◇断章三 闇の中に花が咲く
「どうして、そないなとこで寝てはるんかな?」
柔らかいような鋭いような言葉尻が耳を打ち、ようやく男は目を覚ました。夜だった。
はて、自分は一体何をしていたのだったか。不思議に思って周囲を見回す。この暗く冷たい路地裏に入って行って、確かその後は……。
慌てて上半身を起こせば、腕組みをしている女と目があった。女は掌の上に橙色の火の玉を浮かべている。白いブラウスに、薄桃色のロングスカート。見覚えのあるその姿に、少しばかり息を吐く。
上品な佇まいにも関わらず、彼女はかなり不機嫌な表情を見せていた。
「……三途さんが直々に足を運ぶなんて、珍しいこともあるんですね……」
「大事はない? まあ、開口一番がそないな台詞なら、心配せんでもよさそうやね」
思えば、大事はあった。
謎の女に襲われ、引き倒され、擦り傷やひっかき傷を負った。その後、首の骨を折られて、男は死んだのだった。
男は自分の体を軽く調べたが、傷は全て治っていた。首もすっかり元に戻っている。首回りをゴキゴキと鳴らしながら、男は三途にあらましを説明した。路地裏に入り込んだら、妙な影みたいなものに行き会って殺された、なんてことを。
「うちもけったいな気配を感じたから来てみたんやけどね……」
歯切れが悪く、男が目を合そうとすると逸らされた。男は嫌な予感がして、一番尋ねたくないことを尋ねてみた。
「……何日経ちましたか?」
三途の方も、彼が訊きづらいことを訊いているというのが分かるので少し躊躇したが、結局ため息を吐いて問いに答えた。
「三日。退魔師連中が手貸してくれはって、先代様のお力を借りて、ついさっきまで。あと、ちょっと遅れて国防軍が来はったけど、追い返しといたわ。何か観測したから調査するだの何だのと言うてたよ」
「……すみません。またご迷惑をおかけしてしまったみたいで」
「相変わらず、殊勝やね。ええよ。あんたが気を付けてどうこうできるもんでもなし、起こってしまったことは仕方ない」
路地裏の向こう、行灯の光が僅かに見えた。慌ただしく何モノか、あるいは何者かが行き来しているようだ。まだ事後処理が終わっていないのだろう。
「せやけど……影いうたっけ。確かに尋常でない気配やったけど、平坂出雲ともあろうもんが、本当にそんなに苦戦したん? 札は持ってはったんやろ?」
持っていた。けど、油断した。それが、男、平坂出雲が死んだ要因だ、と彼自身は考察する。この身の頑丈さゆえ、そして意識の脆さがゆえの油断だった。
「何か難しく考えすぎなような気もするけどなあ」
平坂の言を聞いて、三途は小さく首を傾げた。
「なんなら、もしその頑丈さと脆さが逆だったら、対処できてたって思うん?」
「それはないでしょう」
平坂は即答した。
「いくら意識が頑丈だろうと、身が脆ければ、強い相手には対処できないと思います。こうして身が元に戻ることもないわけですし」
「うん、まあ、正論やね」
さて、と三途は話を仕切り直す。
「出雲君、実はうちも訊きたいことがあるんやけど、ええかな?」
「はい。俺に分かることなら」
「あれなんやけど、」
三途は平坂の背後、路地裏の奥を指で指した。
かなり暗いその闇の中に目を凝らせば、あの全裸の女が被っていた襤褸切れがそのまま落ちていた。それに二人が近づいていくと、黒い布が小さく動いている。
「う、うお、動いてる……」
「何か古典的な驚き方やね」
三途は光を掲げながら、慎重に襤褸切れを捲り上げた。
かくして、それは姿を現した。
「……何ですか、これ?」
数秒間、それを見ていた平坂は真面目な声で三途に問う。
それは、白く、小さく、見たところ柔らかそうだった。
小さな手は握り込まれ、腕の中にはそれと比べればかなり大きい刀が抱えられている。三途は火の玉を灯しているのとは反対の手を、それにかざす。白い糸のようなものが手から伸びて赤子に触れ、すぐに引っ込んだ。
「ヒトの赤子。女の子みたい。生まれてから、まだそう時間は経っていないみたいや。命に名前もない。こっちの刀はよう視えんけど、ただの刀ってわけはないやろな。うちもさっき気づいて……出雲君もこの子の事情は知らんみたいやね」
男はすっかりその姿に目を奪われて、あまり三途の話を聞いてはいなかった。
「もしかして、出雲君、初めて見るん? ヒトの赤子」
「ええ」
三途の光に照らされて、闇の中に浮かぶように存在している存在。光っているわけでもないのに陽のような、月のような様子。あらゆる角度から、男はその子を観察する。
「ヒトはこんなものを作ることができるんですか? すごい」
「うん、せやね。術やら何やら使えんでも、こうして命を生み出すのは、妖モノには真似できへんことやね」
三途は頷いた。しかし、その顔は曇っていた。
「けど、もう命の灯も消えかけてるな。出雲君が言ってた影とやらの呪に侵されてしまったんやろ」
「そんな、どうにかならないのですか?」
「……もう、駄目やろね」
ヒトが作ったこんなに素晴らしいものが、失われる。
ヒトが作ったこんなに素敵なものが、消えてしまう。
男は恐怖した。
