僕が君に触れるとき

天野雫

僕が君に触れるとき





 僕が君に触れるとき。

 ――それはつまり僕が君を殺すとき。


 僕の好きな人は、ガラスを一枚隔てた向こう側にいる。

 彼女は僕の幼馴染。名前を美湖みこという。美しい湖で美湖。綺麗な響きだ。

 僕と美湖が出会ったのは、運命のようなただの偶然だったのだと思う。


 僕が小学三年生の時にこの街に引っ越してきて、その隣の家に住むのが美湖だった。

 美湖は、会ったときから美しいという言葉がこの世で一番似合うような女の子だった。肌が透き通るように白くて、パッチリした二重で、頬は林檎のようにほんのり赤かった。

 小学生には見えないくらい、今まで見たことがないほど綺麗だったのだけれど、それ以上に僕に衝撃を与えたことは周りの女の子とはまとうオーラが明らかに違っていたことだった。

 僕が同じクラスに転校してきたとき、休み時間に美湖は廊下側の一番後ろの席でひたすら読書をしていた。これくらいの年齢なら外に遊びに行ったり、女の子の友達とおしゃべりをしたりするのを好むだろう。

 でも、美湖はいつも一人でいることを好み、まるで自分の他には教室に誰もいないような風を装って静かに過ごしていた。


 そんな美湖に、僕は興味を持っていた。

 そして僕は転校して初日の帰り道、たまたま美湖の後姿を見つけて一緒に帰路に着いた。その時は美湖が隣に住んでいるとは知らなかった。いつまで経っても帰り道が一緒だから不思議に思っていたら蓋を開けてみればお隣さんで、あのときはかなり驚いたものだ。

 帰り道は僕が一方的に喋っていたけれど、その事実が発覚したときに、彼女は僕に「あれ、隣だったのね」と言って初めて微笑みを向けた。

 この瞬間、小学三年生の僕はいとも簡単に恋に落ちた。



 ***



 美湖と僕は、高校生になった。僕だってそこそこ頭が良かったけれど、美湖は僕を遥かに超える頭脳の持ち主だった。勉強を一生懸命している僕の傍らで、美湖はいつも涼しげな表情で小説を読んでいた。なのに、僕はテストの点数で一度も美湖に勝てなかった。

 そんな僕は猛勉強して、やっとこさ美湖と同じ学校に入った。高校生になった美湖はやっぱり綺麗で、触ったら割れてしまいそうな儚さも持ち合わせていて、ますます魅力的になっていた。

 そんな美湖を狙う輩はたくさんいたのだけれど、どの人にも美湖は興味すら示さなかった。そんな美湖と話をするのは僕だけで、いつも僕は息をするように美湖の隣を独占していた。美湖の世界の住人は、美湖と僕。それだけで十分だった。




