僕が緩やかに眠りにつくまで、君は踊って待っていて 03
2051年春。
ハルカ――南栄春過と高岡教員の話は、彼女が受け持つ化学部に彼が入部してきた所から始まる。
「よろしくお願いします」
彼は春の陽光の似合う柔らかな笑顔を浮かべて、彼女に入部届けを差し出した。どこかのアイドルと見紛うような面差しに一瞬目を奪われるが、彼女はすぐに平静を取り戻す。
「あぁ、私は」
「ソフトボール部と兼任なんですよね。知ってます」
先回りするような言い方にカチンと来たが、ほとんど顔も出せていない顧問には何も言う資格はない。
「今の化学部は幽霊部員が数人いるだけでほぼ廃部状態なの。本当に君一人で大丈夫?」
がらんとした化学室には高岡教員と彼しか居ない。
「いいんです。器具の場所とかは大体知ってますから」
入学したての一年坊主が何を言っているのか、呆れながらも身長だけは一丁前に自分とタメを張る春過を一睨みする。高身長と化粧っ気の無さから、男性教師陣にすら恐れられるその顔に、何故か春過は蕩けるような笑顔を返した。
「それに、この方が先生と二人っきりになれるし」
「お前……なに初対面早々セクハラ紛いの事言ってんの。廃部させるよ」
「あはは……そうですよね。初対面ですよね……」
春過は頭を掻いて笑う。その顔に一瞬の寂寥を見た気がしたが、高岡教員はその原因を自分の口のキツさのせいだと理解した。
ふざけた言動とは裏腹に、彼は精力的に部活動を行った。義務付けてもいないのに実験レポートを毎回提出し、しかもその内容は教師の彼女から見ても非の打ち所の無いものだった。やがて彼女はソフト部のコーチの間を縫って化学室を覗くようになる。
「今日は何をするつもり?」
その日彼女が部屋を覗き込むと、春過は机の上に色とりどりの木の葉を並べているところだった。
「先生!今日は葉脈標本を作ろうと思って!」
形のバリエーションを重視した木の葉のラインナップを、春過は自慢げに広げて見せてきた。葉脈標本とは、水分と栄養素を運ぶために葉に張り巡らされた維管束――血管にあたるものだけを取り出して観察するために作成される標本だ。繊細なレース模様にも似た標本の作成実験は毎回生徒にも好評なので、時間の都合が付けば高岡教員もよくカリキュラムに組み込んでいた。
「沢山あるんです。先生も作りませんか?」
葉肉を取り除くために用意した歯ブラシをタクトのように振って春過は差し出した。
「……そうだな、たまには部員の実験技術も確認したいしね」
練習のメニューもしっかりと伝えてある。今日は副顧問もいるのでソフト部の方は問題ないだろう。高岡教員が席に着こうとすると春過が慌てて手招きした。
「隣に座ってください。隣がいいです!」
「お前な……」
ぽんぽんと自分の隣の椅子を叩いて主張する春過。だが目をキラキラさせたその大型犬のようないじらしさに負けて、結局席を移す。
「おぉ、上手く処理したな」
すでに並べられた木の葉は水酸化ナトリウム水溶液で煮立てられた後でしんなりとろ紙の上に張り付いている。煮過ぎると葉脈自体も崩れてしまうが、目の前の葉はきちんと時間を測って処理されたらしく、そのような兆候は見られなかった。
とんとん、と渡された歯ブラシで葉を叩き葉肉をこそぎ落としていく。面白いように葉肉は剝がれ、蜘蛛の巣のように緻密な葉脈だけが取り出された。
「そういえば、前のレポートはどうでした?」
「あぁあの水酸化カルシウムの精製実験ね。完璧だったよ、一箇所を覗いては」
「えっ?どこか間違ってました!?」
「最後のテスト対策、語呂合わせの項目がねえ……顔を洗って水酸化カルシウムって……お前の駄洒落のセンスには最早脱帽だよ」
「褒められてます?」
「呆れてるんだって」
並べられた葉を片っ端から叩いていく。葉脈だけになったものを水で丁寧に洗えば標本の出来上がりだ。
「乾かしておいてください、今度それで作りたいものがあるんで」
「若干美術部めいてきてるな……」
「世の中の物事の大抵は化学ですよ。料理だってそうじゃないですか」
朗らかに笑って彼は実験器具を片付け始める。手伝おうとジャージの袖を捲ると彼女も洗い場に立った。
「先生、今日は一緒に実験してくれてすごく嬉しかったです。また暇な時にでも来てください」
はにかみながら春過は言った。
それから、彼女は週に一回は化学部へと足を運ぶようになった。
「これが、その時の物証だよ」
高岡教員はポケットから携帯を取り出し、そこにぶら下がるストラップを掲げて見せた。慣性にしたがって揺れるチェーンには、透明なアクリル樹脂に包まれた葉脈の一片があった。以前見たとき罅割れていると見間違えたのは、レースのように細やかな模様を封じていた為だった。
「思い出って言ってやれよ」
俺は日差しに透ける葉脈標本に目を眇めた。恐れ入る、春過という我々の一員はなんて大胆な事をしでかしていたのか。
昨今の我々は、
一昔前の紙ベースでの遣り取りが重要視されていた頃は、毎回徹底的に情報消去の任を負った我々の仲間が走り回って物証を回収していた。その苦労を鑑みれば、現在の電子データ主流の世の中で自らの物証を残す彼の行動は余りにモラル欠けているように思えた。
「そうだな……今の私に残されているのはこれだけだ」
そうして、彼女はまた口を開く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます