第十六話 何者とナニモノと
◇
夜の帳が下り、行く先には静寂が横たわる。街灯の淡い橙の光が点々と揺らぐ。
平坂の手を繋いで僅かに先を歩いていた咲夜は、ふと妖刀の鞘に手をかけた。歩みはそのまま、後ろに続く平坂に小声で告げる。
「平坂、何者かがこちらを伺っている。五時方向、酒屋の屋根の上じゃ」
「一人だな」
世の在り方、理が歪んでいる。そこに在ってはならないものがいる。
気配という言葉すら生温いそれを、平坂も感じていた。静かに、しかし着実に、世界に染み渡るこの歪みは、十中八九、学校の梅である。
「下手な尾行じゃ。妖モノを知らんヒトでも気づくかもしれないの」
もう古物店に差し掛かるというところだ。古物店は町はずれにあり、ただでさえ普段から人通りは少ない。周囲にある商店や住宅の明かりも落ちている。街灯の淡い橙の光が揺らぐばかりだ。
「狙いはそいつかの」
咲夜の言葉に平坂は自分の杖に括ってある風呂敷を見た。春子の書簡だ。
「一度は自分で切り刻んだものを、今度は祝の気配を感じて求めているといったところか。正常な判断を求めるのは無理そうだな」
「どうする?」
咲夜に判断を仰がれ、平坂は思考する。
歪みを直す、つまり調律するには、その原因から正す必要がある。迂闊なことをしては歪みが悪化することもあり、慎重を期さなければならない。
「……しかし、まあ、悠長なことは言っていられないか」
「うむ、そうじゃろうと思ったわ」
咲夜の声だけで、平坂には彼女が笑っているのが分かった。顔は見るなと言われたが、もう大丈夫そうだ。
握る手を一度だけきつく握り締め、パッと離す。身を翻して急速に尾行者に迫る咲夜を合図に、平坂は背後から札を投げた。
「【焔】」
札は弾丸のように飛び、火花を散らす。それはやがて拳大の光球となり、少女を追い越した。そして、
「ぐぁぁぁぁあぁああぁつつぅいぃぃぃい熱い熱い熱いあついあついいいいいいいあいい痛痛いたイタいたいいいいぃいぃいいい!!!」
耳を刺すような悲鳴に顔を顰める。
光球を追うように、咲夜は上段から斬りかからんとする。しかし、視界に尾行者を認めた瞬間、刀を抜く判断が遅れた。
「……え?」
炎に巻かれたその姿は、セーラー服姿の少女。灼熱に苦悶する中、その口元だけが見えた。
ニッと歯茎を剝き出しにした獰猛な笑みが。
「咲夜!」
屋根の上に着地する直前で脇腹に強い衝撃を感じ、体は勢いよく吹っ飛ばされた。背中を石畳にしこたま打ち付ける形になり、息が一瞬止まる。
受け身を取る猶予もなかった。体全体が軋み、立ち上がろうとしても上手く力が入らない。数十メートル先、燃え盛る炎は闇に飲まれるように瞬時に消えた。そこに燃えていたものは、夜の中にただゆらりと揺れている。その体には燃え痕一つ見当たらなかった。
「ああ、見つけた」
咲夜が見上げた先で、相手の横顔が見えていた。嬉しそうで、幸せそうな、恍惚とした笑みを浮かべて、平坂の方をじっと見ていた。
◇
平坂は少女を見やる。セーラー服と肌の白が、宵闇に浮かんでいる。少女はスカートの端を摘み上げて、大袈裟なくらい優雅なお辞儀をしてみせた。
「お前は一体何者だ? 春子、じゃないよな」
「違うわよ。私は春香。あ、でも確か、亡くなったひいおばあちゃんの名前が春子だったと聞いたわ。私のひいおばあちゃんを知っているの?」
平坂の言葉にそう答え、自称春香はクスクスと笑ってみせた。おかしくてたまらないとでも言うように、両手で顔を覆って笑いこける。が、次の瞬間にはパッと手を離して、
「……なーんてね。僕は長瀬彰さ。こんにちは、店主さん」
その顔は少年の顔に変わっていた。制服すら詰襟に変わっていて、見紛うことなく長瀬の姿。ふざけた様子でそんなことを言って、相変わらずクスクスと笑う。
目の前の存在が春香でも長瀬でもないのは知れている。 消えた春香、その春香が消えて困惑した様子だった長瀬。いずれをも冒涜する何者か。
