18 不在


 アパートへ戻ると時刻は既に午後十時を過ぎていた。


 何処かで油を売っていたわけではなく、キシに声を掛けてすぐに家路を急いだ。それでこの時間なのだ。

 “混線”を試みたのが六時過ぎ。どう少なく見積もっても、わたしから三時間が欠落していた。記憶が抜け落ちたのか。それともただ単に昏倒していただけなのか。わたしには何も分からない。


 何があったのか。何もなかったのか。イルマは無事なのか。


 齧り付く勢いでイルマに詰め寄りたかったけど、共有スペースであるリビング兼アトリエに、イルマの姿は無かった。

 ほとんど外出しないイルマのことだから、自室に引っ込んだのだろう。けれども午前零時というイルマの就寝時刻にはまだ早い。


 わたしはますます不安になる。


 イルマの生活は定規で測ったように、きっちりと決まっている。

 午前六時の起床から始まって、一日五回の食事と就寝前の入浴、窓辺でくつろぐ余暇に至るまで、生活のあらゆる局面が分単位で定まっているのだ。

 定刻からは一分たちともはみ出さない。


 イルマ曰く、「存在を節約している」のだそうだ。


 もちろん人間であるわたしには、その行動原理は理解不能だった。

 言っている意味がさっぱり分からない。

 わたしに分かるのことといえば、イルマは定刻通りにしか動かないし、おそらくは動けないのであろうとう、経験的な勘だ。

 イルマは定刻の中にしか存在せず、定刻からの逸脱は、そのままイルマの不在を意味するように思われた。

 ずっと呼びかけにも反応がないのだ。


 ――イルマは存在しないのかもしれない。


 分かるような分からないような、理不尽な不安が押し寄せてくる。

 居ても立ってもいられず、わたしは檻の中のトラみたいに、ぐるぐると室内を歩き回った。イルマの部屋の前に来るたび、足を止めてそのドアを眺める。


 「何があってもけっして僕の部屋を覗かないでください」


 そうイルマと約束したのは同居を始めた一年前のこと。


 「鶴の恩返しみたいだね」と呑気な感想をもらしたあの時、どうしてちゃんと約束の破棄条件を確認しておかなかったのだろう。

 意味不明だからと億劫がらず、緊急避難的な措置が必要な要項を、訊いておくべきだったのだ。


 わたしは力尽きたように、ずるずるとドアの前にへたり込んだ。

 わたしのせいなのかもしれない。

 わたしが“混線”に失敗したせいで、イルマはダメージを受けたのだ。


 自責の念が胸をチリチリと焼く。

 わたしはドアに向かって呟いた。


 「……ごめんね」

 「いえいえ」


 ドアの向こうで声がした。

 予期しなかった返答に、わたしは文字通り飛び上がる。


 「イルマ!?」


 慌てて呼びかける。


 「はい」といつもの調子でイルマが答えた。


 「大丈夫?」

 「大丈夫です」

 「怪我はある?」

 「怪我はありません。しませんし」

 「ダメージとか?」

 「多少は」


 やはりダメージはあったのだ。

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