第2話 風なき風車村

 太陽は暖かく、空は青く澄んでいる。風は殆ど、吹いていない。瑞々しい草原が広がる場所には、ちらほらと野花が密集していた。平和な昼時を満喫していたであろう小さな花は、蜜を吸いに来た虫を優しく受け入れていた。と、鬼気迫るものを察知した虫が、慌ててその場を離れて行く。移動する物体が起こした風に、一帯の柔らかい葉が何度も大きく揺さぶられる。二人分の人間の足が、騒々しく通りすぎていったのだ。

静かになった頃合いを見計らって、花の元に再び虫が戻ってくる。かくして彼らの危険は一時去り、周辺に平和は戻った。


 通りすぎて行った二人の人間の方は、長らく波乱の真っ最中だった。のどかな草原の中を必死の形相で走っている様は、端から見れば異様な光景に違いなかった。一人は赤銅色の髪と琥珀色の瞳を持った女で、騎士の鎧を身につけ大きな剣を背負っている。もう一人は褐色肌と灰色の翼を持った翼晶族の男で、弓銃を腰に下げ異教の装束を着ていた。彼は汗でずれた眼鏡を顔の真ん中に戻しながら、焦りを隠す事もせず叫ぶ。

「どうして! こうなった!」

「最初にお前が! 外したからだ!」

 赤い髪を振り乱し、負けじとローザも叫ぶ。それでも足を動かす事は忘れないのだが、どんどん距離を離されている。今回の相手は小さく力も弱いと聞いて、ローザは少し油断していた。

二人して窮地に陥っている事から、油断していたのはムイも同じだったのかもしれない。罠を仕掛けたり色々やったが、結局最後は逃げられる事が朝から続いている。何の収穫もないまま、日が暮れてしまうのだけは避けたい。走るローザは琥珀色の瞳で、微風の漂う平和な空を睨むように見る。小さな赤い風の塊を視界に入れておくだけでも大変だ。体に対して冗談のように小さい翼が羽ばたいて、馬も追いつけるか怪しい速度で遠ざかって行く。一度見失えば、ムイの感覚を頼りに地道な追跡をする作業からやり直しなのだ。

「弓は本職じゃないんでね、諦めて下さい! そもそも、あんな小さくてめちゃくちゃ動く的に一発で当てるとか、世界びっくり名人芸ですよ!」

 ムイのしょうもない言い訳を聞き流す間にも、目標の背中はどんどん小さくなる。何度対峙しても禍々しさは感じられないが、あれも目標なのだ。害がなさそうだから諦めて帰るという選択は、風晶騎士の名において言語道断だった。目標達にとってもよくない事だし、放っておくのは決まりで許されないし、一帯の土地も風が吹かずに困っている。何より一番に後が怖い。ただ追いかけ続けても必ず引き離されるのが、午前中の追いかけっこという名の調査ではっきりしている。体力を考えれば早めに切り上げて、また新しい案を考える必要があるところだろう。しかし当作戦中最後の最後で悪足掻きしてみるのも、いいかもしれない。そうローザは考えた。

「……投げるぞ」

「はい! はいっ?」

 ローザは隣を走るムイを担ぎ上げると、走る力を利用して目標へ向かい投げ飛ばす。それなりに大きい相手にも関わらず、一連の動作は軽々としたものだ。ローザは己の怪力を始めは嫌悪していたが、今では冷静に利用しようともしていた。その利用法のひとつが、こうして自分よりも大きな何かを投げる事である。


 ムイは突然の行動にバランスを崩しかけたものの、何とか空へと跳躍した。小さかった目標の背中がすぐに大きくなる。伸ばした手は、しかしギリギリで避けられる。その際にムイが感じ取ったのは、訳が分からないのに追いかけられる恐怖の色だった。経文による呼びかけは、今回も通じなかった。幼すぎて理解ができないのかもしれない。

 こんな穏やかな微風の中では風を呼ばないと飛べないが、それよりもこの高度では地面に落ちる方が早い、とムイは判断した。猛禽を思わせる翼は風を捕らえられず、大きく空回りしているばかりだ。ムイは両手で印を結ぶとすぐに風を呼び、自分と大地の間にクッションを作った。速度を緩めてどうにか受け身を取れたが、地面に落ちた事には変わらない。


 着地点にローザが辿り着いた頃には、灰色の塊が踞っていた。

と思えば突然起き上がって、翼を拡げ羽根を逆立てて怒り始める。ローザは、雉が巣に近づいた敵を威嚇する様に似ている、などと失礼な事を考えていた。彼が怒る姿はいつも、ローザが知る限りではいまいち迫力に欠ける。

「何なんですか貴女! 人を物みたいに、いきなり放り投げるなんて!」

「元気ならいい」

「元気じゃないです!」

 ムイが指差す方向を見れば、目標の姿は麦粒よりも小さかった。結局今回も、背中を見ているしかできない二人である。逆立っていたムイの灰色羽根も、今は大人しくなっていた。ムイが再び座り込むので、ローザも腰を下ろす。さすがに少し休みたい。

