第十五話 霞立つ春日の里の梅の花
◆
僕は学校に戻ってきた。学校には結界のようなものが張られていた。見た目は普段通りだが、どこか静かで不穏な雰囲気が漂っている。その原因がどうやら自分らしいことは把握している、一応。
自分の本体を見上げる。なるほど僕はかなり歪んでしまったらしい。歪んでいるのに、どこか冷静にそれを考えている自分は一体何なんだろうと思ってしまうけど。
“僕は一体何者で、彼は一体何者だったのだろう?”
三上の梅の問いに対して、どう答えたんだったか。忘れてしまったが、正直、今となっては自分のことなどどうでも良いのだ。
ただ、
“貴方様”
呼ばれたことを思い出す。笑った時の優しい眦を思い出す。手に触れた時のことを思い出す。見つめ合った瞳を思い出す。そして、手紙に書かれていた“貴方様”という素直な字も。
けれど、それらが何なのかは分からない。知らない。
ただ、彼女が春子という名のヒトということは知っていて、彼女のことを考えるたびに身を裂かれるような苦しみのようなものを感じる。それは衝動のようなもので、意識の外から僕をどうしようもなく突き動かす。僕は自分のことなどどうでも良かったが、彼女に“貴方様”と呼ばれる先でありたい。そう思っていたのである。誰なのかも分からない、そのヒトの女に。
彼女は一体誰なのだろうか。
いつまでも苦しいままは我慢ならず、僕は彼女を探した。学校にある本体を置いて行くことを、他の植物たちはあまり良く思っていないようだったが、構わなかった。事情は話していなかったのに、古株の桜はどこか僕に同情的な態度を取っていた。元々妙な奴だったから、端から見たら妙な行動をしているだろう僕に親近感でも覚えていたのかもしれない。
しかし、学校に植えられてから数十年経ったある時、春子探しは意外な展開を迎える。
“春子……?”
“違うわ。私は春香。あ、でも確か、亡くなったひいおばあちゃんの名前が春子だったと聞いたわ。私のひいおばあちゃんを知っているの?”
“うん、まあ”
“変わった人ね。どうして梅の木の上にいるの? 降りてきて一緒に話をしない?”
数年前の春先だ。
記憶にある春子の姿に、とてもよく似た女生徒を見つけた。
そして、僕は春子がヒトの男と家族を作り、幸せに暮らし、そして亡くなったことを知ったのだった。
呆気ないな、と思った。こちらは何年も何年も探し続けていたのに、春子の方はそれを知りもしないで死んだのだ。
僕は馬鹿みたいに笑った。大声を上げて笑った。可笑しくて仕方がなかった。涙が出るほど笑って、涙が枯れるほどに笑った。笑いすぎて息苦しくて、いっそのことそのまま魂もひしゃげて潰れてしまえと思った。
この苦しみの意味すら分からないことが、僕をさらに苦しめた。
彼女は春子と似ていて、とても素直で愛らしい少女だった。春子と違うところと言えば、春香の方が少し垢抜けているというところだった。
“自分の記憶にない記録ね……。不思議だけど、何か秘密のようでワクワクするわ”
“そうか?”
“うん。しかも、それに私のひいおばあちゃんが関わっているなんて……。運命みたい”
“運命か”
“うん。自分のことで分からないことがあるなら、親とか兄弟姉妹に聞いてみるのはどうかしら?”
“でも、僕にはそんなもの”
“じゃあ、貴方に関する記録を調べるのはどうかしら。植樹の時の記録とか残っていると思うわよ”
春香と話をするのは楽しかった。授業のこととか友達とのお喋りのこととか。彼女と話せるのは下校時の僅かな間だけだったが、それでも良かった。
“ねえ、聞いて。私、好きな人ができたのよ”
そして、去年の夏だ。柔らかな眦が異様に印象に残っている。でも、一番はその言葉だ。嬉しそうで、幸せそうで。一片の曇りもないその表情に僕は何も言えなかった。笑いすぎて苦しくなってしまった時よりも苦しく、気が遠くなり、自分を見失いそうになる。
“僕は一体何者で、彼は一体何者だったのだろう?”