 美湖は昔から体調を崩しやすかった。今思えば、小学校の時に外で遊んでいなかったのも身体が弱かったせいなのかもしれない。

 ――そして高校二年生の夏、美湖はこの世界でごくわずかな人しか発症しない、真新しい難病に陥った。

 だから美湖は今、ガラス越しの真っ白で無機質な部屋に一人きりでいるのだ。

 ベッドで半身を起こして文庫本を読む彼女は、今にも消えてしまいそうな線香花火のような儚さを僕に思わせる。


「美湖、来たよ」

「あら、毎日ご苦労様」


 僕がガラスの前に来て話をするために壁に設置してある電話を取ると、美湖は僕の方をちらりと見て、また文庫本に視線を戻した。


「今日はどんな本を読んでるの?」

「自殺と時季の関係性を説く話」

「面白い?」


 そんな死と関連するような本を読まないで欲しい、と言おうとして、美湖は自分のすることに口出しをされることが一番嫌いだったことを思いだして僕は言葉を変えた。


「愚問ね」


 僕のとっさに口から出た質問は心底つまらないものだったようだ。

 読書に集中する美湖を観察する。今にも細く折れてしまいそうな手首が、カーディガンの下から覗いていた。

 ――本当に、散ってしまうのではないか。

 そんな嫌な考えが、ここに来るといつも頭を過ぎるのだ。


「美湖、好きだよ」


 そして僕は、ここに美湖が来てから毎日言っている言葉を口にする。

 美湖は僕の方に目線を向けた。


「そんな陳腐なセリフでは私には伝わらないと言っているでしょう」


 いつもは、ここで僕が食い下がるのが定石だった。だけれど、今日は美湖が変な本を読んでいるから、余計な質問をしてしまった。


「じゃあ、どうやったら美湖は僕が美湖のことをこんなにも愛しているということをわかってくれるの?」

「あなたが私に触れてくれれば伝わるわ」


 僕に艶やかな唇で紡いだ言葉は、不可能なことだった。


「唇にキスをして、抱きしめてあなたの心臓の音を聞かせてくれさえすれば」


 美湖は病気だ。美湖は今、ほんの少しだけでも悪い菌に触れただけで死に至る。だからこうして、ガラス越しの真っ白な部屋に閉じ込められている。まるで動物園にいる動物のように、廊下を過ぎる人に好奇の目で見られながら。


「そんな……美湖は僕に美湖を殺してくれと言っているようなものだ」


 世界で一番美しい僕の好きな人は、僕に自分を殺せという。それだけが僕が彼女を愛しているという事実を証明する方法だという。


「私は殺されるならあなたがいいわ」

「僕は美湖に生きていて欲しい」


 なぜ僕は、美湖が僕の隣にいるうちに気持ちを伝えなかったのだろう。美湖に気持ちを伝える機会は何度でもあったのに。美湖に触れることなんて、ほんの少し前は簡単だったのに。

 手を伸ばせばそばにいた美湖が、今はこんなにも遠い――。


「あなたは私に、この檻の中でずっと生きていけと言うの?」

「いつか出られるよ」

「出られないわ。自分のことは一番わかっているもの。あなたも医者の卵なんだから、わかるでしょう?」


 美湖が病気になってから、僕は高校受験の時の何百倍も勉強して、医大に入った。どうにかして美湖の病気を治せないかと毎日奔走しているけれど、知識に触れれば触れるほど、美湖の病気は治ることがないのだろうという現実が僕に突き刺さった。


「でも」

「私は死ぬならあなたに触れられてから死にたいの。この意味、あなたにわかるかしら?」


 美湖の唇から紡がれる言葉は、今日は驚くほど甘美な響きを僕の耳に届けていた。

 美湖がこんなことを言うのは初めてだからだ。


「今日は体調でも悪いの?」

「思ったのよ。誰かの腕の中で死ぬってどんな感覚なのか感じてみたいと」

「でも、死ぬのは一度きりしかできないし、死んだらその後のやりたいと思ったことは何もできないんだよ? そんなの人生の一番最後に経験すればいいじゃないか」

「私はもうきっと十分生きたんだわ。だから神様は私を連れて行こうとしているのよ」

「僕は美湖とやりたいことがまだたくさんある」

「私はないわ。あなたと出会えた。ただそれだけで十分よ」

「なにを言っているんだい? 僕と出会えただけ? それで満足するような人じゃないだろ、君は」

「私も案外一人の気弱な小さな女の子なのよ。好きな人に抱かれて死ねるならいいと思えるほど」


 美湖の微笑みは、いつもと変わらず凛としていた。


 ――美湖はこんなことを言うほど弱かっただろうか。

 一人でいることを好んでいた美湖が、僕と二人でいることを好むようになった。美湖の世界にはいつも美湖と僕しかいなかった。そんな二人きりの世界が、だんだんと美湖を狂わせていったのだろうか。




 ***



 この日を境に、僕と美湖の一進一退の攻防戦が始まった。美湖は僕を部屋に入れさせようとあの手この手を駆使してくるようになったのだ。

 美湖は、ただ小説を読んで一日を過ごしていたころよりも、僕をどうやって部屋に招き入れるかを考えながら時間を過ごせる今の方が楽しいと言っていた。

 美湖が楽しんでくれていることは純粋に嬉しかったけれど、頭のいい美湖に僕が言いくるめられてしまうことは多々あって、少しそれが怖くもあった。


「美湖、好きだよ」

「あなたにはバリエーションというものがないのかしら? ちょっと恋愛小説でも読んだ方がいいんじゃない? 結構参考になると思うけど」


 今日彼女が読んでいたのは、今流行りの純愛モノのネット小説の文庫版だった。確か、映画化されていたものだ。誰が美湖に渡したのかは知らないが、美湖がこの手の本を読んでいるのを見たのは初めてだった。


