第十二話 とある追想の後
◇◇
「ふたバア、獲ったあ!」
咲夜が覚えている限り、彼女が初めて斬った命は蝉だ。
幼い時分、杉並木の中を駆け回っていたときに枝切れで刺したのだ。
家に帰って得意げに掲げたそれを見て、当時一緒に暮らしていた老婆は少女の頭を優しく撫でて、掲げたそれを下に降ろさせた。枝を外した亡骸を、向日葵が植わる庭の片隅にひっそり埋めたのだ。
そしてその傍で、この双葉という老婆はこんな話をし始めた。
「良いかい、咲夜。命と魂は違うんだよ」
「どう違う?」
少女はキョトンと首を傾げた。彼女の赤い花柄の浴衣は蝉を埋めた時にかなり汚れてしまっていた。
「本来、命はヒトや生物が持ちしもの、魂は妖モノが持ちしもの。命は未完成で生まれ育むもの、魂は完成して生まれそのまま続くもの」
「じゃ、咲夜、魂の方が良い」
「いや、そうとも言えんよ。命は壊れかけても治すことはできる。じゃが、魂は違う。多少の傷や歪みは癒せても、壊れてしまえば治せない」
「壊れたらどうなる?」
「戻って来ないよ。そこは命も魂もおんなじ」
老婆は誤魔化すことなく、そう言ってみせた。
残念ながら話を全て理解できるほど、少女は歳を重ねてはいなかったがそれでも少女なりに考える。
蝉の命は壊れてしまったから戻って来ないこと。
壊したのは自分であること。
そして、命を壊すのはちょっと綺麗でちょっと怖かったこと。
なるほど。どうやら自分は大変なことをしてしまったらしい。
気落ちした様子の少女の頭を老婆は再び撫でる。
「だからね、咲夜。これからは命や魂も、そこに刻まれた名前も、大切にしてやるんじゃよ。自分も含めて、ね」
「うん、分かった」
そして、老婆の言葉に一つ、疑問が浮かぶ。
「ふたバア、誰が私に咲夜って名前を付けてくれたんじゃろ?」
「儂じゃあないよ」
「じゃあ、誰?」
老婆は首を横に振る。
「お前に刻まれた名前自体が、それを知っているよ。儂が言ってしまうような野暮はせんさ」
「何じゃそれ。分からん」
「今は分からなくて結構。さて、まずは帰って湯浴みをしよう。そしたら、おやつに久々利堂のお饅頭を食べよう」
少女はパッと笑みを浮かべ、老婆の皺くちゃの手を握った。
あれは暑い夏の午後、蝉の鳴き声降りしきる午後のことだった。
◇◇
農園はすっかり暗くなり、街灯の明かりがポツポツと辺りに浮かんでいた。地図によれば“ウサギさんのメルヒェンロード♪”と呼称されているらしい煉瓦造りの小道を男は足早に歩いていた。少女の腕を引き、少女に背中を叩かれながら、半ば彼女を引きずるようにして。
「……」
少女は最初こそ男への非難の言葉を浴びせていたが、男が彼女に一瞥もくれず歩き続けたのでやがて黙ってしまった。もはや叩く力も大したことはなく、男の羽織にゆるく波を立てるばかりになっていた。
小道を半ばまで歩いたところでようやく男と少女、平坂出雲と咲夜は立ち止まった。二人の目の前には街灯の下に薄暗く佇む四人掛けのベンチがあった。
平坂は咲夜のベルトから妖刀を外して置き、彼女を黄色いベンチの端に座らせた。そして、しわのついた羽織を着せると、自分は逆の端に腰かける。ベンチからは微かにあの梅の木が見えていた。
今更ながら、老婆が話してくれた命と魂の話を思い出す。いや、咲夜にとって“思い出す”というのは、この期に及んでは誤魔化しでしかなかった。さっきだって今までだって頭の片隅にそれはあり、しかし、見ないふりをして斬ったり助けようとしたりして。
「寒くないか?」
先に話しかけたのは平坂の方だった。
「……お前こそ」
「平気だ。腕は? 痛くないか?」
咲夜が握られていた方の袖を捲ると、そこには赤く指の痕が付いていた。袖はすぐに戻して、
「……いや、何ともない」
「そうか。じゃあ、少し話をしても?」
平坂は咲夜の方を見やって、しばし言葉を失った。
彼女は項垂れていた。黒髪が横顔を覆い隠している。黒い羽織と空の暗さとも相まって、夜の闇に消えてしまいそうにも見えた。
それでも少女の髪の毛が縦に揺れたのを見て、平坂は話し出す。
「さっきは悪かった」
「……」
「花に隠れて見づらかったが、あの梅の近くで争ったらしい痕跡があった。たぶん、俺たちがここに来る少し前のことだ。あれだけ魂を壊されて崩されてしまえば、どんなに腕の良い医術師でも治すことはできない。あの場で俺たちができたのは話を聞いてやることだけだった。どうあっても、助けることはできなかったよ」
滔々と言葉を発したところで一旦切る。咲夜は黙ったままだ。
「でも、お前はああいう時でも助けようって足掻くんだな。俺はお前みたいにはなかなか出来ないよ。でも、だからこそ、俺はお前のそういうところは素直に好きだ。だから、今回は悪かった」
「……抜かせ、馬鹿」
やっと話したと思いきや、掠れ声の罵倒だった。
「好き、とか。そういう言葉は本当に好きな奴に使え」
「ん? 今使ったろ」
「な……これだからお前は……」
咲夜は言葉を飲み込んだ。それよりも一つ訊いておかねばならなかった。
「それよりも、何で、」
「ん?」
「梅を一人にしたんじゃ?」
どうして梅を一人で逝かせた?
何故、傍にいてやらなかったのかという意味合いがこもっている質問らしかった。
「そうだな……」
平坂は空を仰ぐ。
「魂が消えるのを見られるのも見るのも、あまり良い気分じゃないだろ」
「そういうものなのか?」
平坂は肩をすくめた。少なくとも自分はそうだ。魂や命が目の前で消えるのは見たくはないし、自分もこの生が本当に尽きる瞬間には一人でいたい。
「ふむ、まあ、分かった」
少女は弾みをつけてベンチから立ち上がった。そして、平坂の正面に立つ。眼鏡の奥の目と鼻の頭が少し赤くなっていた。そして、その頭が下がる。
「私もすまなかった、色々と」
浴びせた罵詈雑言も叩いた背中も。
そして、助けられなかった魂も含めて。
すべてをひっくるめて、少し節くれだった手が小さな頭に乗る。
「行こう。まだ俺たちにはやるべきことが残っている」
「うむ」
写実師の言葉に、泣き虫の妖刀少女は強く頷いた。
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