20 夜からの絵葉書




 静か過ぎて目が覚めた。


 そんなことが有り得るのだろうか。

 それでもやはりわたしは静か過ぎて目が覚めたのだ。


 深い湖底からそっと水面にすくい上げられたような唐突な覚醒だった。

 目を開けると梁がむき出しになった天井が見えた。


 天井から土壁のひびを追って視線が滑る。壁に立て掛けた無数のキャンバス。ベッドわきのサイドテーブル。ぽつんと置かれた目覚まし時計……。


 粗末な、と言ってしまってもいいくらいの簡素な部屋。

 それがわたしの部屋だ。


 青い夜だった。


 別に感傷的な表現をしたかったわけではない。本当に青かったのだ。


 すべてが水に浸ったようにひんやりと青く、窓からのぞく満月だけが、ぽっかりと白い。月光に洗われた家具は、暗闇の中で青白く漂っていた。


 わたしはベッドに蹲ったまま、怯えた獣のように身体を丸めた。そしてたぶん怯えた獣がそうするように、気配を頼りに辺りを伺った。


 そこは確かにわたしの部屋で、わたしが昨日の夜に眠りについて、朝に目覚めるはずだった部屋だ。なのに家具も部屋も満月さえも、何故だかみんな余所余所しい。


 世界そのものが、わたしという闖入者にそっぽを向いていた。


 世界から切り離されてしまったような疎外感。

 わたしはたまらなく怖くなる。


 静か過ぎる。

 音が無いのだ。


 ただ音が無いだけではない。音を閉じ込めたまま、時間がこごまってしまっていた。咄嗟に見た時計の針は、三時十分からピクリとも動かない。


 時計と部屋と夜そのものが、まるで石のように押し黙っていた。


 止まっているのは時計ではなく時間だった。

 時間は存在しない。流れているのはわたしのほうなのだ。

 何故だかわたしはそれを知っている。


 ――夢?


 確かめるように呟いた。

 そうだ。これは夢だ。夜を閉じ込めた青い夢。

 そうでなければ時間からの剥離を説明できそうにない。


 よい夢を、と昨晩きいたイルマの言葉。あれはきっとイルマ特有のいつものヒントで、わたしが見る夢を暗示していたのだろう。


 少しだけ先回りして、ちょっとだ行先を開示する。


 親切なのか、惑わせたいのか、よく分からないイルマのヒントは、いつだって有難迷惑だったけれど、役に立つのも確かだった。


 イルマは大丈夫なのだろうか?


 イルマとのドア越しの会話が思い出されて、不安がくびをもたげる。

 不安に呼応するように、なにかに呼ばれた気がした。


 それとも本当に声がしたのかもしれない。


 気配のような予感があった。


 わたしはベッドからそろりと降りる。そのまま臆病な猫のような慎重さで部屋を横切ってドアの前に立った。


 予感の中で、なにかがわたしに「覗け」と告げている。


 わたしはゆっくりとノブを回す。

 ドアの隙間から見慣れたはずのリビングが見えた。


 やはり青い夜だった。

 リビングもまた夜を閉じ込めたまま沈黙していた。

 こごまった時間と、切り取られた空間。

 それはまるで夜から降ってきた絵葉書のように完成されていた。


 絵葉書の中に二人の肖像があった。

 一人は窓辺に寄り掛かり、もう一人は対面のソファに腰かけている。

 一人とはイルマで、もう一人とはタマサカさんだった。


 二人は古びた革張りの本を、器用に片手で開いて読んでいた。一見すると二人とも別々に本を読みふけっているように見える。


 それでいてながら彼らは物語を通して会話していた。


 書かれたものと、書かれなかったものと、書かれるであろうものが、本の中で綾をなして物語を紡いでいくのが、わたしにも見える。


 夜からの絵葉書の中では、こうして会話をするものなのだろう。


 そう得心するわたしと、そんな馬鹿なと笑うわたしと、これは夢なのだと諭すわたしがいる。どのわたしを信じていいのか分からなかったけれど、どうやらあるがままを眺めるしか選択肢はないらしい。


 わたしは本の中の文字を自分の思考へ引き寄せて、二人の会話をかすめ取る。荒唐無稽の連続に、わたしはもう何故そんなことが出来るのかと、考えるのを諦めてしまった。

 覗き見の罪悪感が、わたしの気持ちを急き立てる。


 読んでは駄目だとわたしが言い、早く読んでしまえとわたしが言う。悩んでも抗ってもわたしには読む意外の筋書きが用意されていない。


 絵葉書は既に完成されているのだ。

 わたし以外のナニカによって。


 気ばかりが焦る。どくどくと心臓は早鐘を打ち、掌が汗ばんだ。選べないのならわたしはさっさと読んでしまいたかった。


 そして一刻も早くこの場所から逃げ出してしまいたい。


 逸る気持ちを弄るように、文字は気紛れに伸びたり縮んだりして、なかなかその輪郭をつかませてはくれない。


 典型的な悪夢めいた様相に、苦笑が浮かぶ。


 ――と、苦笑いという綻びに、すっと文字が滑り込んできた。


 不思議な感じだった。


 読んでいるのか。観ているのか。聞いているのか。感じているのか。


 あるべきはずの体感さえ定かではない、あやふやな世界。本を読む感覚と同時に、克明なヴィジョンが目の前を流れていく。


 静止した絵葉書の世界を置き去りに、わたしの中で会話が動き始めた。

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