第十四話 冬来りなば春遠からじ

 平坂と咲夜が松江邸を訪ねてきたのは、夜もかなり更けた時分。

 客間で並んで正座する二人を見ながら、三途は苦笑を浮かべていた。いつも通りの涼しい顔で淡々と仕事の報告していく平坂とそれを死んだ目で見つめる咲夜。死んだ目ながらも咲夜は平坂の報告に適切な注釈を加え、平坂もそれを元に情報を的確に展開していく。何とも凸凹なコンビだが、だからこそ噛み合っている二人とも言える。

 二人と三途の間には植樹記録と書簡が並ぶ。書簡はすべて同じ女性から同じ男性に向けられたもの。どうにか判読した日付によれば、数か月に一度程度送られている。男性を想う女性の真摯な言葉が綴られているそれらは、明らかに恋文だった。


「しかし、恋文なんかがどう歪みに関わっているのか分からなくて。三途さんはどう見ますか?」


 この一言で咲夜の目が更に一段階死んだ。何故二人してわざわざこんな夜更けに訪ねてきたのか分かった気がして、しかしどうしたもんかと三途は書簡の一つを手に取る。


“×××様


 すっかり春めい×、花々が綻ぶ時節とな×まし×。

 ×××様におかれまし×は、いかがお×ごしでしょうか。

 梅の花は散ってし×って、少々侘しい思いをし×おり×す。

 けれど、す×に鮮やかな若葉輝く日々がやっ×くるので××うね。

 今はそれが×ても楽しみでなり×せん。

 貴方様もどうか気を落と×れませんように。

 花々ば×りが梅のみょうという訳で×ないのですから。

 では、どう×息災で。


 いつかまた、あの美しい梅の下でお会いしたく存じます。


 春子より”


「別件ついでの片手間やけど、うちの部下にも今回の歪みは調べさせててなあ。まずもって、この送り主の春子さんいうのは、河西春子。つまり、今回消えた女生徒、河西春香の曾祖母に当たるヒトやね。そして、その宛先は三上農園の梅みたいやね」


 三途は二人の目の前に春子の資料一式を示してきた。その中には写真もあって、袴姿の清楚な老婆が笑みを湛えていた。


「別件?」

「まあ、大したことちゃうよ。今はそれよりもこっち」


 三途が指差したのは先の書簡。


「花の香りがするやろ。それも、すごく濃い」

「ん? 確かにちょっとは匂う気がするが、そんなに濃いかの?」

「ああ、せやね、咲夜ちゃんにはあんまし分からんかもね。けど、出雲君ならどういうことか分かるんやない?」


 平坂は差し出された書簡を受け取り、香りを嗅いだ。確かに梅の香りはする。が、濃いというほどでもない。香りには多少、祝のようなものも含まれているが、恋文ならば相手を祝福するような文言が入っているのだろうし、特別なものということでもないだろう。特筆すべきことはない、ただの近況報告だ。

 それを三途に伝えると、一瞬キョトンとして、その後盛大に笑い始めた。口元を押さえているが、彼女にしては明らかに爆笑の域だった。

 平坂は眉を寄せていた。間違ったことは言っていないはずだ。


「何が可笑しいんですか」

「うふふ、ほんま笑かしてくれるなあ。……、何も間違ってはあらへんよ。確かに出雲君の言う通り、これ自体は“祝の気配がする近況報告”やね」


 けれどそこまでじゃ不十分、と三途は平坂から書簡を取り上げる。平坂はまだ釈然としない顔で、逆に咲夜は彼女の発言に力強く何度も頷いている。三途はそれが愉快でたまらない。

書簡を掲げて、目を閉じる。そうすれば、満開の梅がすぐ目の前に見えるような。


「その僅かな祝の他に、更に濃い祝が込められてる。三上農園の梅の施した何重にも折り重なった深い祝が。送り主と受け取り手の祝いが、ここには満ちている。言葉にするなら、せやね……愛」


今度は平坂が呆気に取られる番だった。黙ってしまった彼に三途は首を横に振る。


「いや、まあ、愛と言うんは違うかも分からへんね。愛という言葉すら、この祝の前じゃ陳腐に過ぎる」


 甘いは香りは濃く、書簡が何年にも渡って繰り返し読まれだことを示していた。一度は破かれ、紙片となってなお、それは変わることはなかったのだ。

 

