風斬

政木朝義

第1話 流星の正体

 外の嵐は、この一時間で酷さを増したようである。屋敷が揺れているのではと感じる程だったが、実際揺れているのは庭に植えられた木だった。まだ瑞々しく生い茂る緑は、月を覆い隠す雨風の元黒く光り、時に重く時に鋭い唸りをひっきりなしに上げていた。

 閉め切られた窓の内側には高価そうなカーテンがかかっており、僅かな隙間から中の光が漏れている。

赤毛の騎士はその琥珀色の目を、少しだけ動かして窓の外を見やる。赤毛の騎士ことローザ・ユーステットは、屋敷の主人に勧められた食事の席についていた。つい数時間前まで自分もあの中にいたのだ、とローザは思いを馳せる。


 泥だらけだった靴は綺麗に拭かれて、武具と外套は使用人に預かって貰った。万が一に備えて可能なら装備したままでいたかったが、屋敷の人間から信用を得るためには仕方のない事だ。そのお陰かローザは、温かいところで食事まで頂ける運びとなる。裏漉しの後家畜の乳と合わせた豆のスープから始まり、庭で採れた新鮮な若菜のサラダ、艶やかなソースのたっぷりかかったステーキ、付け合わせはじゃがいもと香ばしい木の実。

 交通の弁が悪いにも関わらず、意外にも上質な食材が揃っている。どこの誰か知らないが、山奥の屋敷まで足りない食材を運ぶのはさぞかし大変だろう。

一人分の荷物しか持たないローザでさえ、森の奥まで辿り着くのは少し苦労した。

 給仕役とはまた別の使用人がやって来て、かれこれ何本目かの薪を暖炉に放り込む。天気のせいか今夜は、この時期にしては少しだけ肌寒い。金の燭台につけられた長い蝋燭の火が、温かい光で食卓を照らし続ける。使用人は何人いるのかローザは数えていないが、今はもう多くはないのだろう。この家の子供達は皆、それぞれ独り立ちしてしまっているようだ。主アルマールは、来客があるのが久方振りなので嬉しいと言った。


 アルマールは長いテーブルの一際大きい椅子に座っており、初めて会った時よりも一回りほど小さく見えた。ローザの正面に座っている初老の婦人は、メインの肉にナイフを入れて口へと運ぶ。所作は上品で物腰柔らかく、着ている着物も小綺麗なものだ。彼女が口を動かす度に、口角に皺が寄っていた。

「雨宿りをさせて貰った上に、食事まで頂いてしまい」

「いえ、いえ、お気になさらないで。旦那様が亡くなってからというもの、少し寂しくて。この間、ペットも死んでしまいまして。こうしてお話し相手になって貰って……、感謝したいのはこちらの方ですわ。でも、一人で旅をしているとは」

「騎士としての、見聞を広めようと思いまして」

「貴女、お若いのに立派なのね」

 寂しいと思っているのは本当なのか、初対面のローザから見ても口数が多く、警戒心も緩んでいる。

だがその方が都合はよかった。今の時点でのローザの仕事は、『合図』があるまで出来る限りの時間を稼ぐ事だ。この場の誰からも怪しまれる事なく。不運にも山道で迷った末に日が暮れてしまい、酷い雨に打たれてしまった旅人の振りをして。

 これから彼女を巻き込んで、何時もの日常を破壊するのだろうか。風晶騎士団の任務に、生きた人間が絡んでいると厄介事が増える。森の中に落ちていたのをただ拾うだけとか、目標を斬って押さえつける方がまだマシだった。久方振りの暖かいもてなしを受けて、幾ばくかの罪悪感がローザの胸中を棘の生えた足で通り過ぎる。ムイは上手くやっているだろうか。屋敷が見えてきた辺りで二手に別れてから、かれこれ一時間以上も経つ。何事もなければ、そのまま彼一人できるだろう。





