1 雲の行き先
梅雨があけると雲は白く高くのびあがっていく。
雲の行き先が気になって、わたしは空ばかり見ていた。
空にも天井がある。
対流圏とよばれる地表から十キロより先に、雲は昇れない。
押しのけた小さな雲をヴェールのようにまといながら、急上昇していく積乱雲は、その天井にぶちあたると、まるで巨大な大鷲が翼を広げるように平らに延びていく。
わたしはその様子をずっと眺めているのが好きだった。
夏は空が一番たのしい時期で間もなく訪れる夏休みと併せて、否応がなく気分が高揚する時でもある。
大学で二回目の夏休みは最ものびやかな時間なのかもしれない。
ゼミも就活も卒業制作もないのだ。
課題は多かったけれど、わたしはそれを苦にしていなかった。
それはキシも同じなのだろう。
わたしとキシは大学構内にあるいつものアトリエで、自らの画材に囲まれた『牙城』に籠城して、課題である八十号のキャンバスの下塗りに取り掛かっていた。
アトリエには常連であるトキワさんの姿もあった。
同じく常連だったはずのスズキとサイトウの姿はない。
ここしばらく二人を見かけなかった。
サイトウは陶芸にはまったとかで、
よく油絵学科だから絵ばかり描いていると思われがちだけれど、実際のところはそうでもない。
何を作るのかにあまり縛りがないファインアート系の学生は、絵はもちろんのこと陶芸から針金アートに至るまで、気分とインスピレーションの赴くままに芸術活動にいそしむ者も多く、制作物の種類も多岐にわたった。
スズキもサイトウも本業の油絵から遠ざかって久しい。
画材と描きかけの絵はそのままアトリエに残してあるし、基礎課題の都合もあるから、そのうち戻ってはくるのだろう。
「キシ」
アトリエの戸口でキシを呼ぶ声がする。
反射的に見やると、ワタリが戸口を塞ぐように立っていた。
小柄な青年だ。背丈はわたしと同じくらい。なで肩でほっそりしているわりに、あまり小さく見えないのは、顔の幅があるせいだろうか。
がっしりとした顎と無骨そうな表情は、おおよそアートといったものとは無縁な存在に見えたけれど、彼は同じ美大のデザイン科の学生だった。
「いつあがるんだ?」
この夏、キシとワタリはグループ展でのコラボを予定していた。
日程の遅れに焦れはじめているらしく、ワタリは頻繁にアトリエを覗きにきてはキシを急き立てるのだ。
キシはまほろばの住人のような儚げな動作で、ゆらりと振り返った。
「――今、グレース乾かしてる」
「仕上がったってことか?」
身を乗り出したワタリに、キシは「いや」と首を振る。
「まだ塗りたい」
「お前いつまで塗り直してるんだ。間に合わなくなるぞ」
ワタリは大袈裟な動作で天井を仰いだ。
キシの作品への姿勢に妥協の文字はない。納得するまで塗り続けるのだ。
その姿勢にはワタリも一目置いている。
だからこそコラボを持ちかけもしたのだ。
とはいえ一緒に活動するとなるとやりにくくて仕方ないらしい。勘弁してくれよと、ほとほとうんざりした様子で、ワタリは頭をかきむしった。
「撮影のスケジュールだって詰まってるし、俺の工程だってあるんだぞ?」
なで肩をさらにすぼめてワタリは肩を落とす。
そのまま力尽きるように、どっかりと丸椅子に腰かけた。
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