「美湖は僕のことが好きなの?」

「さあ? それを確かめるには私を抱きしめて私の心拍数を図ることね。一般的には意中の人に抱きしめられると心拍数がかなり上がるらしいわよ」

「……好きな人が近くにいて話しかけているのに、美湖の心拍数はいつも通りみたいだけど」


 壁に着けられているモニターに映し出されているのは、一定の感覚で美湖の心臓が動いていることを示す図形。

 そのテンポは変わることなく、美湖の命の鼓動を表している。


「実際に触れてみたら、わからないわ」


 美湖は、僕の近くまで来てガラスに手を付けた。僕も、美湖がそうするようにガラス越しに美湖の手を合わせる。

 その間に、体温は感じられない。


「ねえ、今日が何の日か知ってるでしょう?」

「うん。知ってるよ」


 今日は美湖がこの部屋に来てから6回目の誕生日だった。

 僕が予想していたよりずっと、美湖は細々と命を繋いでいた。命の危険を何度か経験したけれど、彼女は「私はあなたに殺されたいの。だから病気には負けていられないわ」とその度に力強く言った。

 僕は美湖のことを儚いと思っていた。しかし、危機を経験する度、彼女はこの檻の中で少しずつ強くなっているようだった。


「じゃあ、私にプレゼントを頂戴。今まであなたからプレゼントなんて一度ももらったことがないから、今回くらいわがままを聞いてくれたっていいんじゃない?」

「でも、君は僕にこの部屋に入れというんだろう?」

「そうよ」

「断る」

「なぜ」

「僕は美湖を愛しているから」

「私はきっと死ぬのよ」

「美湖は僕が思っていたよりも強いよ」

「そんなこと言って案外ぽっくり逝っても知らないわよ」


 僕には想像できなかった。彼女が僕の腕の中以外でその生涯を終えることが。なぜだかはわからないけれど、ずっと前から僕は彼女の命の炎が消える様子を、目の前で見るような予感がしていた。


「うっ!」


 いきなり美湖は、僕の前でうめき声をあげて胸を押さえ、悶絶の表情をした。


「君にはバリエーションというものがないのか?」


 美湖は丁度一週間前に、苦しむ演技をして僕を中に入れさせようとしていた。そのときは慌ててドアノブに手をかけ鍵を開けようとしたところで、彼女が部屋の中で妖艶な笑みを浮かべていることに気づいてぎりぎりセーフだった。もう少し慌てていれば、僕は本当に彼女を殺してしまうところだった。

 後にも先にも、あれほど冷や汗をかいたことはない。

 そのことを僕ははっきり覚えていたので、慌てることなく彼女の言葉をそのまま返した。


「あなたが毎日来るから、私だって大変なのよ」

「僕だってそれは同じだ」


 ふふふ、と笑った彼女を見て、ずいぶんと優しく微笑むようになったものだと思った。




 ***




 そんな日々を続けて、もう15年が経った。高校二年生の夏にこの部屋に入った時、僕たちはまだ16歳の、自分の他にあと一人だけ住むことが許される小さな世界で生きている何も知らない子供だった。

 いつも通り部屋の前に行くと、美湖は読書をしていた。ただ一つ違うのは、彼女が持っている物が文庫本からタブレット端末に変わったことだ。美湖は紙の方が好きだといつも言うけれど、もう紙をめくるタイプの本はこの世界から絶滅しかけていた。

 それに、抗菌処理がタブレットだと楽なので、医師の判断でタブレットを使って自由に読んだ方がいいだろうと判断されたという理由もあった。加えて、美湖が好きな本を好きなタイミングで買って読めるということも理由の一つだった。

 僕は本を差し入れする、という役目を終えることになったけれど、美湖の元へ通うことは辞めなかった。

 美湖は年を取っても美しかった。僕たちはいつのまにかもう30歳を過ぎていて、美湖が外で暮らしていたあの頃とこの檻のような部屋で過ごしている時間が等しくなろうとしていた。


