僕が緩やかに眠りにつくまで、君は踊って待っていて 09

 ごろん、という鈍い音と共に大きな物が床へと転がり落ちた。

 学校指定の半袖シャツ。そこから伸びる魚の腹のように血の気の無いしなやかな腕。庫内灯の冷え冷えとした白い光に照らされる、色素の薄いアンバーの髪。

「花折……」

 俺は言葉を失って立ち尽くす。庫内から垂れ流される白い冷気が、黄泉から涌き出る霊気のように花折を包む。

「狭いので、向こうに持って行きますね」

 遠里は花折の肩を物でも掴むように持ち上げて化学室へと引き摺っていく。窮屈な姿勢で詰め込まれていたのだろう、皺だらけの黒い制服に包まれた脚が、ずるずると床を擦る。驚愕による硬直から立ち直ってすぐに後を追うのと、遠里が化学室に戻るや否や荷物のように花折を打ち捨てたのは同時だった。

「てめえっ!」

 俺は花折に駆け寄ると殺意に煮え滾る瞳で遠里を見上げる。

「ああ、御免なさい。動いて逃げ惑う方が殺し甲斐がありますよね」

 何を言っているのかまるで理解できない。狼狽する俺の態度にやっと気付いたのか。王子様のようにふわつく髪を掻き揚げて遠里が目を眇めた。

「なぜ、そんな目をするのですか?」

「なぜって……」

「貴方もこんなものが生まれたという、我々の恥辱を雪ぐためにこれに近づいていたんでしょう?」

 遠里の言葉を聞いてやっと理解する。誤解も甚だしいこいつの妄想を。

「これが我々の間でなんと呼ばれているか知っていますか?“希望”ですよ!」

 嘲るように顔を歪めて遠里が笑う。

「あの脆弱な地球人と、我々の間に子供?ふざけるのもいい加減にしてください!貴方もそう思っているのでしょう?」

 哂う宇宙人。壮絶に美しい顔で、口を三日月形に歪めて遠里は続ける。

「これは僕らの弱さの象徴だ。武器を棄て、戦うことを止めて、そして人に隠れて惨めに生き延びようとする僕らの弱くなってしまった心の体現です!さあ、貴方の手で殺してください!降下の時に最後まで我々たろうとした貴方が是非!さあ!」

 足元に転がる花折を遠里が足で小突く。意識の無い花折はまるで死体のようにごろりと転がった。際限の無い花折への蛮行に、俺の思考領域(ソフトウェア)が冷却さえ追い付かないほどに熱暴走(ヒートアップ)していく。

「いい加減にしろ。花折を寄越せ――俺は、こいつを殺す気なんてねえ」

「は……何を仰ってるんですか?」

「だからよ……手前等の主義主張なんてこっちはどうでもいいんだって」

「はい?」

「問題は、なんで、何も知らない花折に、こういうことをしてるんだって事だ!」

 俺は怒りのままに遠里に掴みかかろうとする。だが、伸ばした腕は不可視の障壁に簡単に弾かれ、俺の手からは青い血が噴出した。ノスタルジックな光景だった。

 弾き飛ばしたのは、目に見えない触覚器官(ライン)。

「ってえ……挙句に捨て去ったはずの戦闘技術まで使いやがって……!」

「やだなあ、捨て去ったのは日和見主義の年寄り共だけです。僕等は少なくともまだ戦うつもりなので」

 聴覚センサーがぎりぎり感知できる振動音。虫の羽音のような。触覚器官(ライン)を揺らす音。昔我々誰しもが持っていた、唯一無二の感覚器官。

「がっかりですよ。我々の間でその名を知らない者などいない貴方が」

 そこで一度言葉を切り、わざとらしく俺をちらりと一瞥して溜息をつく。

「こんな塵芥に想いを寄せているなんて」

 遠里が滔々と捲くし立てる声には、何時の間にか狂ったような響きが滲み出す。

「あの頃の貴方はそんなじゃなかったでしょう?意思決定権を持つ中で末席とはいえ第三位(サード)に君臨し、我々の在り方を体現するように殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しまくった!全てを焼き尽くし分子にまで破砕して殲滅した!貴方の駆けた戦場は地表さえも失った!そんな貴方が何故!?」

「……そのせいで、星まで壊した」

 俺だけのせいで、とまでは言わないが、あの戦い方で、あの戦闘方法で、目的の有るようで無かったあの戦争で。

 俺たちは、あの時壊すためだけに暴れまわっていた。

 自らの手で地獄を生み出した。

 すべてを本能のせいにして。

 純然たる理性を振りかざすかのように狂気をばら撒いて。

 正しいとか、正しくないとか、今の我々の末路を見ればそんな事を論じるまでも無い。

「それに、あの選挙で決まっただろう?」

 ぴくりと遠里の頬が引き攣った。桜色の瞳孔が細く絞られ、わなわなと震えだす。

「汚らわしい!あんな数の差だけで決まる意思決定など!弱者のための論理です!我々に相応しい方法では無い!」

 断固として叫ぶ遠里。

 ああ、まるで昔の自分を見ているようだ。俺は思わず微笑んでしまった。

「何を笑っているのですか!?」

「……いやあ、思い出しちゃってさあ、あの時の事」

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