第8話 剣の名
今ローザが接近しようとしている小屋は、町外れの枯草混じる茂みの中にぽつりと寂しく建っていた。
日中でも通る人間達はそう多くなく、管理する者が誰もいない放置小屋と十中八九思われるだろう。
だが、ここには何か秘密がある事をローザは知っている。真実へ辿り着くまでに、二人で何日もかけてきたのだ。現に今日は、いつもいないはずの見張りが二人も立っており、物々しい雰囲気がある。ローザは機を狙いながら息を潜め、琥珀色の瞳を光らせていた。男達がよそ見をして会話を始めた瞬間、赤い髪を翻し木の影から躍り出る。
二人の見張りは、手早く気絶させた。しかし、と、もう一度周囲を確認しながらローザは思案する。
拐われたムイの居場所を突き止めるのに、意外と時間がかかってしまった。彼が逃げるための抵抗をしなかったなら、ローザが想定したこの場所で会えるだろう。聖職者がむやみに暴力へ訴えてはいけないのは、教国僧も王国神官も同じだ。彼は表向きには、普通の教国人であり普通のイル教僧侶でなければならなかった。気が緩んだ拍子に目を離してしまい悪い事をした、などと考えている暇はない。ローザは息を潜めながら扉を少しだけ開け、目視で状況を確認する。
黴か埃が鼻を突くのに紛れて、古い木材の臭いがする。
板や薪や農作業道具が、部屋の隅にちらほらと置いてある。思いの外中は薄暗く、長くここにいては今が何時か分からなくなるかもしれない。
内部はさほど広くないので、ムイは直ぐに見つかった。後ろに回された両手と胴体を、しっかり縄で縛られた状態で踞っている。彼の背中の方に目をやると、飛んだりしないようにか両の翼まで縛られていた。
灰色の塊はもぞもぞと動いていたが、こうもしっかり縛られては自力での脱出は不可能だろう。片足の縄を目で辿ると、柱に繋がっていた。まるで獰猛な猪か何かを縛っているかのような様相だ。ローザからして見ればやり過ぎという感じもするが、一般人は翼晶族をよく知らないので、得体の知れない存在を怖れた故の過剰行動だろう。または、群集心理の結果かもしれない。まだローザに気づいていないらしいムイは、何度目か分からない悪足掻きを始めた。しかし結局バランスを崩し、転んだ拍子に近くの木桶を思い切り吹き飛ばす形になる。木桶は埃を撒き散らしながら滑って行き、小屋の隅にぶつかる前に止まった。その際に言葉にも聞こえる荒い息が漏れていたようだが、意味は全く分からない。
彼はローザが扉から半分顔を出しているのに気がつくと、親の仇でも見るかのように顔を歪め、しかし直ぐにばつが悪そうな表情に一転し目を反らした。いつも彼の顔面にあるはずの眼鏡がない。さきほどの言動を見られたのが気まずかったのだろうか、それともまた見張りが様子を見に来たと思ったのだろうか。
口に布まで噛まされているし、これでは喋れない訳だ。こんな様子のムイは見た事がなかったローザは、驚きの延長線上で何となくそのまま眺めてしまう。数秒間沈黙は続いた。床を見ていたムイが、またローザの方を見た。外界からの光に細められた色素の薄い瞳は、早くしろと言っているように見える。いい加減に助けた方がいいだろうとローザは考え、極力音を立てないよう、室内へ入って行く。
まずは後ろに回り、口の布を取ってやる。ムイは大きく息を吸い込んだ後、再び舞い上がった埃に噎せた。近くで見ると、覗いている歯が人間より鋭い。それはローザに、彼が人とは違う種族という事を思い出させた。神に光を与えられて間もない原初の時代、空の島の生物が持つ固い外骨格を噛み砕いていたのが、この歯だと言われる。翼晶族も世代交代と進化が進み、口は言葉を発しやすいものに変わって行ったが、それでも人族にとっては怖さを感じさせる形状をしている。ローザの心境を知ってか知らずか、ムイはいつものように緊張感のない顔で笑った。
「そろそろ来てくれる頃だと思いましたよ」
「お前、やっぱりわざとだろう」
「あっ、さすがのローザさんも分かりました? あそこで大人しく捕まっておけば、それなりの所へ連れて行かれると思いましてね」
「さすがのは余計だ。全く、本当に適当な奴だな」
「それほどでもないですよ。貴女がこうして、ちゃんと追ってきてくれましたし。来なかったら来なかったで、また別の手を考えるまでですし」