 誰の口からだったか、静かな溜め息が漏れた。ローザはハンカチを取り出すと、額や顎の辺りにあてがい汗を拭き始める。運動を止めた直後は体が熱い。動かない事で少しはマシになってきたが、風が吹いてくれない事にはどうにも涼しくない。傍らではムイが説教を垂れ始めたが、ローザは聞く気などさらさらなかった。これがちゃんとした神職者ならまだしも、言っている本人がムイでは全然全く有り難みのない話なのだ。

「前から思ってたんですけど、もっと労って頂かないと困ります。そもそも風晶騎士団の騎士は、我々教国の僧侶を護るためにですね……」

「何故お前のような、いまいちパッとしない不良生臭坊主が相棒なんだ。例えばこう……艶やかな白き翼を持った清楚系金髪聖女だったなら、騎士道精神発揮のしがいがあったものを」

「私だって貴女みたいな暴走怪力女なんかじゃなくて、もっと紳士的な人がよかったです」

「今度本部に戻った時、上に掛け合ってみるか」

「いいですね、それ。ローザさんがやってくださいね」

「絶対嫌だ。お前がやれ」

「絶対嫌です。あの人と交渉する位なら、暴走怪力女と仕事してた方が百倍マシです」

「気が合うな。私も同意見だ」

 言い合う内に、二人とも息が落ち着いていた。村の漠然とした懐かしさを内包するのどかな風景が、疲れた心と体に沁みる。やる気の削がれた空気の漂う中、若い女性の声が一直線に飛んで来る。



「待ってくださあーい! どうして二人とも、そんなに、走るの、はやいんですかあーーー!」



「それにしても、晶鬼、でしたっけ。私初めて見ました。めちゃくちゃ早くて、赤い残像しか認識できませんでしたけど」

 一人の王国兵が、亜麻色の髪を揺らし難しい顔で二人の前に座っている。傍らに置かれているのは頭防具。立ち上がる気力のないローザとムイに配慮しての事だった。メリル・エバーライトは、先ほどの声の主であり、道案内するため同行する事になった女性である。王国領土内にある村なので、書面を作って調査報告する必要があるのだそうだ。ついでにローザ達を監視する目的と取れなくもないが、そういう事は日常茶飯事だ。何より立場も立場だし、彼女の性格が素直で明るいものだったので、ローザも余計な心配をする必要はないと考えていた。


 川の流れる音が聞こえる。気づいたローザが顔を向けると、案の定川が見えた。この辺りに点在する風車も、やはり全て止まっている。時間が止まっている訳ではなく、何日も前から風が吹かない日が続いているのだ、とは村の人間達の主張だった。実際に調査して見ると、到着してから向こう、どこもかしこも確かに風らしい風が吹いていない。これでは仕事が出来ないし、ずっと風が吹かないのではないかという不安も大きいだろう。一番始めに村の声を聞いた王国軍が調査してみたものの、はっきりとした理由は掴めずにいた。最後に『流れ星事案』の可能性に至り、風晶騎士団の秘密部隊に直接依頼をしてきたのだ。

王国からの場合、依頼というよりは指令の意味合いが強いのだが。

 ムイが上手く飛べないのも無理はないと、取り出した水筒の水を一口飲みながらローザは思う。体の小さい小鳥ならまだしも、人と同じ大きさを持つ翼晶族なのだ。風を呼ぶためにわざわざ印まで結んでいるのを、ローザは久しぶりに見た。この地域が、目標の影響下にあるせいで間違いないだろう。自力で確認できなかったメリルに対し、二人は情報を分け与えて行く。どうせ大体、既に知られている事だ。

「物理攻撃はろくに効かない……というか、相手が小さい上に素早すぎて当てるのは無理だ」

「しかも、聞いてないのか理解できてないのか分かりませんが、どんな経文をかけてみても縛れなくてですね。暴れ鷹馬の耳に経文というやつですかね」

 メリルは熱心に、板の上に固定された紙に書き記している。顔を上げると、彼女は真顔で呟いた。

「単にムイさんの徳レベルの問題じゃないですか?」

 不意打ちに、ローザは二口目の水を吹き出しそうになった。自分のせいではないのに、沈黙が気まずい。ムイの方を盗み見ると、ややわざとらしい動作で受けたショックを体現しているところだった。こういう時のムイが何も傷ついていないのは、長い付き合いの中で分かっている。そもそもローザは、ムイが本気で傷心している姿をまだ見た事がなかった。人族より長生きしているから大抵の事では動じないのだと、ローザは考えていた。激しく怒らないのも涙を流さないのも、多分そのせいなのだ。

