6 はげまし
「セマのせいじゃないよ」
ぼそっとキシが言った。
隣でイーゼルを並べていたキシは、自分のキャンバスにでも話しかけているみたいに、前を向いたまま続けた。
わたしにしか聞こえないボソボソとした小さな声だった。
「あの時にはもうスズキが退学するのは決まってたし。だから――」
あの時、がいつのことなのかは聞くまでもなかった。
ワタリとスズキの鉢合わせのことをさしているのだろう。
「――セマのせいじゃないよ」
遠慮がちに向けられたキシの目が微かに微笑んでいる。
彼の精一杯の励ましを感じた。
やさしい視線はなにか悪いことでもしたみたいに、さっとキャンバスに戻される。
沈黙。
キシは黙ったまま手を動かす。
キャンバスの上で絵の具が躍った。
塗って、乾かして、削って、また塗る。
濃紺から浮かび上がる青白い牡鹿は、キシが最も好むモチーフだった。
キシの手が動くたび、樹木のように伸びた牡鹿の角が、複雑な色彩と絡み合いながら、濃紺の中にふたたび溶けていく。
曼荼羅のように緻密で、抽象画のように捉えどころがないキシの絵。
彼の絵は、はっと胸が痛くなるくらい心に響く。
いつの間にか、わたしは前後の会話も忘れ、キシの絵に魅入っていた。
いつもそうだ。
何気なく覗き込んだときも、テクニックを盗み見ようとしたときも、結局、いつもなにもかも忘れて、ただキシの絵にとらわれてしまう。
見る人の心に響く。
理屈も御託も日常も、すべてを飛び越えてしまう絵。
キシの絵にはそれだけの力があった。
十年に一人の逸材。
それはまさにキシのような人のことを言うのだろう。
初めてキシの絵を見たときから、わたしは彼の絵の虜になった。
遅くまで大学のアトリエに残るようになったのは、制作に集中したかったからだけれど、その動機の何割かには、キシの絵を近くでみたいという要求もあった。
友人という贔屓目を差し引いても、キシを評価する人は多い。
芸術にたずさわる者が、より高くより極みに立つ者へ向ける敬意を、学生はもちろん講師や教授からも集めてしまうキシは、まさに『本物』だった。
キシの絵を見てしまうと、自分のキャンバスに視線を戻せなくなる。
歴然とした差に打ちのめされるのだ。
愕然として、ため息が出て、苦笑いがこぼれて、最後に――
「すごいね」
自然と感嘆の声がもれた。
キシはキャンバスを見たまま、左の口角だけを持ち上げる。
微笑んだらしい。
注意していないと見逃してしまいそうなくらい、微かな微笑み。
キシ特有のはにかみ笑いだった。
けれどキシのはにかみ笑いは、掌に落ちた雪片みたいに、すっと消えた。
「スズキが辞めたのは――」
さっきよりもさらに小さな声でキシは言った。
「――俺のせいだ」
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