いつもは元気のいいムイも、この時ばかりは騒々しくせず声を潜めていた。ローザは彼の上体を起こしてやると、自分の太腿に装備している小剣を一本取り出し、拘束する縄を順番に切っていく。ところどころ擦傷や小さな痣があるようだが、それ以外怪我はなさそうだ。ムイは両手を開放された時、微かに呻き声を上げながら前に戻す。翼を拘束する縄が切られる。この瞬間を待っていたとばかりに、両の翼をゆっくりと、大きく広げ伸びをする。長らく同じ体勢でいたせいで、筋肉が凝ってしまったのだろう。最後に足の縄を切れば、晴れて自由の身だ。ローザが小剣をしまう頃、彼は手首にできた擦傷をさすっていた。動作の最中、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「見張りが二人いたでしょう」
「背中丸出しでしょうもない事を雑談していたから、首の後ろを少し叩いた。そうしたら気絶して、死んだみたいになった」
「さすが怪力女」
「怪力女とかいう呼び方はやめろ」
誉めているのか貶しているのか分からない言葉に、ローザはいつもするように眉をひそめる。苦労して助けに来たのだから、もう少し労いの気持ちを見せてくれてもいいのではないか。途中まで考えて、彼がこういう男だったと思い直す。案の定次にムイが心配したのは、ローザでも自分でもなく眼鏡の安否だった。
「私の眼鏡はどこに行きました? 眼鏡がないと、本当に何も見えないんです」
「眼鏡よりまず、自分の身を大事にしろ。もしお前に何かあったら、騎士である私がお前を斬らなければならないんだぞ」
「そう言いますけどね、貴女だってよく勝手に突っ込んで行くじゃないですか。そろそろ私の事を信頼してくれてもいいのでは?」
「それはお互い様だろう」
ローザが言い返すと、ムイは変にはっきりとした、明るさの奥に嫌なものを感じさせる笑みを浮かべた。こういうのは大抵、面倒な事かしょうもない事を考えている最中の顔だ。ローザは自分の頬の筋肉が、微かにひきつるのを感じた。
「ローザさん」
「聞きたくない」
「最近私の事を、はっきり心配してくれるようになりましたよね」
「別に、普通だ。最初からこうだろう」
「やだなー白々しい。出会った頃は、全然人間扱いしてくれなかったのに」
「人聞きの悪い。それに、全然は余計だ」
「もしかして照れてる? 照れてるんですか?」
「いいからさっさと眼鏡をかけろ」
彼の目の前に眼鏡を差し出す。今も表で伸びている、見張りの一人から取り返したものだ。王国では見られない希少な金属と、高度な技術で加工された硝子からできている眼鏡は、大地ではそれなりに『金目の物』だった。どちらの国でも眼鏡は高価な物だが、鉱物加工技術の面では教国の方がより洗練されている。
国交が確立されつつある現在、教国製の鉱物製品や硝子製品を欲しがる王国貴族なども多い。ムイは少し驚いた表情を浮かべ怯んだが、すぐに鼻先にぶら下げられた物体を眼鏡と理解する。
眼鏡がないだけにも関わらず、顔の印象はだいぶ変わるものだとローザは思う。ムイはゆっくりと手を伸ばし、慎重に眼鏡を掴む。眼鏡を顔の真ん中に納めて一息、ああよかったと呟いた。ムイの視力が相当悪い事は、ローザもよく知るところだった。裸眼ではこのくらい思いきり近づけるか、直に手に持たせてやるかしないと、物の大きさと形状によっては一度で正確に掴まえる事が出来ない事がある。
その上彼は眼鏡をかけている状態でも、何かと近目だ。日頃の行いからして、経典を読みすぎたせいとは思えないが。
「そう言えば、浄滅君二号もないんですよ。反撃されないようにって事だと思いますが、没収されまして。多分今頃バッキバキに分解されて……ああ……特注品が。人に向ける武器ではないという弁明も虚しく、無実の罪を着せられて部品を売り飛ばされていく……」
ムイはやや芝居がかった様子で、浄滅君二号とやらの末路を思って嘆き出す。かと思えば口許を片手で押さえ俯いて、教国語からなる小さな呟きを漏らし始める。隠す、杖、見破られる、の、否定形。次、頼む、ラキ(人名だろうか)、挑戦。ローザは教国人によって滑らかに語られる教国口語を、瞬時に理解できるほど完全に覚えられていない。しかし、端々の単語はなんとなく理解できた。そんなような意味程度だが、彼女にとっては大きな進歩だ。
「武器に変な名前をつけるのはやめよう」
「とか言っちゃって、ローザさんの大剣にも名前あるんでしょう? 由緒正しい系の。柄の細工とか、何か凄そうですし」
