僕が緩やかに眠りにつくまで、君は踊って待っていて 08

 ついに、合間見える時が来た。

 真夜中の学校の廊下に俺は一人立っていた。もう高岡教員は家に帰らせている。彼女をこれから起こる事に巻き込ませる訳にはいかなかった。

 俺はある部屋の前に立っている。様々な物質の混ざり合った複雑な匂い。俺は取っ手に手を掛けて、スライドドアを勢い良く開く。

「こんばんは」

 桜色がかった髪を優雅に風に浮かせ、そいつはアルカイックスマイルを顔に貼り付けて掌を振った。実験台に背を預け、ゆったりとリラックスした姿勢で微笑むのは、魔方陣を手にこの部屋へとやってきた時に出会った上級生、化学部部長南栄。冷房の入っていない部屋にもかかわらず、暑さなど微塵も感じていないような余裕ぶりだった。

「月が綺麗ですね」

 彼の背景は、大きな窓枠に切り取られた漆黒の夜空。そこに浮かぶ月は丸々と肥え太り、収穫前の果実を思わせる艶やかな光を放っている。

「花折は、どこだ?」

 舞台めいた台詞を切り返しもせずに俺は本題を投げかける。茶番に付き合うのは御免だった。

「まあまあ、まだ生きてますから」

 女ならば見惚れるのだろう柔らかな微笑を浮かべながら、一皮剥けば物騒さしか汲み取れない言葉を南栄は紡ぐ。

「なら尚更だ。早く返せ!」

「おぉ、まるであの頃の勇猛さ。全然錆び付いてはいないようですね!ずっとお会いしたかったんです」

 化学室で会ったときとは違う、慇懃な態度に苛々させられる。

「高岡教員から大体聞いてる。春過が消えたと同時に、化学室に棲み付いている不届き者がいるってよ」

「あの地球人は何も知らないですよ。大事な事は何も」

「重要な情報だよ。お前が――南栄春過という名前を纏った真赤な偽物って事はな!」

 俺の指摘に肩を竦める南栄。

「そんな事、重要でも何でも無いでしょう?」

「俺達にとってはな。だが、高岡教員にとってはそうじゃない」

 二年前の卒業式前日、確かに南栄春過は消えた。正しく言えば南栄春過の情報が。

 少なくとも学校から、この地上から。消えた、筈だった。

 だが、高岡教員は春過の事を覚えていた。

 学校の生徒も、教師も、濃い霧に遮られたかのように僅かだったけれど、彼の影を覚えていた、そしてそれは伝播しない怪談としてのみ学校に残った。記憶は消えたが、物語は残った。

 全てが中途半端だった。不完全な情報改竄。

 白いペンキを塗りたくった壁に、薄っすらと落書きの跡が浮かぶように。

 そしてそんな中、高岡教員の前に彼は現れた。

「少なくとも今僕は、南栄春過として此処にいる」

「在校生名簿にも載らず、クラスにも所属せず、化学室だけを棲み処にしてな」

 まるで幽霊のように、居場所を限定して存在する生徒。俺は南栄を睨み付ける。

「そんな不自由な存在になってでも、お前は春過になりたかった……自由に我々・comを利用できる存在になるために」  

「その通りです!」

 乾いた拍手をする南栄の眼前に、俺は教育用タブレット端末の罅割れた画面を突きつけた。そこには俺が我々・comのゴミ箱からサルベージした、ラブコールメールが表示されている。

「ナツ――これは、お前が送ったメッセージだな?」

「そうです。返事が無かったからがっかりしたんですよ。僕、日本中の学校で貴方を探し回っていたんです。巡り巡ってやっと貴方を見つけて、嬉しくて嬉しくてコンタクトを取りたくて送ったんです」

 眉を下げる整った顔を問答無用で殴り倒したい衝動に駆られるが、それを何とか耐える。まだ確認していないことがいくつかある。

「てめえ自身のIDで送ってればいい。だがこのナツっていうIDは、春過からお前が乗っ取ったものだろう」

 春が過ぎて夏になる。俺のニックネームと同じくらい安直なネーミング。

「ええ、頂いちゃいました。僕の本名は――」

「七尾遠里」

「そこまで調べてくれたんですか!」

 あっけらかんと認める南栄――遠里は、嬉しそうに笑ってさえいる。非常に気持ち悪い。

「大変だったんですよ。七尾遠里としてのIDは危険人物リストに登録されて常時監視されているから、Sクラスの貴方にメッセージなんて送れませんもの。だから春過君からIDを剥ぎ取って使わせて貰いました。ちょっと貸してくれるだけで良いって言ってるのに全力で抵抗してくるんですから……結局休眠状態にまで追い込んで、パターンの彫られた指まで採ったんですよ」

 それは、我々で言えば半殺しにしたと同義だ。さらに言えば、何時か目覚められるとしても、高岡教員と生きることを選んだ春過からすれば、死ぬことと同じだ。

 メッセージを送りたい。

 だったそれだけの事のために、目の前の男は仲間を傷付けたのか。

 なんて、なんて我々らしい。

 溜息を付いて遠里は肩を竦める。

「全ては貴方の為だったんです。わかりませんか?」

「他人の為にって言葉が、免罪符になるなんて思ってねえよな?」

「それ以前に、我々に罪の意識なんてもの無いでしょう?」

 演技っぽくゆっくりと頭を振る遠里。

「春過君の中途半端なID(そんざい)を利用して学校に居座って、貴方の事を見続けてました。なんでメールの返事をくれないのかな、何を思っているのかなって考えながら……だけど貴方が目立った動きをしていなかった理由はすぐに分かりました!貴方もあの汚れたゴミに目を付けていたからだったんですね!」

「は?」

「あれですよ!あっ今持ってきますね」

 そう言って遠里は扉続きになっている化学準備室へと駆け足で入って行く。俺は不審な顔をしながらその後に続いた。

 化学準備室はきっちりと分厚いカーテンで光を遮られ、蜜を散らすような月光も届かない漆黒だった。暗視センサーがゆっくりと起動し暗闇に濃淡を付けていく。化学室より厳重にロックされた薬品棚に、観察に使うのだろう、人目を憚るような生物のホルマリン漬けがずらりと並んでいた。その部屋の壁際に設置された、業務用の背の高い冷蔵庫。冷気を放つスチール製の取っ手に手を掛けて、遠里は扉を開ける。

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