23 イルカの風鈴
わたしが知る限り、イルマの生活力は極めて低い。
「存在を節約している」と主張するイルマは、衣食住という自己の生命維持に関わる以外のすべてを放棄していた。
「僕は意識において実在しますが、生活においては不在です。これもエコです」家事全般を放棄するにあたり、イルマはそう宣言した。
「それはエコじゃなくてエゴだ」とわたしは意義を申し立てたけれど、「上手いこと言いますね」と返されただけで、二人の協定は強制的に議決してしまった。
以来、二人分の家事を余儀なくされたわたしは、窓辺で黒猫とくつろぐイルマを目の当たりにするたび、「ヒモ」の二文字を思い浮かべずにはいられなかった。
なにせイルマは生活費さえ入れていないのだ。
そんな彼が、まさか看病と家事の一切を引き受け、あまつさえ、それらを完璧に成し遂げるなんて、とても信じられなかった。
「いつもこうだと助かるんだけどな」
わたしはテーブルに頬杖をついてキッチンに立つイルマをしみじみ眺めた。
イルマは買い出しから持ち帰った食料品と生活雑貨を片付けていた。種々雑多とした物が、定まった位置に手際よく収納されていく。
無駄のない流麗な動きは、熟練したジャグジングを見るように小気味よく、スリリングでさえあった。
「明日からエコモードに戻ります」
イルマの予告に、わたしは落胆してしまう。
「やれば出来る子なら、いつもやればいいのに」
ぼやく。イルマは機械的なくらいピタリと静止して、ひたとわたしを見た。エコモードではないイルマは妙にシステマティックだった。
「問題なのは出来る子なのか出来ない子なのかではなく、やるかやらないかです」
「それは同感だね」
「つまり――僕にはやらないしか選択肢がありません」
「意味が……」
分からない。
今の会話の流れで、どこにどう「つまり」が入る余地があったのだろうか。
やっと治まったはずの頭痛がまた戻ったような気がする。
わたしはぐったりとテーブルに突っ伏した。
頬に押し当てた天板の冷たさに目を細める。
家事を再開したイルマの気配を感じながら、風に揺れるカーテンを眺めた。
生成りのカーテンは、青空を透かし込んで微かに青く、ひるがえる刹那だけ、日差しの暖色を帯びて、白く輝いて見えた。
チリン、とイルカの形をした風鈴が鳴る。
夏ですから、とイルマが物置から引っ張り出してきて軒に吊るしたのだ。
誰のものともつかない陶器のイルカは、鼻先が少し欠けていた。ところどころ色も剥げている。ずいぶん長く風雨にさらされてきたのだろう。
誰かのお気に入りだったのかもしれない。
それが誰なのかは、もはや知りようもない。
歴代の美大生たちが暮らしたこの屋根裏には、イルカの風鈴に限らず、ソファや剥製や甲冑といった、先住者の置き土産が詰まっている。
おそらくはモチーフ用として収集されたのであろうそれらは、てんでばらばらの趣向であちこちに据え置かれたままだ。
おまけに収集癖のあるイルマが、なにかしら粗大ごみを拾ってくるから、部屋の装飾は混沌としていく一方だった。
どこでどう入手したのか人体模型を持ち帰ってきたこともある。
理科室に置いてあるような等身大のあれだ。
あの時はさすがに窓から投げ捨てようかと思った。
チリン、とふたたび風鈴が鳴った。
風鈴の音色と一緒に、トマトの涼しい香りが鼻をかすめる。
イルマが昼食の調理を始めていた。
とても静かな気分だった。
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