24 夏の始まり
夏休みはとっくに始まっていた。
八日間も臥せっていたのだから当然だ。
友達との約束も、夏休み前の事務手続きも、提出期限の過ぎた課題も、みんな放置されたまま、宙に漂っている。
そのひとつひとつに謝罪と懇願を添えて対処していかなくてはならない。
期限の過ぎた課題を思うと気が滅入った。課題の未提出は単位に響く。単位不足の終着点には留年が待っている。
あまり裕福とは言えない経済状態を考えると留年している余裕はない。留年と退学の選択肢はとても近い場所にある。
貧乏学生にとって単位不足の恐怖は切実なものなのだ。
退学を決めたスズキも、こんな気持ちだったのだろうか。
不意にスズキのことを思った。
わたしにとってスズキの退学はずいぶん遠い記憶になっていた。
立て続けにいろいろなことが起きた。
糸を手繰り寄せるように遡ると、事の発端にはスズキの退学があった。
もう描けないと言ったスズキの晴れやかな笑顔。
スズキは見切りをつけていた。
自分の絵に。自分の才能に。自分の身の丈に。
二十歳を過ぎたばかりの自分たちが、何かに見切りをつけるには、少しばかり早すぎるような気もする。
もう少しくらいジタバタしたっていいじゃないか。
そう励ましたくなる反面、スズキの判断が間違っているとも言い切れない。
天才は十年に一人しか出ないと言われるアートの世界。
絵だけで食べていける人間はほとんどいない。
「大丈夫」なんて言葉で安易に取り繕うには荷が重すぎる。
わたしはあまりスズキを好きになれなかった。
彼のマナーの悪さに眉をひそめたし、不遜な態度には反感さえもっていた。
わたしの感情を反映するように、スズキとの“混線”率は低かった。“混線”にも相性があるから、誰かれ構わず“混線”するわけでもない。
それでも断片的には、スズキの懊悩を感じ取ってもいた。
梅雨の終わりがぐずついた七月の上旬。
キシとの“混線”を通して見た、スズキの姿が思い出される。
あの時、わたしの“混線”は精度が低くて外れた。
“混線”の中で、キシの手によって破壊されたはずのキャンバスは、現実の世界では無事だったのだ。
わたしはてっきりキシのヴィジョンだと思い込んでいたけれど、途中から“混線”していたのは、スズキの懊悩だったのかもしれない。
めちゃくちゃに塗りつぶされ、突き倒されたキャンバス。
あれは、打ちのめされ、描けなくなり、不貞腐れ、自棄になっていくスズキの心情そのものなのだ。
ジタバタと溺れるようなスズキの苦しみが手に取るように思い出されて、抱いていたはずの反感がしぼんでいく。
美大に入ってから描けなくなる学生は多い。
描けないのではなく描かないだけだと主張する者もいるけれど、熱量を失うという意味ではどちらも同じだった。
天才。才能がある。未来の巨匠。
冗談めかして嘯きながら、どこかで自分の才能を信じて奮い立つ者たち。
それはいつか何事かを成すであろう未来の自分から自信を借り受けて、今の力に変えるということだ。
いずれどんな形にしろ借り受けた自信を返さなくてはならないときがくる。
何事かを成し遂げ、何者かになって実現する者。
何事も成さず、何者でもない自分と対面する者。
打ちのめされ立ち上がれなくなり、小さくしぼんでいく者。
ぼんやりとした霞に身をゆだね、やり過ごそうとする者。
どの形にしろ未来から借り受けた自信のツケは等しく訪れ、必ずしも実現者が幸福だとも限らない。一見、恵まれているように見える成功者ほど、永遠に埋まることのない心の飢餓を抱えている。
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