 外の嵐は、男の体もまた酷く濡らしていた。やっと屋根のある場所へ入って来られたものの、足や腕にじっとりとした水分がまとわりつく。

おまけに体中が草の切れ端と跳ね返った泥だらけで、イル教の旅装束は随分汚れてしまった。彼等の中で神聖な色とされる青を貴重としたものだ。ローザと違って足場の悪い所を通り、屋敷に接近したから仕方ない。頭まで被った長い外套を持ち上げ、辛うじて残っている胸元辺りの乾いた部分で眼鏡を拭く。事ある毎に強風で捲れるので、外套一枚で対抗するのはほぼ無意味だった。大きな水溜まりに突っ込んでしまった右足に、案の定泥を含んだ水が侵入しているのに気がつく。ムイは足を上げたり下ろしたりして不快な感触を確かめながら、そろそろブーツを新しいものに変えるべきか、などと呑気な事を考え始めた。湿気を吸い込んだ翼が重くなって、気持ちが悪い。くすんだ灰色の翼は、初列一枚目の風切り羽根だけ綺麗な瑠璃色をしていた。雨に降られた癖毛は水を吸い込み、大人しく垂れ下がっている。


 翼晶族というのは基本的に、雨に濡れる事を嫌う。彼の古郷の教国では、雷雲の中に入りさえしなければ雨など遭遇しないし、翼が乾いていないと上手く飛べなくなる。翼晶族にも一部の物好きがいるにはいるが、ムイはその辺りの点では別段物好きなどではなかった。眼鏡を顔の真ん中へ戻しながら、ひとつため息をつく。仕事が終わったら念入りに乾かすべきだ。それから本部に戻った時に、新しい長靴を教国から取り寄せて貰おう。生まれ育った祖国の製品の方が体の形に合う。

「すみません、せっかく来て貰ったのに、ちょうど嵐になってしまって」

「大丈夫です。行きましょう、時間が惜しい」

 案内役の依頼主もまた、だいぶ濡れてしまっていた。屋敷の使用人の一人、リュシーである。彼女は追いついて来るなり急ぎ扉の鍵を開け、翼が引っかかってややてこずるムイを中へと招き入れた。外套を脱ぎ壁に掛ければ、中から使用人の服を着た中年女性が現れる。屋敷から持ってきた蝋燭の火は、彼女が庇っていたので辛うじて無事だ。彼女はムイの外套を預かって、隣の金具に掛ける。すると男の背中から、隠れていた褐色の肌と灰色の大きな翼が晒された。

「翼のある人……翼晶族の方? 私、産まれて初めて見ました」

「よく言われます」

 リュシーは目の前の男が人族でなかった事に驚いたようだが、深い追及はなかった。壁に取りつけられた金具は、後三人分の空きがあった。水が滴る音が、薄暗い石作りの離れに響き始める。

 リュシーはムイに蝋燭を預けると、痩せた体で壁際に置いてある棚を力一杯押して横にずらして行く。湿気た埃の臭いが鼻を突いた。小さな火は、現れた隠し扉を照らす。屈んで扉の周囲を観察すると、床には何度も引き摺られた痕が刻まれていた。比較的新しい痕もあった事から、頻繁に地下室を利用していたとの情報は本当のようだ。手元の蝋燭を動かしていると、灯された火が大きく揺らぐ。

「ここがそうなんですね」

「はい。でも、もし勝手に入ったと知られたら、御主人様が何と言うか。貴方達も、どうなるか……」

「安心してください、そういう仕事ですから。貴女の事も守ります」

 使用人は屋敷の方向をちらと見て、僅かに体を震わせた。今になって不安になってきたらしいのは、無理もない事だ。主人の秘密を知ってしまった彼女は、悩みに悩んだはずだ。そして勇気を振り絞って、藁をも縋る重いで風晶騎士団への依頼の手紙を出したのだろう。困った事は何でも解決、王国直属庶民派騎士団。これが風晶騎士団の表立った活動内容だ。その中でも『流れ星』に関わる、もしくは関わっている疑いのある事例だけが、ローザやムイ達の所属する機密部隊へと回されるのだった。


 彼女の手紙曰く、最近主人の言動が不審らしい。誰もいない時を見計らって食料庫を物色していたり、夜な夜な何処かへ出かけたりするのだという。ある時この使用人が後をつけたところ、離れの倉庫へ入って行くのが見えたそうだ。

