7 影



 太陽が西の地平線を焦がす頃。

 わたしはアトリエを出てB棟西口の休憩スペースを訪れた。


 数台の自販機とベンチが設置され、B棟と雑林に囲まれた小さな空間は、元は喫煙場所だったらしいけれど、全館禁煙になってからは閑散としていた。

 隠れ家的な趣が心地よくて、わたしはここで余暇を過ごすのを好んだ。

 自販機でミネラルウォーターを買い、心なしか左に傾いたベンチに腰掛ける。握ったペットボトルに口をつけるでもなく、茜色の空を見ていた。


 ――スズキが辞めたのは俺のせいだ。


 キシの声が耳の奥に響く。

 そう言ったっきり、キシは固く口を噤んだ。

 俯いた横顔に深くかぶさる前髪が、キシの表情を隠してしまった。

 それでも、隙間から垣間見える眼と、ぐっと奥歯を噛みしめた口から、キシが痛みに堪えているのは感じ取れた。

 "混線"を通して意識を読み取ろうとしたけれど、思考は掴めなかった。

 痛みが強すぎるのだ。

 涙みたいにシクシクとした痛み。

 霧雨に似た切れ目のない苦しさ。

 わたしの胸まで苦しくなる。


 何かあったの?


 視線で問い掛けはしたけれど、キシは答えなかった。

 大抵のことはわたしに話してくれるキシだけれど、切り出すまでには時間が掛かる。ゆっくり慎重に自分の中で吟味して、数時間か、あるいは数日を経て、ようやく彼は口を開く。


 わたしも無理に訊きだそうとはしなかった。

 不用意な発言は、キシ自身をひどく傷つける。

 キシが納得するまで待つしかない。


 「下で飲み物買ってくる」とわたしは休憩スペースに避難した。


 “混線”気味なわたしは、他人の痛みをノイズのように拾ってしまう。

 ノイズは少なからずわたしにとってもダメージになるのだ。

 日ごろから行動をともにしているキシとの“混線”率は高い。その分、ノイズから受ける影響も大きかった。


 わたしは左腕のギプスをそっと撫ぜた。


 地下鉄の階段で転落して肘を骨折して二週間。ギプスはひとまわり小さくなって三角巾も外しているけれど、まだときどき疼く。


 まるでわたしの心情に呼応するように肘はジクジクと痛んだ。キシの隣に戻るには、もう少し時間が必要なようだ。

 キシの隣に戻るには、少し時間が必要だった。


 ずいぶん長く空を眺めてから、ようやくペットボトルに口をつける。

 ほっと息をつく。

 まだ胸が痛い。

 塞ぎ込みがちなキシではあるけれど、いつにも増して痛みが強い。

 今までにない彼の様子が気に掛かる。

 突然、本当に突然、死に傾くキシの性質を思うと怖かった。

 気紛れや思い付きでさえない、反射のような自棄。

 わずかな違和感の見落としが命取りになりかねない突然の衝動。

 長い逡巡のすえ、わたしはキシとの恣意的な“混線”を決断した。


 恣意的な“混線”。

 今までになかった選択肢に戸惑を感じる。

 それでもわたしは行動に移った。

 軽く俯いて足元を見る。

 六時過ぎだというのに七月の太陽は西の空に居残ったままだ。

 長く伸びた影が、まるで対話でも誘うように、わたしと向き合っている。


 ――いいかな?


 恐る恐る、わたしは影に問い掛けた。


 ――いいですよ。


 影が答える。

 声でもなく音でもなく、直接声が頭の中に響いてくるわけでもなく。

 それでもわたしは音のない声を文字のように感じ取るという、特異な知覚プロセスを経て、影との会話を理解した。


 影の正体は分かっている。


 イルマだ。

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