「ねえ、私は本当に外に出たら死ぬのかしら? 最近疑問だわ。あんなに命が持たないと言われていたのに、この中で15年も暮らしているのよ?」

「そうだね。僕も最初は君が儚く散る桜のようだと思っていたけれど、今は踏まれてもなお生き続ける雑草のようだと感じてるよ」

「雑草だとはよく言ってくれたものね」


 美湖はふわりと微笑んだ。


「それで、あなたはいつ私の命を終わりにしてくれるのかしら?」

「美湖」


 僕は言った。


「今日、僕はこの部屋に入ろうと思う」


 美湖の瞳は、大きく開かれた。


「あら、ついに私を殺してくれる気になったのかしら?」


 ガラスの壁まで来た美湖は、僕のことを見つめてそう言った。

 少なからず、彼女は動揺しているようだった。僕はこの15年間、頑なに美湖を殺すことを拒んできたから、きっと美湖は僕が美湖の命を終わらせるようなことをするはずがないと思い始めていたのだと思う。


 僕は、決心したのだ。この状況を終わらせることに。


「もう、終わりにしよう」

「やっと触れてくれると思うと、嬉しいわ」


 美湖は瞳に涙を浮かべていた。それが悲しさからくるのか、嬉しさからくるのかはわからない。


「あなたは最期に何か私にいうことはないのかしら」

「それは君に直接会ってから言うよ」


 僕は、持ってきていた彼女の部屋の鍵を持って、ドアノブの鍵穴に差し込んだ。鍵を回すと、ガチャリと音を立てた。

 ドアを開ける前に、彼女の方を見た。彼女はやっぱり、美しかった。





 ドアを開けると、眩しいくらいに白い部屋の真ん中に彼女は佇んでいた。

 僕は、そんな彼女の腕を取って、僕の胸に閉じ込めた。


「美湖、好きだよ」


 実際に彼女に触れながらいつもの言葉を美湖の耳元で囁くと、確かにいつもとは違う響きがした気がする。


「ふふ。あなたの心臓、こんなにも強く脈打ってるのね」

「だって、君に直接触れているんだもの」


 美湖はそう言って、僕の腕の中で泣きながら微笑んだ。

 触れたくて触れたくて仕方がなかった美湖は、ちいさくて、温かかった。力を入れてしまえば折れそうだった。

 そして、美湖の心拍数が、徐々に上がっていくのが壁のモニターで分かる。


「心拍数、上がってるね」

「だって私もあなたが好きだから。言ったでしょう、触れてみたらわからないって」


 僕は、幸せだった。


「ああ、あなたの腕に抱かれて死ねるのなら死んでもいいと思っていたけれど、死にたくないって思ってしまうのね、こんなときって」


 彼女はいつかの疑問の答えを、見つけたらしい。


「愛してるわ、あなたのこと」

「僕もだよ」


 僕は美湖の唇にキスを落として、泣いている美湖の涙を手で拭った。


「これから、いろんな思い出を二人で作っていこう」


 僕がそう言うと、美湖は美しい黒い瞳から大粒の涙を零した。


「死に際にそんなこと言わないで。もうお別れなのよ……!」


 今まで美湖と過ごしてきた中で、彼女が泣いているのを見るのは初めてだった。いつだって美湖は儚げな雰囲気を纏いつつも凛としていて強く、しなやかだった。

 そんな彼女がこんなに激しく泣く姿を、僕は想像したことがなかった。


「君は死なない」

「そんなつまらない嘘、もういいのよ」

「嘘じゃない。美湖は、僕の隣でこれからも生きるんだ」

「え……?」


 美湖が、涙をたくさん溜めた瞳で、不思議そうな表情をしながら僕の顔を見る。

 僕はそんな美湖の表情が可笑しくて、小さく笑った。


「最近何か変わったこと、なかった?」

「そういえば最近新しい薬を飲まされてたわ」

「特効薬、見つかったんだ」


 僕の言葉に、美湖の口元が上がった。


「……やられたわ。まさかあなたに出し抜かれるなんて」


 僕は医師という仕事をしつつ、美湖の病気について研究していた。15年という年月が掛かってしまったが、やっとその病気に効く薬を開発することに成功したのだ。


「これで僕が逆転勝ちだね」

「本当だわ。私はあなたには敵わないみたいね」

「愛の力は不可能を可能にするんだよ」

「そうね。あなたの愛のおかげで私もきっと雑草のように生きられたのだわ」


 僕が言った雑草という言葉を根に持っているらしい。そんな美湖の様子を見て僕は幸せをかみしめるように微笑んだ。


「美湖……君が死ぬまで僕は君のそばにいるから」

「私、しぶといわよ。この先50年は死なないかも」

「じゃあ50年一緒にいればいい」

「そうね」



 僕が君に触れるとき、それはつまり僕が君を愛していると証明したとき。



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