「私の剣にも名前はあるんだろうが、分からないんだ。元々私のものではないからな……」
「そうなんですか」
ムイは返ってきた話題に対して、深く突っ込んで来る事はなかった。表でひとつ、物音がしたからだ。
即座に飛び上がって走り出したムイを、遅れてローザが追いかける。二人が急いで小屋を出ると、傷ついた体を引き摺るようにして逃げて行く男二人の背中が見えた。それを手分けして再び捕まえる。印を結んで呼びつけた風で、暴れる男達を押さえながらムイが指示してきたのは、倉庫にある縄を使いしっかり縛り上げる事だった。ローザは素直に言う通りにする。聖職者のくせして、こういう所が変にこなれているものだ。
「ローザさん。見張りなどを攻撃した時は、縄でしっかり縛っておかないと。次からはそうしてください」
「ちくしょう、何者だてめぇ!」
「おじさんはね、ただのしがない坊さんですよ」
「こんな狂暴な聖職者があるかッ!」
捕まえ直した男の内一人が、ローザの足元で苛立ち粗野な言葉を吐き捨てる。二人の男が手首、足首、胴体を縛られてなおじりじりと動く様子は、芋虫かなにかのようだ。さしずめ蛾の幼虫と言ったところだろう。
「つーか、さっきから王国語ペラペラじゃねえか! 騙しやがって……!」
もう一人の方は表情から丸分かりだが、すっかり戦意を喪失しており弱々しい声を出す。
「じゃ、じゃあ、俺達が話してた事も、全部……」
ムイは片膝をついて屈むと、未だ反抗的な方の襟を引っ張り、無理矢理顔を合わせる。方々に跳ねた癖のある灰色の髪が、風を受けて僅かに揺れた。口を開けば語気は意外と穏やかで、こんな状況にも関わらず笑っている。
「やだなあ、騙しやがってだなんて、酷いじゃないですか。ブツに手を出したのは貴方達が先だし、勝手に早とちりしたのが悪いんですよ? でも、念のため、耳も塞いでおくべきでしたねえ」
酷い暴力を振るってきた相手を無抵抗にしたのだから、ここぞとばかりに仕返しをしたくなるだろう。
彼は一見温和そうに見えて、負けず嫌いなところがある。そうローザは考えて彼の動きに注意していたが、どうやらその心配は杞憂に終わったらしい。言いたい事を言った後は、手を離して再び地面に転がす。ムイが何もして来なかったのが逆に怖かったのか、男は顔を青ざめさせ黙り込んでしまう。
靴の踵をくるりと返し、翼晶族の僧はローザの方へ体を向ける。
「やはりこいつらが、一連の翼晶窃盗事件の犯人と見て間違いないです。周辺に潜窟があって、他の盗品なんかも隠してあるようですよ」
「場所は分かるんだな」
「ええ、もちろん。全部しっかり聞いてましたから。そこから導き出せば、答えは簡単です」
ムイは余裕綽々として言う。
その後ローザを先導するため、縄を解けだの助けてだの喚く男共を無視して歩き出す。つまらない言い訳を聞いている時間はないと一蹴したのだ。罪もない死者を利用したり、他にも多くの悪行を働いていたのだから、こんな目に会うのも自業自得というものだろう。ムイには効果がないと分かると、今度はローザを泣き落とそうとしてきた。相手は抵抗しない人間にも暴力を振るうような輩だから、同情すればそれを利用してくるかも分からない。ローザは更に数歩、彼等から距離を取った。
「安心しろ、駐屯所へは先に報告してある。憲兵はこの周辺から調査しに来るから、死ぬまでの事態にはないだろう」
それだけの情報を渡して、急ぎムイを追いかける。先回りして、翼晶だけ回収しなければならない。
遠くの方に広がる町の中心部は橙色に染まり、いつの間にか暗く影が落ちている場所が増えていた。
一番黒いところでは、ぽつり、ぽつりと、小さな光りが浮かび上がり始める。陽が暮れて行く最中の、ほんの短い間だけ見られる風景だ。もう一仕事終えたら二人で飲みに行こう、と突然ムイが言う。ローザはというと酒は好きでも嫌いでもないが、特に断る理由もないので了承する。酒の席を共にどうかと持ちかけられたのは、思えば旅を始めて以降初めての事だ。
一人で飲む派の人間だと思っていただけに、その提案はローザにとってとても意外だった。まだ全て終わっていない内から気の早い話ではあったが、それを言うのはやめておく。
二人ならもちろん、仕事は完遂できる。
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