あの女に行き会った時よりも、いや、これまで感じたどんな恐怖よりも、これは恐ろしいことだった。自分が殺されてしまった時よりも目の前の赤子が失われてしまう方が辛いだなんて奇妙な話ではあったが、この時の男にとって、それは当然のことだった。
平坂はその小さな胸にそっと指先を触れさせた。それはやはり柔らかく、そしてまだ温かく、辛うじて小さな鼓動を打っていた。まだ、この赤子は息をしている。まだ、この赤子は生きようとしている。
男はそれに応えたいと思った。応えたいと願った。そして、どうすればそれが叶うのか男は理解していた。
小さな鼓動に同調するように自分の中の何かが滾るのを感じた。指先から、それが赤子の中に流れるようにと強く念じる。
「……出雲君?」
黙りこくってしまった男に三途は声をかけた。しかし、もう遅かった。
「出雲君! 何しとるん!」
珍しく慌てた声を上げた三途を、しかし、男は無視した。触れた指先を離すことなく、そこに力を集中させる。
身体を巡っていた熱いもので胸が急速に熱くなる。沸騰するように、湧き上がるように、その存在を主張して。そして頂点に達したそれが、すぐに冷えていく。指先から流れ出るそれは男に急激な喪失感と、虚脱感と、それを追うようにやってくる充足感を与える。
気が遠くなって、眠くなるような……。
「出雲君!!!」
それを三途の声で呼び戻された。
「……ん、ああ、三途さん、どうしました?」
「どうしました、て……」
呆気に取られているらしいその様子を、男は冷めた目で見る。それはどこか遠いことのように思えた。
「あんた、その子に何をしたか分かってはるの!?」
三途は声を震わせた。
なくなっていた指先の感覚が戻ってきた。赤子の鼓動は先よりも力強くなっていた。
「分かっていますよ」
男はどうしてそこまで彼女が怒鳴るのか理解できない、といった様子で、自分がしたことをさらっと言ってのけた。
「この赤子に俺の魂をあげました」
そして、少し目を伏せて、息を吐く。
「ああ、良かった。これでこの子は消えずに済みますね」
◇
魂の譲渡なんて、とんでもないことをしてくれた。
三途は思った。そんなこと、簡単にやって良いことでも、出来ることでもない。
そうして絶句した後、平坂に向けて口を開いたが、気が変わってすぐに閉じた。そして、また熟考した後、色んな気持ちをどうにかこうにか押し込めて、
「出雲君はその赤子、どうするつもりなん?」
と絞るように尋ねた。
「そうですね。少なくとも、流し込んだ魂が定着するまでは俺の傍からあまり離れない方が良いと考えます。そうすると……三途さん、ヒトの赤子はどうやって世話をすれば良いですか?」
必死に考えて尋ねた割に、平坂の答えは何とも間抜けだった。とにかく自分の魂を流し込んで、赤子の命を取り留めたということらしい。一言で言ってしまえば、考えなしということだった。三途は頭を抱えるも、適切な対処を考える。
「そこは、たぶん先代様にご助力願えるはず。何百年間だか、ヒトと暮らしたことはある言うてたし」
「そうですか。なら、問題ありませんね」
無論、問題しかない。それをこの男は分かっていない。
思わず三途は声を上げた。
「出雲君、少し言わしてもらってええかな?」
「はい? 何でしょう?」
「魂が定着するまでって、何年かかるか知っとる?」
「ええ、知っています」
「……私たち妖モノとヒト、共存はできても、同じ時間を過ごすことはできない。分かっとる?」
「分かっています」
「本当に?」
「ええ、まあ」
ええ、まあ、か。答えとしては悪くないが充分ではない、と三途は心中で思う。
男は赤子を抱いていた。二人の言い合いを知ってか知らずか、今はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。気持ちよさそうに生きている。
三途はそこで思考を放棄した。彼女が考えている事は難しく考えたところで、答えの出ない話だ。先代様に尋ねても分からないかもしれない。もう、これから先に答えを見出すしかない問題とも思うのだ。
「三途さん」
「ん?」
「この赤子に名付けをしても良いですか?」
男は尋ねた。三途は頷いた。元々、彼女が許可をするようなことでもない。
平坂出雲は、抱えた命に告げる。呼びかける名前は、もう決まっていた。
そっと壊れないように、消えてしまわないように。
「
こんなに闇の中に夜が咲いたような。夜の空の月、星々のように咲く少女へ送る名前。
腕の中にある命は、小さく儚く、消えてしまいそうだったけれど、重さがあって生きていて。
小さな赤子とそれを抱える男。
そして目に焼き付けて、三途は空を見上げる。
せめて未来を見よう、と女は思った。
この小さな命を持つヒト
そして、魂を失った男
二人に何が待っているのかを見届けよう。
何せ、妖モノである自分には、まだ時間が飽くほどあるだろうから。それこそ、ヒトよりも遥かに長い時間が。
見上げた先で闇は深く、暗い。
けれど、その中で儚い光は確かに咲いている。
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