「答える気がないならいい。こっちは歪みを正したいだけだ」
「何者かしら? ナニモノかな? 僕は一体何者で、私は一体何者なのかしら? ねえ、貴方なら知っている? 教えてよ」
女生徒がまたひらりとスカートを揺らした。軽快も優雅なワルツのようで、力強くも繊細な歌舞伎踊りのようにも見える。それは隙だらけなようでいて、全く他者の介在を許さないような。すべてを投げ出してしまったかのような。そしてそこに、何もかもを混ぜ込んで、何もかもを台無しにしている。
それは、もはや何者でもナニモノでもない。
平坂は包みを地面に置き、杖を構えた。
「長瀬になってみたり、春香になってみたり……」
「あはは、呆れてる? それとも、怒ってるかな? でもさ、変わらないよ、貴方もさ」
トンと肩を叩かれた。反応する間もなく、距離が詰められている。
「貴方も
平坂は学生帽の下で光る瞳を見た。直後、閃いた光に頬を僅かに切り裂かれる。
気づいた時には女生徒がまた間合いを取っていた。代わりに、咲夜が妖刀を突き出した状態で平坂をきつく睨んでいた。妖刀を構えた腕は痛むのか、迷うように揺れている。
「すまん、平坂。あの馬鹿梅に一発見舞ってやろうと思ったんじゃが、ミスった」
頬にピリピリと僅かな痛みを感じた。妖刀で斬られたのはこれが初めて、という訳ではないが、気分は良いものではない。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ。僕が梅だってどうして分かった?」
長瀬の顔で剥れた梅は、地団太を踏んだ。しかし、問いかけつつも自分でそれを投げる。
「まあ、そんなことどうでも良いか。僕はもう何者でもないんだ。ナニモノでもなかったのよ。それが分かって、苦しくなくなった! だって、ほら、今僕はこんなに清々しい!」
「痴れ者が! そのために女生徒を消し、農園の梅を滅し、世を歪めて……自分以外に害を為す貴様を、私は許さん!!」
咲夜の言葉に梅は高らかに笑ってみせた。少年の声で、少年の声で弾けたようにくるくると回り、弾むように跳ねた。
「あはは、許さなくって良いよ。許されたいなんて思わないしさ! 必要性も感じないよ!!」
そのまま、ステップするように平坂たちの方へと歩み寄ってきて、小首を傾げる。
「それに、害を為したって意味なら君たちもだ。僕は貴方たちのせいでとっても傷ついた。それに私のものを盗んだしさ。だからね、返してちょうだいな」
その少女の小さな掌底が平坂の胸に触れた。と、反応する間もなく、平坂の体は通りを飛び、遥か数百m後方の電信柱に叩きつけられる。それは軋みを上げて、根元から倒れ平坂の上へと落ちていく。
「平坂!」
電信柱の下敷きになるようなことは辛うじてなかったようだが、咲夜の叫びに返事は返って来ない。まるで人形のように体は頽れていた。
「……貴様ぁあああ!!!!」
正直なところ、先のダメージで体は重く、関節は上手く動かない。それでも、咲夜は刀を抜く。目の前で笑うそれは薄気味悪い。心底不快でならない。もはや、それを斬ることしか頭にない。歪みやら恋文やら、そんなことは意識の彼方。
刀を抜いた勢いのまま、袈裟斬りにするが、そこに梅はいなかった。残ったのは紅い花弁だけ。
代わりに後ろから気配を感じ、咲夜は素早く飛び退く。彼女がいた場所には地面に穴が開いて、そこから梅の木が生えていた。学校のものほど大きくはないが、それでも平坂の背ほどはあり、花を咲かせている。その背後で春香が笑う。その手先は梅の枝に変化し、長く伸びていた。足も木の根のように地面を這いつくばっている。瞳も梅の花の色を湛えていた。縦横無尽に枝がしなり、周囲を鞭打つ。恋文の入った包みすら巻き込み、花弁に混じって千切れた白い紙片が無数に巻き上がった。
「ああ、綺麗だわ。綺麗だなあ」
長瀬は左腕の枝を右の枝で折り、咲夜の足元へと放る。蛇のようにその枝先が咲夜の足を捕らえるように伸びすがる。