 実は以前にもこういう事があった。依頼の手紙には続けて、丁寧な字で書かれている。怪しい経路で手に入れた人面七色蜥蜴を、この倉庫に隠していて大騒ぎになったのだ。人面七色蜥蜴はどんどん大きくなり、老婦人の管理能力の範疇を一年も立たない内に超えてしまった。餌が足りずに腹を空かせた大蜥蜴が、ある日ついに倉庫から這い出して庭師を噛んだそうである。

この蜥蜴は身の危険を感じると体表面から毒粘液を垂れ流す危険生物で、庭の広範囲が駄目になったどころか庭師は三日三晩魘される羽目になった。森に消えた人面七色蜥蜴討伐依頼は、至急分類で直ちに王都のギルドや酒場に貼り出された。腕の立つ冒険者によって仕留められたらしいが、それ以上の詳しい話は手紙上からは分からない。


 己の招いた結果に酷く落ち込んだ貴族アルマールは、もうこんな事はしないと固く約束した。までならばよかったのだが、数週間前、見るからに怪しい商人が屋敷を出ていく姿を見てしまった。婦人が倉庫へ消えた案件の目撃者である彼女は心配していた。またとんでもないものを、秘密で飼っているのではないかと。前回のような事件が起こる前に、先手を打っておこうと彼女は思った訳である。

 その怪しい商人は先日お縄になったばかりで、この屋敷へ『商品を一枚』売ったと吐いた訳だが、ここまでの情報は伝えなくてもよいだろう。この階段を下りれば今に分かる事だ。ただの倉庫なので長い階段ではないだろうが、数段向こうは闇に包まれている。

「ちょっと、ここで待っていてください」

「分かりました」

 先を行くのはムイの仕事だ。リュシーを片手で制した後で、ゆっくりと足を動かす。

息苦しく生温い空気が纏わりついて、時々彼の頬を撫でる。それが一歩進む度に、重くなっていく。

やはりここに『例の商品』が隠されているに違いないだろう。足元で黒い瘴氣が蠢いている感触が分かる。それだけでも気分が悪いのだが、ムイの視覚はその者が持つ感情の流れまで捉えてしまう。

『氣の流れを感じ、操る』というのは翼晶族特有の能力なのだが、ムイはその中でも特に強い力を持つ部類だった。事情を知らないので仕方ない事なのだが、まるで警戒心のないリュシーの声が落ちてくる。吹き荒ぶ外の風に負けないようにか、声は大きかった。

「あの、どうしてそんなにゆっくり進むんですか?」

「確かめているんですよ」

「何を?」

「どの位危ないかどうかです」

 そう言うなり、止まる。ムイの足はこれ以上、一歩も動けなくなっていた。地下室の扉を開ける前に分かった。ここに『いる』ものはだいぶ、危険だ。長い間適切な処置を施されずに、暗いところで放置されていたせいだ。商人に乱雑に扱われたのかもしれない。

 耳のすぐ近くで、卵の殻が割れるのに似た音がした。物理的な音ではない。扉の向こう側のこんな微かな音が、嵐にも負けず耳まではっきり届く訳がないのだ。相手もムイの放つ氣を察知し、目を覚ましたらしい。

しかしまだ、何も起こっていない。鉄枠で囲まれた木の扉が、蝋燭の炎に照らされてぼうっと浮かび上がっている。ムイは意識を集中し、経文で少し語りかけてみる。視えたのは、説明し難い激しい感情の色。

小さく吸い込んだ息が、一瞬詰まる。対話が通じる状態ではない。赤黒く脈動するものが、扉の隙間から這いずって、蛇の舌のように、床を、舐め回し、始めた。

「リュシーさん、落ち着いて聞いてください。今から急いで、外へ出ます。絶対に振り返らないで、全力で屋敷へ走ってください」

「何があったの?」

 ムイは言うだけ言ってしまうと、返事もせずに階段を駆け上がり、戸惑うリュシーを強引に外へと押し出す。彼女は少し行ったところで足が縺れて転んでしまい、未だ雨に打たれ続ける泥の中に突っ込む。訳が分からない状況の中で振り返った顔面が、肉体が、一瞬で石膏のように硬直した。瞬きをするのも忘れ、正面の光景に目を奪われている。地下倉庫から、赤黒く発光する何かが這い出してくる。ついに現実へ顕現したのだ。リュシーは冷たい泥濘に力なく下半身を沈めたまま、その場から動かなくなった。

