第十九話 あの美しい梅の下で

 ◇



「ああ、その様子からすると、もしかして、君、」

「え……」


 咲夜は刀を振り被っていた。目の前の少女が何やら言っている。梅の花が咲き乱れ、その奥の瞳と視線がかち合う。そして、陶然と笑う彼女の言葉。そこに既視感を覚える。


 おかしい。

 

 そして、それを言われて動揺している間に切り刻まれて……。

 いや、分かっているから、今は動揺も何もない。


 目の前の彼女はこう言う。

 “この写実師のことが、”


「この写実師のことが好きなの?」


 咲夜の剣戟は揺らぐことなく、まっすぐ梅の枝を払った。そして、そこに思わぬ追撃が来る。


「【焔】」


 カーディガンごと制服を乱暴に後ろへ引かれ、息が詰まる。その一瞬、傍らを熱い光弾が行き過ぎた。着弾を確認する間もなく、腹の辺りを抱え込まれ、近くの民家の屋根まで後退する。


「平坂、無事じゃったか」

「どうにか」


 そう応じる平坂だったが、その麦藁帽子の下の表情を咲夜は見逃さなかった。


「む、顔色が悪いぞ。やはり、先のダメージが残っとるか?」

「……お前、重くなったなあ」

「…………は?」

「体重。脇に抱えて運ぶのは、もうきついかもしれない」

「……!!」


 そんなことよりも、と平坂は杖を構えた。

 いつの間に回収したのか、また書簡の風呂敷がそこに括りつけられている。


「のんびりするにはまだ早い。焔が直撃したおかげでどうにか足止めできているが、所詮はただの時間稼ぎだ。ここまで来たからにはもう畳み掛けたい」


 平坂のあまりにきっぱりとした口調に、咲夜は文句を言おうとしていた口を噤んだ。既視感やら何やら気になる部分をぐっと飲み込む。

 確かに梅はすぐにあの焔を突破してくるだろう。ゆっくりしている暇はない。揺らめいている焔を視界に入れたまま、思いを馳せたのは、先に合わせた瞳のことだ。歪んでしまったはずの梅の瞳は、不思議と歪まずまっすぐに見えて。


「本当に彼奴は歪んどるんじゃろうかの……」

「今更何を。ヒトを喰らう衝動を抑制できない時点で、歪んでいるに決まっている」

「……そうじゃの」


 我ながら馬鹿なことを言ったものだ。ヒトを食らう時点で、歪んでいる。歪んでいるモノは正す。それだけのことのはずで。

 けれど、この後に及んで先の既視感が引っかかった。


「……春は、もういない。壊してしまえば、戻らない」

「どうした、いきなり」


 梅の香りが微かに強くなる。咲夜は再び書簡をチラと見た。死んだ春子が書いた文は、想いに溢れて、祝が満ちていて。


 それが向けられた先は、一体どこであったのか。

 それに応えたのは、一体何モノであったか。

 歪んでしまったそれらに、歪んでしまった梅に、誰かが答えを出さなければならない。


 本当の、歪んでしまう前の想いを。


「私に考えがある。任せてくれんか?」


 咲夜は妖刀の切っ先を書簡に向けた。


 ◇



 炎の中から花が咲くように、少女が現れた。少女が目にしたのは、真っ新な夜の闇だ。続けて、その中に散らつく梅の花。


「え」


 少女の口から少年の声が漏れる。

 それは梅ではなかった。梅の香を纏った紙が夜風に舞い、少女の傍らを素通りする。


「え」


 少年になった梅の口からまた一つ、今度は少女の声。

 視界の先で、妖刀を携えた少女が踊る。否、踊るようにその切っ先を閃かせ、春の書簡を切り裂いていた。赤が舞う。紅が舞う。


「やめ、」


 声が溢れて、消えていく。次いで、紙片が焔に巻かれて、


「止めろ、止めてくれ!!!!」


 傷つけるな

 犯すな

 踏み付けるな

 穢すな

 斬り刻むな


 僕は、彼女は、そんなことは望まない。

 頼むから、願うから、叶うならばどうか。


「春を、壊すなああぁぁあああ!!」


 伸ばした枝が打ち払われる。暗い闇のような髪が散らばり、その陰から憐れむような、そして詫びるような瞳。

 想いは決壊し、体は前へと飛び出した。


「がああああぁぁあぁぁああ!!ハルゥ……!」


 溢れて止まらない感情。

 自分が分からなくなる感覚。


「……梅よ」


 咲夜は妖刀を振りかぶる。


 それはもはや、元の姿もなく、ひしゃげていた。歪み切った体は四方八方に枝や手足を伸ばし、何十にも増えた目玉をギョロつかせ、しかしもうどこも見てはいない。


「春ハルはるはるハル春春春」


 梅は、目の前の少女へと確かに手を伸ばす。

 咀嚼して飲み込めば、肉が咽喉を伝う感触があるだろう。骨が砕かれる音が響くだろう。彼女が僕のものになっていく。その狂喜が、恋しく愛しい。


「……春はもうおらんと、言ったではないか」


 妖刀を振り下ろし、手足をいくつか切断する。怯んだ隙に、屋根の上から飛び降りた。


「がああがっがががっががっがががっがああああ」


 長瀬とも春香ともつかない、さらに言えば人でも梅でもない異形。もはや言葉を忘れてしまった妖モノが八つの足を動かし、屋根を這うように咲夜に追い縋る。


「梅よ! こっちじゃ!!」

「がががががががっがががががあがあがああああああ」


 言葉にならない咆哮が響いた。本能のまま、咲夜を喰らおうとその巨体は迫ってくる。


「早い……!」

 

