君の背中を、俺は突き落としたい衝動に駆られながら。 13
夜の海のように、暗く沈んだ校舎は静寂に満ちていた。緑の非常灯と赤い消防灯だけがぽつりぽつりと波間に浮かぶ船のように頼りなく光っている。
「こわっ……夜の学校ってこわいっ!」
花折が子犬のように周囲に視線を巡らせている。そうやってちらちら見るから見間違いが増える。そして余計得体の知れない物を見た気になるのだ。俺はこっそりと視覚インターフェースを暗視モードに切り替える。
「それにしても、これだけ広い所にどうやってあの図を描くかだな」
中心に立って花折はぐるりとグラウンドを見渡す。二人には余りに広いキャンパスだ。そこで花折が自信満々にポケットから「秘密兵器!」と見慣れた
「じゃじゃーん!家にいる間に用意してきたんだ。母さんにばれないように勉強してる振りしてさ!未散、端末貸して」
言われるがままにロック解除した端末を差し出すと、花折はそれを受け取って自分の端末と重ねる。十秒もしないうちに俺の手にそれは戻された。
「アプリ、一個増えてるでしょ?」
たしかに、閑散としていたトップ画面に地球の形をしたアイコンが増えている。タップして起動させると、カシャリとカメラのレンズフィルターの開閉音。画面にグラウンドが映る。そのグラウンドに重なって、水の流れのように何本もの青線が表示されていた。
「征木印のARアプリだよ!とは言ってもライセンスフリーアプリのカスタム版だけどね!」
誇らしげに端末を掲げる花折。
ARとは拡張現実、要はカメラを通して見る現実の風景にデータを被せて表示させる技術だ。GPS――衛星からの位置把握システムに連動して情報が載せられるので、たとえばARカメラを通して飲食店を見れば、GPSの位置座標に紐付いた店の情報や割引クーポンを表示させる事もできる。
「画像を拡大してグラウンドにマッピングしたんだ。これで一々屋上に登って確認したりしなくていいでしょ?」
「お前……実はすげー頭いいんだな」
「一応学内模試も五位だからね!」
驚いた、本当に賢かったのか。
花折は消石灰を満タンに積んだライン引きを持ち上げる。昼間の俺の失態から学んだので、今着ているのはお互い汚れを気にしないでいい学校指定のジャージだ。暗紅色の芋ジャージは夜の闇に紛れられるので尚更都合が良い。
「タイムリミットは四時間半だ、内側から描いてくぞ」
「おぉーーーー!!」
こうして、時間との勝負が始まった。
「未散!」
「しゃべる余裕があるんなら手を動かせ」
遮るもののない場所で、俺たちの声は本当に良く響く。最初ずっと片手に持っていた端末は、効率が悪いと途中からライン引きの取っ手に紐で固定した。黙々と小さな液晶画面に映る、青い道標を頼りに作業を進める。
「あのね!僕、もし今日何か起こったら、決めてる事があるんだ」
「何だよ?」
「それは起きてからのお楽しみだよ♪」
鼻歌さえ歌いだしそうな調子で、花折はライン引きの重みを利用して踊るように白線を引いていく。
「夜の学校忍び込んで校庭にラクガキして……ホントに俺は何をやってるんだ……」
惰性のままに通い続けていた学校。二十年も通ってその実、夜の学校など訪れるどころか見た事すらもなかった。
「こんな馬鹿な事……あいつら皆もやったりしてたのかな……」
五百人以上クラスを共にしてきた生徒達。俺は彼らに、干渉することも構うことも、話すことも触れ合うことも、一切無く生きてきた。
つまらない、殺したい、とぼやきながら。
それに比べて花折は、目の前で衝き動かされるように何かを探しているこの少年はどうだろう。つまらないと泣きながら、それでも焦燥感から逃れようと身を窶す彼は、どれだけの思いで今この時を生きているのだろう。死にたくないから生きているという花折の方が、俺よりよほど活き活きとしているではないか。
グラウンドを隅から隅まで走り回って紅潮した頬に、夜空に無数に瞬く星を映したかのように輝く瞳。無意識に呟く。
「俺は、お前を理解したいよ」
黙々と線を描きながらふと思う。今、自分はどんな顔をしているのだろうかと。
「できた―――!」
「ま……間に合ったぁぁぁ――!!」
花折が最後の線を繋ぎ、ライン引きを放り出して花折は拳を振り上げた。俺も爽快感と達成感を弾けさせて腕を突き上げる。
「早く確認しに行こう!」
俺達は疲れた体を叱咤して屋上へと駆け上がった。
「うわあぁ……!」
フェンスに両手を掛けて、身を乗り出すように花折は地上を見渡す。
「完璧だ」
俺もカメラ越しにグラウンドを見下ろす。ARカメラに映し出した画像情報と、グラウンドに描かれた線が完全に一致することを確認した。ディスプレイに表示された現在時刻は、四時四十分。
間に合った。これで、後は時が来れば。
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