僕が緩やかに眠りにつくまで、君は踊って待っていて 04

 その事件が起きたのは、春過が二年生になった冬の日のことだった。人気の無い実験室は暖房が入っていても寒く、何時もよりも念入りにウインドブレーカーまで羽織った高岡教員は、同じくセーターを着込んだ春過と実験準備に勤しんでいた。

「今日は塩酸を使いたいんですが。化学電池をやってみたくて」

 春過はビーカーや電極を並べている。

「いいよ、じゃあ試薬を出すから」

 高岡教員は薬品棚を解錠し、必要な物を取り出そうと開き戸に手を掛けた。

 戸を開けた瞬間に、手前に並んでいた試薬瓶がぐらりと揺れる。最後に片付けた人間が無理に瓶を押し入れていたのだろう。

 しまったと思う間も無く瓶が降ってきた。スローモーションで迫ってくる瓶の側面にはH2SO4の文字。

 ――――硫酸!?

 そう理解すると同時に視界がぐるりと反転した。硝子の砕ける音。自分の体がどうなっているのかもわからないままに彼女はぎゅっと目を閉じていた。

「大丈夫ですか先生!?」

 不安を多量に含んだ声が彼女の顔に降り注いだ。そっと目を開けると、上下が逆になった春過の顔が視界一杯に広がった。

「どこか痛くないですか!?薬掛かったりしてませんか!?」

 狼狽している春過を落ち着かせようと身体を起こす。足元十数センチ先に中身をぶちまけて粉々になった瓶があった。僅かにスニーカーについた液体に背筋が冷たくなる。

 思わず後ずさった自分の背中に春過の胸板が当たり、どうやら後ろから抱き込まれるように引き寄せられたのだと理解する。

「大丈夫。ありがとう、危なく大怪我をするところだったわ。南栄こそ無事なの?」 

 高岡教員は自分を拘束する腕を解き、春過に向き直った。教師と生徒にしては距離が近すぎたが、今はそんな事を言っている場合ではない。春過はこめかみを右手で押さえながら慌てたように空いた左手を振って後ろずさった。

「だっ大丈夫です!!怪我なんてしてませんから!!」

 そう言っている内に押さえた指の間から血が一筋流れ出す。

「お前は馬鹿か!?はやく傷口を見せせなさい!」

 高岡教員はにじり寄って彼の右手を強引に外した。柔らかなくせっ毛が、紺色の液体で固まっている。見知った赤ではない、見知らぬ青は見ている傍から赤く変色していく。

「南栄……?」

 新鮮な青い血液が、傷口から滲み出た。

「あー……またばれちゃった……」

 春過は、眉を下げて諦めたように右手を下ろした。


「また?」

 俺は首を軽く傾げる。

「あぁ。南栄……春過は間抜けな宇宙人だったんだろうな。一つ前のサイクルでも、私に人間ではないとばれていたらしい」

 サイクル、俺と同じ。それの意味するところは。

「やっぱり……春過も学生を繰り返していたのか?」

 あの劣化した部活動申請書類は、南栄春過本人のものだったのか。

「あぁ、もう二十年近く学生をやってると笑っていた」

 全く気付かなかった。箱庭のように小さな学校というコミュニティの中に居て、学年さえも同じだったのに。クラス分けの際に安定生存機構(マザーオブグリーン)によって春過と重複しないように調整されていたのかもしれない。だが同じクラスだったとしても、クラスメイトの顔すら禄に覚えていない俺には到底見つけられるはずが無かっただろうが。

「春過は正直に自分の事を話してくれた。それさえも、サイクルが回れば無に還るから問題ないのだというように」 


「もう五年も、貴女に片思いをしているんです」

 そう泣き笑いの表情を浮かべて、差し伸ばされる手をどうして振り払うことができようか。

嘘だとしても良い、騙されていたとしてもいい。高岡教員はそう思ってその手を取った。 

 そうして、また二人は恋に落ちた。

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