 突進してきたそれを、側転で避け梅の方に妖刀をかざす。梅の太い足が横薙ぎにされ、巨体はバランスを崩した。しかし、すぐに体勢を立て直し、咲夜の方を向く。その瞳に理性はない。紅梅が狂い咲き、咲夜は舌打ちした。

 咲夜は再び駆け出し、梅は追う。


 唸り声とむき出しの怨嗟とが咲夜に向けられる。そして、その苦しみも耳に響いてきた。それを背に受け、しかし追いつかれるわけにはいかなかった。

 そうして、続いた鬼ごっこは、


「平坂!! 今じゃ!!」


 咲夜は飛び出し、叫ぶ。辿り着いたのは少し開けた大通りだ。

 そこに梅が差し掛かった瞬間、地面が青く灯る。あちこちに敷かれた札。梅が踏み入れたのは、陣の中心だった。陣の端には杖を携えた平坂が立っている。

 咲夜が陣から離脱したのを視認した平坂は、巨体を視界に捉えた。杖を構えて、


「【雪花】」


 術が発動した。梅の足元が凍っていく。

 そして、もう一言、


「【律】」


 そして、異形の姿が変わる。歪みが調律され、実在が露わになる。

 その姿は、長瀬でも春香でもない、紅の浴衣姿の少年。

 脚が凍った少年は、しばらく横たわったまま気が抜けてしまったように目を泳がせた。

 咲夜が斬り刻んでいた書簡がまだ僅かに風に吹かれていて、


「……へえ」


 梅は呟いた。純粋にその光景を目に映す。


「紙吹雪なんて……ああ、まるで梅の花だ」



 ◇




「ひとまず儂らの出番がなくて良かったの」

「そうですね。お呼び立てしてしもうて、申し訳ありません」


 一連の出来事を見ていた者たちがいた。三途と松江家前当主、松江双葉、そして双葉が統率している退魔師連中。


「あのモノは妖モノであり、妖モノの外にある。本来、術者一人で御しきれるものではないじゃろ。じゃから、三途ちゃん一人が自責の念に駆られる意味はないんじゃ」

「せやけど、」

「今日は幸運じゃったけど、今度はまた封じるのに何日も何週間もかかるかもしれん。でも、そんな時は儂らを呼ぶんじゃよ。そんなところで遠慮してたら守れるものも守れなくなるでな。当主だからこそ、そうすべきなんじゃ」


 今は隠居しているが、双葉もかつてこの地を収めていた当主。そして、その言葉の重さも意味も分からないわけではない。


「そもそも、儂、隠居してばかりではなまってしまうじゃろ。まだまだ現役でありたいんじゃ~!」

「おー! 駄々をこねる先代様、マジぱねえっす!」

「いやあ、まだまだお若い! お嬢にも負けてません!」

「じゃろ! 儂、まだピッチピチなんじゃよ~」


 そして、可愛い子ぶっている双葉はおかしくもあって。三途は上品な所作でフフッと笑う。


「ほんまにありがとうございます、先代様、皆さん」




 ◇




 そして、ここにもすべてを眺めていた者が。


「これは大変なものを見てしまった気がしますね」


 松江邸の客用寝室に連れていかれた藤原が一人おとなしく寝ているはずもなく、物見の術を使用して室内から外の様子を探っていたのであった。


「あの光が差した時の松江三途の慌てようといったら、只事じゃなかったなあ」

「確かに。否定に反魂、時戻りに改変、その他諸々……まるでトンデモ術式博覧会だ」


 一人のはずの部屋で、独り言のはずなのに、声が返る。藤原は布団から跳ね起き、即座に抜刀した。

 ベッドの足元にしゃがんで乗っている、自分と同じ軍服の少年。狐面をしていて、表情が読めない。

 いつの間に。全く接近に気づけなかった。


「な、誰だ?!」

「そんなことはどーでも良いよ、藤原朔少佐。問題はアンタが何でこんなとこで油売ってんのかってことだ」

「な、何でその名前まで知っている!?」

「いちいち質問が多い坊やだ。あんまり知りたがりだと、本当の名前を言ってやっても良いんだぜ?」


 藤原の様子を一瞥した少年は肩を竦めた。


「……脅かして悪かったよ。そんなつもりじゃなかった。ただ、俺はアンタに忠告があって来ただけだからな」

「忠告、だと」

「そう。一先ず、こいつを見てくれ」


 藤原の前に少年の握りこぶしが一つ差し出された。それが目の前で開かれる。

 そこには、何もなかった。何も。

 ただ、何もない掌を見た藤原の体が頽れて、ベッドに伏しただけだった。


「はあ……流石にチョロすぎないか? こんな簡単にノックアウトなんて、国防軍の未来が危ぶまれるぜ」


 少年の溜め息が部屋を満たす。


「まあ、知ったこっちゃないけどな。とにかく、今はまだあの存在について報告されたら困るんだよ。悪い、少佐くん。暫くゆっくり寝ていてくれ。それじゃ」


 短い別れの挨拶を残して、狐面の少年は跡形もなく消えてしまった。


 まるで初めから、そこにいなかったかのように。

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