咲夜は上手いことそれを足で払い、蹴り上げざまに刀で両断した。しかし、やはり切っ先がぶれる。
「くそっ!」
両断した先から枝葉が生え、花を咲かせ、咲夜の足をめがけて飛び掛かる。四方から迫るそれを鞘でいなし、刃で薙ぐ。
キリがない。だが、斬るのを止めれば、その時こそ終わりだ。
とにかく動き回れ。動き回って翻弄しろ。止まるな。止めるな。少しでも。
中空で体を翻し、飛び跳ねるように近づく枝を次から次へと、斬り捨てていく。
梅はしばらくそれを眺めていたが、
「何か、面白くないな。ちょこまかと面倒だし。あっちから片付けようかな」
そう独り言を言うと、弾むように踵を返した。電信柱の下で動かない平坂へとスキップで近づき、自らの腕の枝を振り上げる。
しかし、寸前でそれは遮られた。
夜の闇の中で一際輝く妖刀の紅。受け止めた一撃に、咲夜の体は悲鳴を上げる。
「はあ? 何それ?」
白けたように、梅は動きを止め、少女を見下した。少女の体には先の枝が巻き付いた痕があった。きつく締められ赤くなった腕や脚、首。そしてそこに添えるように刀傷が。
「絡まった枝を自分の体ごと斬るなんて……そこまでして
「悪いが、この男とは浅からぬ縁でな。そう簡単に捨て置くわけにもいかん。助けてやらんと寝覚めが悪い思いをする羽目になるしのう」
「それ、自分を犠牲にしてまでやること?」
震える腕に力を込めて、咲夜は梅の枝を僅かに押し返した。
「……へえ、馬鹿みたいだな、君。他人のことかまってる余裕なんかないくらいボロボロじゃん。僕にはよく分からないや」
その返答に自ずと笑みが零れるのを、咲夜は感じた。何と可笑しいことか。何と馬鹿なことか。
こんな朴念仁で唐変木で痴れ者の馬鹿者の男を守る私の気持ちなど、
「……まあ、確かに。貴様に理解できるはずもなかろうよ」
だって私にも分からぬのだから。この気持ちが、この衝動が、この鼓動が、この思考が、この性分が、今この男を守ろうとする。ただ、それだけなのだから。
咲夜は思う。この痴れ者を守る瞬間は嫌いではない。
妖刀に自分の意志を乗せる時、僅かでも斬られまいと抵抗し、咆哮する自分の命、魂の奔流が嫌いではない。そして確かに、とても馬鹿みたいだと思う。馬鹿みたいだが、それで良いのだ、と。
枝が僅かに揺れたのを、咲夜は見逃さなかった。
今や、春子とも春香とも長瀬ともつかない、少年で少女で、そして樹木の姿をした何者か。それを斬ろうと手に力を籠める。
「ああ、その様子からすると、もしかして、君、」
それでもなお嘲笑う少女の言葉を無視して、咲夜は刀を振り被る。魂を乗せた一撃を浴びせんと、刃は光る。
しかし、その耳に届いてしまった言葉は、
「この写実師のことが好きなの?」
彼女の剣戟を僅かに鈍らせるには、充分過ぎる言葉だった。
◇
あの梅が何事か言っている。咲夜もそれに対して何事か言っている。
平坂に認識出来たのはそれくらいだった。
ああ、この身はなんて脆いんだろうか。どうして意識だけはこうも半端に頑丈なのだろうか。体は動かないが、目の前で繰り広げられる光景は視認できる。
彼の眼前で咲夜が立ち塞がる。
しかし、枝は伸び、花は夜空を裂き、少女の体に全方向から襲い掛かる。彼女はそれをどんな表情で見ているのだろう。
ある枝は突き刺さり、
ある枝は横薙ぎに、
ある枝は割き、
ある枝は抉り、
ある枝は削り、
ある枝は貫き。
そして、目の前で咲夜の胴が両断される。臓腑が散らばり、驚く間もなかったらしい少女の顔が長い髪を巻き込みながら、僅かに傾斜のある道を転がっていく。
それを見た瞬間、平坂は自分の言葉を思い出す。
“魂が消えるのを見られるのも見るのも、あまり良い気分じゃないだろ”
そして、視界が真っ赤に染まった。
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