いや、きっと僕は初めから、
それがこの時になって自分の首を殊更強く絞めたというだけの話だった。
彼女が好きな人が誰なのかはすぐに分かった。長瀬彰という同級生だ。登下校の時に、春香は長瀬に頻繁に話しかけているようだった。おずおずとした様子で、僕に向けるのとはどこか違う瞳で。長瀬の方も最初は恥じ入るように顔を赤らめたりなんかしているようだった。が、次第に打ち解け始めていて。
春香が僕に話しかける機会は減っていった。僕の苦しみはどんどん大きくなっていく。
学校で彼女たちの様子を目にしてしまうのが嫌で、僕はよく学校から出かけていた。
実を言えば、苦しみを和らげる方法は分かっていた。
だから、外へ出かけてその予行練習を少しずつしていたのだ。
“ねえ、長瀬くん。見ていて”
“ああ、見ているよ”
だから、もうためらわなかった。この時、僕は一番太い枝の上から、その二人を見下ろしていた。
散る梅の下、河西春香は微笑んだ。
まだ少し冷たい風が吹く。紅の下で彼女は回る。翻った短めの黒いスカートの裾が腿の白さをチラリと見せた。踊るようにも見えたその光景を、僕は鮮やかに脳裏に焼き付けた。鮮明に。写真の如く。
そして、突き動かされる衝動のまま、僕は彼女を頭から喰らった。
相変わらず風は冷たいままで、ひたすら梅をもいでいた。しかし花は咲く。枝には次から次へと狂ったように蕾ができて、すぐに花を咲かせた。僕が彼女を喰らうほどに、目まぐるしく鮮やかに綺麗な紅梅が綻ぶ。
咀嚼して飲み込めば、肉が咽喉を伝う感触が。骨が砕かれる音が。彼女が僕のものになっていく。その狂喜が。
“貴方様”
春香は僕を“貴方”と呼んだけれど、何故か思い出すのは春子の声だった。
地面に落ちた血のいくらかは、まるで僕の視界を焼くようで、鮮やかに紅く地面に染みていた。やがて、そこには何もなくなっていた。梅の紅によく似たそれ以外、なかった。
鮮やかな紅の光景を僕の目に焼き付けて、河西春香は僕のものになった。
苦しみの原因が消えたようで、清々しい気分だった。
長瀬彰は僕らを見て、ただ立ち尽くしていた。目の前で起こった出来事を、認識はできていないようだった。そこには表情がなく、呆けて立ち尽くしているだけだった。完全に現実から逃避しているらしい。ヒト風情には、きっと刺激が強すぎる光景だったのだろう。
僕は嬉しくて、幸せで、歪んだ笑いを長瀬に浮かべてみせた。突いて起こしていやると、彼はハッと目を見開き辺りを見回していた。たぶん、春香を探していたのだろう。そして、僕はこの憎い男すらも消してやろうと、彼を飲み込んだ。
苦しむ原因は確かに消えたはずだったのだが、僕は苦しいままだった。体の中をギュッと絞られる感覚がずっとあって、もしかしたら春香が僕の中をつかんででもいるのだろうか、と馬鹿なことを思ってしまう。
“貴方様”
春子の記憶が僕の
そうして、ようやく僕は自分のことを調べるに至った。植樹記録を調べ、三上農園であれに出会った。
それでこの苦しみの意味を知り、解消できると思った。
“僕は一体何者で、彼は一体何者だったのだろう?”
しかし、僕にはこの問と春子の手紙が残されただけだった。手紙は記録と共に破り捨ててしまったけれど、それで苦しみが消えたわけではなかった。
目の前にある苦しみの原因を余さず喰らって余さず捨て去ったのにも関わらず、僕はまだ一人でここにいる。
すっかり満開になった梅の木を僕は見上げた。
鮮やかで綺麗な紅梅が宵闇に灯っている。
◆
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