「今メリルさんに、朝起きた時に必ずベッドの角に小指をぶつけ続ける一生分の呪いをかけました」

「ごめんなさい、発言を撤回します! だから許してください!」

「なんて地味かつそれでいて恐ろしい呪いなんだ……じゃなくてだな。こいつの言う事を真に受けたら駄目だ。嘘だぞ、嘘」

「ええっ」

 ムイは気持ちいいまでに素直な反応に満足したのか、それ以上ふざけた発言をする事はなかった。二人が呆れた視線を向けても、相変わらず捉え所のない笑顔を浮かべている。

「まーとにかく、やはりあの子、かなり怯えてました。我々が追いかけ回したからかもしれませんが、性格的なものもあるかもしれません」

「追ったら逃げるって事は、楽しそうにしているところを見せたら、自分から来るんじゃないですか?」

 メリルの提案に、ローザとムイは顔を見合わせる。

「お弁当を食べるとか」

「なるほど」

「こう見えて料理は得意なんです。明日、作って来ますね」






「何かこう、変な面子だな」

 ローザは思わず呟いた。翌日、三人は草原で弁当を囲んでいた。風晶騎士団の騎士と教国の僧侶はまだしも、王国の兵士が同じ食卓を囲んでいる様は、大分珍しい光景だと言えよう。メリルの料理が得意なのは本当だったようで、籠の中身は色合いも美しい食品が溢れんばかりに詰め込まれていた。

 メリルは胸に片手を当て、目を閉じると食前の祈りを呟く。王国人は皆、子供の頃からやっている慣れ親しんだ動作だ。ローザも習慣として、片手を胸に置く。ムイはムイで、無言で両手の指を不思議な形で合わせている。あれがイル教式の祈りなのだという。

「大地の母よ、豊穣の女神よ。今日も人の子を見守り、豊かな恵みを与えてくださりありがとうございます。感謝をもって、頂きます」

 祈りが終わった頃合いを見計らって、ローザはお手製サンドイッチの一つに手を伸ばし、さっそく頬張ってみる。とても美味しいと正直に伝えると、メリルは素直にはにかんで礼を言った。

「あっ、ムイさんすみません。戒律で食べられないものとか、お聞きするの忘れてました」

「いやいや、気にしないでください。せっかく持て成して貰ったものです、ありがたく頂きます。鶏肉は羽根があるのでセーフです」

「こいつは何かと屁理屈を捏ねて、何でも食べたいものを食べようとするんだ。だから、大丈夫だ」

「いや別に、何でもではないんですけど。更に葡萄酒でもあったら最高でしたよね」

「お前はまたそういう事を……」

 いつものやり取りをする二人を交互に眺め、いまいち腑に落ちない顔をするメリルだった。しばらくするとメリルの予想通り、例の目標である晶鬼の子が現れた。少し遠くから、団欒中のこちらを見ている。

真ん中に一つ存在している大きな瞳は、好奇心と警戒心の二つの感情で彩られ、ローザ達が少し動く度にくるくると色を変える。メリルはこの小さな来訪者を、まるで小動物を見るような目で見つめていた。そして、くすりと笑う。

「ああしてるの見ると、ちょっと可愛く思えて来ますね」

「まだ子供で小さいですし、力も弱いですからね。自分がどうしてここにいるのかも、恐らく分かっていないでしょう」

 ムイが教国語で何か話しかけると、晶鬼の子は少し首を傾げた。

教国語でないと通じないのか、とローザは今一度感心する。彼が彼自身の言語を喋る様子を見るのは、とても久しぶりだ。王国語を話している時よりも口調が優しい印象を受けるのは、彼等の言語に濁音が少ないからかもしれない。ローザには何を話しているのか分からないが、どうやら経文ではなく口語らしい。ムイが慎重に語りかけていると、ついに小さな手足を動かして歩いて来る。かくして奇妙な食卓に、小さな晶鬼の子が加わった。

「何かこう、更に変な面子だな」

「せっかくですし、少しご飯を食べさせてあげましょう」

「こういう存在も食事をするのか」

「お供え物と同じだと思って頂ければ」

 ムイがサンドイッチを差し出すと、小さな両手で受け取り食べ始める。大きな瞳から、突然涙が零れた。メリルが慌てた様子で腰を浮かす。まるで人の子を相手にするような反応だった。

「わっ、泣いちゃいましたよ? ちょっとソースに辛子入れちゃったから……辛かったのかな?」

「凄く美味しいそうです、メリルさん」

「よかった……」

 ムイが撫でるような動作で手を翳し、静かに経文を紡ぐ。

腹いっぱいになり優しい言葉に包まれた晶鬼の子は、心地よさそうに目を閉じた。このお決まりの長いようで短い文の事を、ローザはいつも母が枕元で囁く子守唄のようだと思う。または、泣く子供をあやす父のような。

正体のない風にも似た赤い肉体は、光を伴いながら空気に溶けてどんどん見えなくなる。最後に残ったのは、一枚の翼晶だった。若葉色の、大人よりもずっとずっと小さな、縮んで高質化した風切り羽根。



 太陽は暖かく、空は青く澄んでいる。この村の草原には、昔から透き通った風が吹く。



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