「走れ! 早く!」

 腰を抜かしたか。彼女を横目で捉えたムイは、嵐の中で聞こえないのをいい事に舌打ちをする。

通り過ぎる前に右足首を回転、風抵抗を減らすために翼を畳み、左膝を地面につけ迎え撃つ準備に入る。

依頼人は必ず守護しなければならないのが、騎士団の鉄の掟だ。だが、普通の一般人であるこの使用人を、引っ張りながら後退する余裕はもうない。腰の教国製エギル鋼弓銃を取り出し、急ぎ最終点検を始める。

雨で火が消えたせいで、隣に立っている屋敷の明かりだけが頼りだ。その上、風に煽られる服が邪魔してくるので手間取ってしまう。

 轟音が響き、地面が大きく震えた。雛鳥が殻を破ろうとする動きで、離れの屋根を何度も突き上げている。ついに破れ目を突き破り現れたのは、粘度の高い瘴気を含んだ赤く輝く風の塊。言葉にならない叫びがリュシーの口から飛び出す。恐らく、何だこれは、とでも叫びたかったのだろうが、これでは『合図』をする必要性もない……最後まで考える暇もなくムイは弓銃を構えた。倉庫が破壊された音で、ローザも直ぐに気がついただろう。


 定期的に清めている銃の矢を、風の強さと方向を計算に入れながら放つ。狙うのは実体濃度の高い頭部だ。小さい方の左目に突き刺さった直後、この世のものとは思えぬ恐ろしい叫びが夜の森に響き渡った。矢は鋼糸で本体と繋がっており、獲物は釣り針にひっかかった状態となる。ムイの武器はそういう仕様だった。

彼は反しが眼窩の骨部分に嵌まったところを見届けた後、自らの氣を大地に絡みつけそれを重りに踏ん張る。赤黒い怪物は思うように動けずに暴れていたが、遂には空へと逃げようと翼を羽ばたかせる。

この獲物を逃がす訳にはいかない。教国語で経文を読みつつ鋼糸を引き、相手の力を利用して近場の石壁に叩きつける。





 来た。風ではない衝撃が建物を襲ったのは、ローザが出されたデザートを口に入れようとした瞬間だった。卵でできた生菓子は激しく波打ちながらスプーンから飛び出し、テーブルクロスに叩きつけられ完全に沈黙した。突然の異変に襲われ、アルマールは口に手を当て慌てる素振りを見せる。冷静に指示を飛ばす執事長が、少々無駄を伴う動きで歩き回る。対するローザは呑気な事で、デザートまで辿り着けなくて少し残念だとさえ思っていた。こうなる事は始めから分かっていた事だ。多分、ムイ一人の力では抑えられなかったのだろう。それで荒療治的手段に出るしかなくなった。となれば、いよいよローザの出番だ。

 赤毛の騎士が、スプーンを置きながら静かに考えている。琥珀色の瞳が睨みつけるのは、衝撃でカーテンのずれた正面の窓。黒く染まった窓硝子には、天へと駆け上がる赤い輝きが映り込む。不気味な質感は肉塊のようでもあり、正体のない風にも似ていた。

巨大な目玉がカーテンの隙間から此方を一瞥し、身体を壁に擦りつけながら落ちて行く。誰もが悲鳴を上げるのすら忘れて、空気は室内いっぱいに張り詰める。沈黙を破ったのは、ローザの一声だった。

「鎧は……、そんな暇はないか。私の剣を」

 ローザの両刃大剣は、別室の壁に立て掛けられていた。

「一体何が……っ」

「何なんですかあれ!」

 男の使用人が混乱した声を発しながら、二人がかりで引きずってくる。それをローザが小走りで近寄って受け取れば、

「戦います。決して、窓に近づかないで」

 はっきりとした声で場の全員を制し、片手で柄を握りひとつも床へこする事なくローザは走って行く。

それも、窓の方向へ。使用人は揃って唖然とした顔で見送る。彼女の体はそれなりに鍛えられてはいるが、いくら何でも大剣を片手で持つような筋力があるとは思えない。しかし彼女はそれを、普通にこなしている。立て続けに異様なものを見せつけられ、アルマール以下住人は思考停止に陥っていた。