「ただの近況報告、か。出雲君、本当にそう思うん?」

「そう尋ねるということは、きっと違うのでしょうね」


まだピンと来ていないといった様子の平坂の言葉に続くように、咲夜がぼつんと、


「梅はその書簡を何年も何年もそこに隠し、祝を重ねたんじゃったな。後生大事にしとったんじゃな……」

「せやね」

「互いに互いが大事じゃったんじゃな」

「せやね」

「しかし、ヒトと妖モノが愛し合うなんてそんなことは、」

「ありえへん、なんて言ったら、朴念仁どころの騒ぎじゃなくなるわ、出雲君」


 平坂がすべてを口にする前に、三途は鋭く釘を刺す。


 ヒトと妖モノの長い歴史の中で、互いに互いを“相容れないもの”と断じ争った時代は幾千年も存在する。むしろ、互いに友好的に共存していた時代の方が遥かに少ない。

 しかしそんな血塗られた過去にも、時の流れに逆らい愛し合ったものたちは、確かにいる。そしてその争いがある程度沈静化している今日こんにちもまた、例外ではない。

 長い間、この地域を統べる妖モノとしてそれを見つめてきた三途は、今その目を二人に向けている。そして、世の中の一切を記録する写実師の男に、優しく微笑みかけた。


「日高のところから記録を持ち去ったいう何者かが、それを破棄するのにわざわざ三上の梅の木を選んだいう、そしてわざわざそこにあった書簡まで切り刻んでいった。……さて、時間はあまりないかも分からん。けど、ここはしっかり三上の梅と春子の、精査した方がええよ、出雲君。歪みを正す道はきっとこの先にあるんやから」




 ◇




“×××様


 霜が冬の訪れを告げ、新雪が白さが目に眩しい頃合いと×りました。

 ×××様におかれまし×は、いかが×過ごし×しょうか。

 梅の木も雪を被り、よ×見えなくなってし×いました。

 しかしな×ら、「冬来たりなば春遠からじ」とも申します。

 きっ×貴方様×もお目にかかれる日が来る×信じて×ります。

 では、どう×息災で。


 いつかまた、あの美しい梅の下でお会いしたく存じます。


 春子より”



 平坂によるの精査はそう時間はかからなかった。

 一番傷みが少なかったのが、この書簡。今から四十年前ほどのものだった。三途から提供された情報によれば、春子が亡くなったのもちょうど同時期だという。

 逆に一番傷んでいたものは、約百二十年前。正確に言えば、中等教育学校にあの梅が植えられる少し前から、春子の書簡は送られ続けたことになる。


「どうして春子は何十年もこんな想いを持ち続けていたんじゃろうな」


 咲夜のかすれ声を平坂は背中に聞く。


 “いつかまた、あの美しい梅の下でお会いしたく存じます。”


 恋文の末に必ず添えられていた文。最期の書簡も例外ではなく、それはつまり、何らかの事情でその想いは遂げられなかっただろうということを示していた。


「分からぬ。会えなくて苦しかったじゃろうに。挙句こんな結末で。こんな悲しいことって」


 精査や情報共有を終えて、古物店へと帰る途中だった。古書店が並ぶ石畳の通りを二人は歩いていた。チラつく橙色の光が道々を照らす。店の行灯はまだいくつか灯っている。だが、歩くヒトは疎らで、モノもたまにすれ違うくらいだった。

 後ろから足早についてきていた足音が止まる。平坂は振り返った。

 ちらつく行灯の光に照らされていたのは、まっすぐで綺麗な黒髪。眼鏡の奥で目にいっぱいの涙を浮かべて唇を引き結んでいる少女。


「…………」


 分からぬ。それはこちらの台詞だ、と平坂は思う。

 何十年も想い続ける苦しさも悲しさも。

 何故想い続けていたかも。

 春子にしてもあの梅にしても、何故。

 そもそも、何故ヒトと妖モノで愛し合っていたかなんてことも。


 写実師の自分に分かるのは事実だけで、気持ちやら理由やらはついぞ分からなかった。

 写実師の自分が記録すべきは事実だけで、気持ちやら理由やらを記録する必要性はなかった。

 だから、咲夜がこうして泣いている理由も本当はよく分からない。かけるべき言葉も分からない。分からないことが多過ぎた。


 咲夜は真っ赤な目で睨むように平坂を見上げていた。見上げると言っても、ここ数年で彼女の身長は大分伸びて、今は大分、顔の距離が縮まっている。

 彼女もきっと答えがほしくて疑問を口にしているわけではないのだろう。今、平坂が分かるのはそれくらいだった。


「帰ろう、咲夜」


 ようやく口から出たのはそんな言葉だった。


「酷い顔だ。時間も時間だし、少し休んだ方が良い」


 また馬鹿者だの痴れ者だの朴念仁だの言われるだろうな、と平坂は思ったが、咲夜はしばし鼻をすすった後、


「……ん、帰ろう、平坂」


 そう言って、平坂の手を取った。そして、引っ張るようにしてずいずいと歩き始めた。


「お、おい!」


 予想外の展開に平坂は少しつんのめり、慌てたように呼び止める。

 が、咲夜は止まらなかった。なびく黒髪が先を行く。


「私の顔を見るでないぞ、平坂」

「は? 何でだ? 既に見たが?」

「良いから!! これ以上見るでない!!!」


 繋いだ手の感触は冷たく、刀をいつも握っているはずなのに不思議と華奢だ。

 咲夜がそんなことをした理由はやはり分からないが、特に不快には感じない。だから、平坂はその手を離すことはしなかった。前を歩く少女の背中をただ見つめていた。

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