19 よい夢を


 わたしは立て続けに問い掛けた。


 「ダメージで喋れなかった?」

 「ベクトルがずれて指向性を保てませんでした」

 「なおったの?」

 「修復中です」


 ドア越しの会話が続く。

 イルマの声は確かにドアの向こうから響いてくるけれど、とてもドア一枚分とは思えない、ずいぶん遠く、くぐもった声だった。


 「本当に大丈夫?」

 「大丈夫です」


 ですが、とイルマは続ける。


 「座標を消失しました」

 「うん?」

 「一晩ラジオをつけておいてもらえますか」

 「チャンネルは?」

 「電源さえ入っていれば何処でもかまいません」

 「分かった」


 ラジオとはイルマ愛用のトランジスタラジオのことだ。彼はラジオのことを『座標スコープ』と呼んでいた。

 正直なところ、原理はもちろん意味すらさっぱり分からない。

 それでもわたしはイルマの要求に従い、ラジオを取りに走ると、スイッチをONにしてドアの前に鎮座させた。

 スピーカーから流行りのJ-POPが軽快なリズムで流れ始める。お世辞にも音質が良いとは言い難い、ガサガサとざらついた音だった。


 「クラシックがいい?」


 問いかけると、くすり、とイルマが微かに笑った。きっとわたしの気遣いは見当違いなものだったのだろう。

 張り詰めていた緊張が少しほぐれる。つられてわたしも笑った。


 「なんならアニソンでもいいしね」


 クラシックもアニソンもイルマの趣味だ。


 「そのままで構いません。あとは自分で復旧しますから。貴女ももう休んでください」


 わたしはチラリと時計を見る。

 午後十一時半を少し過ぎたところだ。


 「まだ大丈夫。ほかに出来ることがあるなら手伝うよ」

 「貴女もダメージを共有しています」

 「わたし?」


  はい、とイルマが答える。


 「いくつかの時間が欠落しました。記憶と時間の損傷です」


 へぇ、とわたしは半信半疑に頷く。

 確かにわたしの記憶は三時間ほど抜け落ちている。


 「損傷を補正する時間を脳に与える必要があります。眠ってください」

 「寝ないと駄目?」


 駄目です、と打てば響く速さでイルマが言う。


 「崩壊の直前に“私”を凍結しました。致命的な損傷は回避しましたが、思っている以上に貴女が受けたダメージは大きい」


 反駁を許さない強い口調。

 いつになく真摯な声に、わたしは言葉を失った。

 言われてみれば目覚めてからずっと、悪寒のような身震いが止まらない。

 不安や心配のせいかと思っていたけど、イルマの無事を確かめた今でも、震えは続いていた。どうやらダメージを受けたというのは本当らしい。


 「無理をすれば廃人になります。休んでください」


 ――廃人?


 さすがにわたしは怖くなる。


 「……分かった。休ませてもらうね」


 しぶしぶ立ち上がった。

 わたしはイルマのかわりにドアを見つめる。

 改めて眺めるとドアの薄緑のペンキがところどころ剥げている。そろそろ塗り直しが必要だと思いながら、もう一度イルマに問いかけた。


 「本当に大丈夫?」

 「はい。残り三時間で復旧します」


 イルマが断言する。

 見えてもいないのにわたしは肯いた。

 会話が途切れる。

 J-POPを響かせていたラジオは、いつの間にか天気予報にかわっていた。


 「じゃあ……」


 ぐずぐずと後ろ髪ひかれる思いに囚われながら、わたしはイルマに告げた。


 「おやすみ。イルマ」

 「おやすみなさい――」


 そっと促すようにイルマが言った。


 「――よい夢を」

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