 今度の獲物も逃がさない。

己の肉体と呼吸を合わせ、ローザは走る。力強く数歩跳ねて、大剣で窓を破り、上空へ。赤い髪が炎のように、風に煽られ翻る。地上ではムイが、怪物の動きを僧侶の力で押し留めているのが見えた。切っ先を頭部へ向ける。落下の力に乗って、大剣の一閃で大地まで一刀両断。二つに割れた肉体が、断末魔の輝きと共に霧散して行く。ローザが靴底を叩きつける頃、怪物は消滅していた。

空の雲は去っていき、嵐は止んだ。夢か幻だったかのように。





「一体これは……。リュシー、貴女大丈夫なの?」

 外へ飛び出した貴族アルマールは、足元が汚れるのも構わず走り寄る。リュシーはその迫力に怯んだか、一歩後ろへと下がった。

「すいませんが、言えません。機密事項なんです。リュシーさんを責めないであげてください」

「まあ、どなた?」

「えっ」

 貴族アルマールは訝しげな目で、間に入ってきた泥水塗れの羽根男を眺める。何と説明するべきかとムイが硬直していると、歩いてきたローザが助け船で口を挟んだ。

「しかしこれだけは言えます。危険は我々が排除した。もう大丈夫です。あとはひとつだけ、回収させて頂ければ」

 半ば強引に事情説明からの了承を取りつけた二人は、月夜に照らされ爪痕も生々しい離れ跡へ入って行く。隠れていた虫が這い出て、小さな声で鳴き始めていた。地下室と言っても、最早瓦礫の山だ。水だらけの中隅々まで調べて回った二人は、物体をひとつ確認する。淡く赤い光を放つ細長い石のようなものだ。

これこそが風晶騎士団の回収目標である。ローザは静かに拾い上げ、服の汚くない部分で優しく拭いてやる。天空神ドラゴンが空を飛んだ日に、沢山地上へ落ちて来たのだという。彼女はそれをよく知っていた。ムイの身体にも備わっているからだ、というのが第一の理由である。翼晶族の初列一枚目の風切り羽が結晶化したもので、『翼晶』と呼ばれている。翼晶族が死んだ時に遺される、朽ちる事のない一対の結晶。

もう片方は、まだこの世界の何処かにあるのだろうか。ローザの背後から覗き込んできたムイは、安堵の息を漏らした。

「建物が少し壊されてしまいましたが、人の方は全員無事でよかったですね」

「そうだな」

 形や大きさからして老いた翼晶族のものらしい。

とても優しい人だったのだ、と凹凸を撫でるローザの指先は何となく感じ取った。一人寂しい夜を過ごす老婦人の心の隙間を、その暖かい光で癒していたのかもしれない。少し眺めた後は、さっさとムイに手渡す。『翼晶』を管理するのは彼等教国僧侶の役目だ。

『でも貴方、いつまでもここにいられないんですよ。今なら分かりますよね?』

「ん?」

「いやいや、こちらの話です」

 星明かりの元で語らう彼等の頭上を、本物の流れ星がひとつ通り過ぎて行った。



 朝の光が葉に残る雨粒を照らし、粒は宝石のように窪みを転がり落ちていった。そうやって生きた音を立てながら、いつもと変わらず緑は揺れる。ローザとムイは早くからせっせと歩き、ようやく小さな街道へ辿り着いたのだった。ふと立ち止まって振り返ると、かなり遠くまで来た事を広がる風景が教えてくれた。

少し小高い場所にある屋敷を仰ぎながら、ローザは呟く。

「本当にあれでよかったんだろうか」

「よかったんじゃないですかね、我々ができる範囲の解決はしましたし。後は彼等次第です」

「そうかな」

「いちいち他人に深入りし過ぎると、身を滅ぼしますよ」

「年寄りみたいな事を言うんだな」

「失礼な。まだまだ全然、若者ですって」

 機嫌を損ねた訳でない証拠に、ムイは声を出して軽快に笑った。さっさと先へ行ってしまう灰色の背中を、赤毛を揺らし慌てて追いかけるローザだった。ムイの鞄の中からは、透き通った硬いもの同士が擦れるような、それでいて温かみのある音がしている。



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