めに会った時は、めちゃくちゃおっかなかったですけどね」

「色って何なんだ?」

 次の瞬間に彼が浮かべたのは、口を滑らせたとはっきり出ている珍しい表情。

「あっ、えーと。雰囲気みたいなやつです、かね」

 ムイは笑いながら曖昧な返事をする。また教えてくれないだろうかとウァシニに視線を送るが、自分にもよく分からないと首を傾げられた。ムイはローザの必要とする物事を何でも快く教えてくれるが、彼自身の事となるとその殆どをはぐらかされる。ローザ自身もあまり自分の深い部分を教えないので、仕方ないのかもしれない。初めて出会った時も、色について言われたのをローザは思い出す。

初対面であるはずのローザを一目みるなり足早に近づき、何をしでかしたらそんな色になるのかと、困惑と驚愕のない交ぜになった顔をして。風晶騎士団団員募集の張り紙を手に、王都の面接会場に足を運んだ日の事だった。茶色系統の翼が多い中灰色は珍しかったので、自然とローザの目についたのだ。不躾ともいえる視線を受け取って、彼もローザに直ぐに気がつく。そうしてあの言動に繋がる。言っている事が理解出来ないながら、直感的に失礼な男だと思った。ローザもローザで失礼な言動をしていたのだが、あの時彼女は自分を守るのに精一杯だった。その後険悪な空気になって、ムイは一度ローザの前から逃げ出した。ほどなくして再び顔を合わせる事になろうとは、微塵も予測していなかったが。


 彼の言う通り、ローザは昔と比べて丸くなった。この仕事を始めてからだ。ムイや他の人間達に影響されたのかは分からない。翼晶族というだけで、憎らしさを感じていたというのに。天空神に仕える異種族達を人と認識していなかったローザは、ある時彼等も自分と同じ心を持つひとであると知ってしまった。傷ついたのは人族だけでない事を。今ではこうして、人族同士でやるように普通の会話をしている。彼等の事を調べる内に、いつの間にか怒りを覚えるのは天空神だけになった。あの日何故事件が起こったのか、何が起こっていたのか、真相を知りたいと思うようになった。それもいつかは薄れてしまう可能性について考える時、ローザは少し恐ろしくなる。

 複雑な気持ちでローザが俯くと、木目は綺麗な模様を描いていた。一言断りを入れつつ使用人が視界の端から差し出したのは、小綺麗な硝子茶器に入ったお茶だ。褐色の手は静かに配膳し、一歩下がってからお辞儀をする。それを人数分繰り返し、全てのお茶と茶菓子を配り終えると、部屋の端へと戻って行った。

 硝子茶器の中に入っているのは、薄紫色の透き通った液体だ。下の方には小さな青い果実と白い花弁が少量沈んでいるのだが、もちろんこれもきちんとした食用であり、添えられた専用スプーンでお茶と一緒に楽しむものだ。小さな蓋を開けると、花にも似た香りがほんのりと鼻腔を撫でる。教国のお茶は以前にも飲んだ事があるので、ローザは名前も味も知っていた。チャーというのだ。最初は見慣れたお茶らしくない怪しい色に驚いたが、ひと口飲んでみれば爽やかな清涼感と優しい渋みがすっと喉を通り抜ける。ぷちぷちとした食感の青い果実は甘酸っぱく、交互に食べるとこれまた相性がいい。

 次に彼女が注目したのは、茶菓子の方だった。ローザは目前に置かれた青い小皿を観察する。ひと口大に四角く切られた、白っぽい半透明のものが乗っていた。数は三個。ローザの初めて見る食べ物だったし、匂いもほとんどしない。一体何の食材できているのか想像できなかった。どうしても慎重になるローザに反して、ムイは喜びの声を上げる。

「おお、果白餅じゃないですか。久しぶりに食べますよこれ」

 久し振りに再会した古郷の菓子ならば、やはり嬉しいのだろう。

言うなりひとつを串で突き刺して、躊躇う事なく口に入れた。

「パル、サ……何だって?」

「ローザさんは初めて見るものでしたか。説明するなら、粉と砂糖と果汁を合わせて練り固めたものです」

「甘くて美味しいぞ。ぐちゃぐちゃして!」

「ぐちゃぐちゃ……?」

 綺麗でない単語を力強く言い放たれても、あまり美味しそうに感じられない。いまいち食いつきのよくないローザを見て、ムイが菓子の名誉を挽回しようと試みる。

「ぐちゃぐちゃはちょっと違うんじゃないですかね。ねちょねちょ……は、もっと違うか……」

「あれって、王国語では何と表現したらいいんじゃろうか」

「分かりません……まあ、食べてみれば分かりますよ」

「そうじゃな。食べてみれば分かる」

 二人は納得し、笑顔で見つめてくる。最初に不穏な説明を受けてしまったせいであまり気が進まないが、食べなければこの場が気不味い。串で少し押してみると、白い固まりの表面に凹みが残る。果白餅という名の未知の物体は、頭に細い跡をつけたまま、何も感じていない体で平然として、ただそこでローザに食べられるのを待っていた。



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