第十八話 いつかまた、

「私は、あなたに……望みます」


 辺りは暗く、赤く、青かった。


「あなたは、生きて……」


 妖刀少女は声を聞く。


「生きてください」


 もはや伽藍堂にも近い意識の淵の方から、誰かが呼びかけてくる。


「これが、写実師として……私の……」


 伽藍堂を満たそうとするが如く。


「生きて、……あなたはこの先を」




 ◇




 思い出したように吐き出された息は、いささか性急だった。硬い地面に背中が軋む。抉れた石畳と崩れた電信柱の傍らで、咲夜は激しく呼吸を繰り返した。


 痛い。痛い。痛みを感じる。

 動悸が収まらず、胸が苦しい。おまけに涙が溢れて止まらなかった。


 自分は地面に横たわり、辛うじて刀を手に握り締めている。吐息は急くばかりで、埃っぽい空気を否応なく吸って噎せる。


 自身の記憶が確かなら、こうして呼吸をしていることは異常なのだ。

 完膚なきまでに、圧倒的に、咲夜は切り刻まれたはずで。


 それにもう一つ異常なのは、先まで降りていた帳が今や別のものに埋め尽くされているということだった。


 蝶だ。青い蝶が無数に辺りを舞う。

 羽も、そこから落ちる鱗粉も、儚く消え行く寸前のように仄暗く灯っていた。

 天高く、青は続いている。


 蝶を見つめる咲夜の瞳から後から後から雫が落ちる。天に向かう青さに、どうしようもなく胸が締め付けられた。苦しい。赤子のように嗚咽を漏らして泣き叫んでしまいたいくらいに。


「あは、あははあはははは!!!」


 衝動を抑えてどうにか涙を拭い、声のした方を見れば、足元の方に人影が横たわっていた。

 恐らく、この青い蝶たちの仕業だろうが、辺りには紅梅の花が散り、枝葉が千切れている。それに囲まれるようにして、紅の着物を着た少年が地面に伏していた。三上の梅に似た容姿であったが、それに比べればかなり若い。


 そんな彼は笑っていた。身を捩り、身体を震わせて。


 そして、そこに青い蝶が群がっている。梅の身体に次々と口吻を伸ばして、彼から何かを吸っていた。あるものは血を、あるものは皮膚や肉すらも。そしてあるものは、


「やった! やったぞ! なあ、春!! 僕は君と共に!! 君は僕の中にいて、永遠に……あは、あはあはははは!」


 蝶たちは淡く光る。それに連れて、梅の気配は希薄になっていく。


「君と共に在ることが出来て幸せだ! 君を喰らうことが出来てシアワセだ!」


 咲夜は体を捩り、手を伸ばす。体が動かないことがもどかしかった。生まれたての子鹿のように、立ち上がろうともがいてはバランスを保てず崩れ落ちる。涙は流れ続けて、胸は苦しくて。


「やめろ、やめ……」


 それでも、地面を這いずってでも、咲夜は目の前の少年に近づいていく。


「やめてくれ……」


 ただ、やめてほしいと願った。

 自分で喰らってしまった恋人への愛を吐き散らしている梅も、

 その想いの端すら残さないように吸い尽くそうとする蝶も。


 咲夜は少年の手を掴んだ。まだ熱が残っている、ざらついた手を握りしめる。実際には震えるばかりで、力も大して籠っていない。


「あああ、あは、春?」


蝶に埋もれた顔が咲夜に問いかけた。

こうなると、この蝶どもが鬱陶しい。


「散れ……邪魔じゃ」


 蝶は動かない。が、その目が咲夜を捉えたのを、彼女は見逃さなかった。今度は僅かに言葉に力を籠める。


「散れと言っているのが、聞こえなかったか……このたわけ」


 気圧されたように、群がっていた蝶は霧散した。相変わらず、周囲には無数の蝶がいたが、咲夜の邪魔をしてくる様子はない。ただ、二人の様子を監視するようにひらひらと飛び回っていた。


「春、春……」

「私は、春ではない」

「あはは、冗談きついよ」

「……春は、もうおらんのだろう?」


 咲夜の手の中で、梅の手が僅かに動いた。


「嫌だなあ。春はここにいるじゃないか」

「おらんよ。春が本当におるなら、ここでお前の手を握っていたのは私じゃなかったはずじゃ」


 胸の苦しさは続いて涙も止まらないのに、話すうちにどこか心が凪いでいく心地がした。恐らく相手は自分を半ば殺しさえしたはずなのに、結局その相手は目の前で倒れていて、その手からは温かさが滲んでいて。

 そこにいるのは、ただの男の子だった。妖モノの男の子で、ただ少し歪んでしまっただけの。そして、今は駄々を捏ねている。

 咲夜はその傍らに座って、駄々を聞く。


「春はいるよ。いるったらいる。ここにいるんだ。いないはずない。春、春……僕は君を愛している」

「……君とは誰のことじゃ?」

「春のことだよ。当たり前じゃないか」

「春、とは?」

「……春は、春だよ。僕が愛している人のことさ」


 答えるまで一瞬、梅の言葉が止まる。瞳が揺れる。

 そして、言い聞かせるように、


「春は、いるよ」

「じゃあ、何故さっきからそんなに泣いておる?」


 さっきまで蝶に吸い取られていたそれは、今は行き場を失って、ただ流れ出していた。梅自身の言葉や想いと同様に、どこまでも。


「春は、どこにもおらん。お前が彼女と共に在ることを止めてしまったんじゃろうが。もうこうして、手を握ることも叶わん。言葉を交わすことも出来ん。命も魂も、壊れてしまえば戻らない……壊してしまえば、戻らない」


 まして、自ら壊しておいて、そこにいるなどと。そこに在るなどと。そんなことを言って誤魔化してしまっては、自分を誤魔化してしまっては。


 揺らいでいた瞳が一点で止まった。


「……何が分かるんだ、アンタに」


 紅い目には、上空の青い閃きと咲夜の顔が映り込んでいる。

 腫らした目元も、傷だらけの頬も、すべてひっくるめてくしゃりと歪んだ。


「梅、お前、」

……」


 今度は梅が咲夜の手を握り返す。正確には、握り潰すように渾身の力が込められる。

思わず手を引こうとする咲夜だが、びくともしない。


「俺は、彼女を……!!」


瞳の紅が燃えるのを見た。

次の瞬間、梅の身体からまた枝が伸びる。自分で自身を埋め尽くすように、花が狂い咲く。


「くっ……」


避ける間がないと身構えたその一瞬、咲夜はぎゅっと固く目を閉じた。そして、





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