第十一話 今のごと心を常に思へらば

 ◇坂許町東部 卯ノ区◇


 二人が三上農園に到着した時には、空の縁に僅かに深い橙を残すばかりとなっていた。


 中等教育学校は卯ノ区東端に位置していたが、三上農園は西端に位置している。

 学校の歪みの気配は少しずつ広がりを見せ始めていたが、ここ三上農園まではまだ届いていないようである。が、不穏な空気を感じるのも事実だった。卯ノ区中、あるいは坂許町中に歪みの影響が広がるのも時間の問題だろう。

 出入口は白いメルヘンチックな門があり、“☆ただいま開園中☆ 季節の花々をご自由にお楽しみください!!”と丸っこい字で案内が書かれていた。そんなところで着物の男とセーラー服の妖刀少女が並んで立っているのは、とてつもなく場違い感があった。


「あまり広くはないようじゃのう。かと言って、狭いわけでもなし。お前の言う通り、仮にまだ盗人が記録を持ち歩いておるとして……追いかけっこにはちと厄介な場所じゃな」

「いや、持ち歩いているはずだ。そうでないと困る」

「さっきから確信めいた言い様じゃが、どういう根拠じゃ?」

「どんな記録にも価値がある。手放すのはそれに価値がなくなったときだ。俺の欲しかった記録は、今回の歪みに関係するすべての者にとって価値がある」

「ほう?」

「盗人が何者であれ、その記録で歪みに何かしらの影響が出るはずだ。だが、さっき飛ばしてみた式からは何の変化も確認できなかった」

「だから、記録はまだ盗人が持っているとな?」

「その可能性が高いと俺は踏んでいる」


 理由としてはもう一つ。


「後は、まあ、知りたかったことを一度知ったらそれを易々と手放したくないだろ」

「……え、そういうものか?」

「そういうものだ」

「ふむ、感情論とは。お前にしては珍しいな」


 意外そうな表情を浮かべ、咲夜は平坂を見上げる。そして、同じように意外そうな表情をしている平坂と視線が合った。帽子のつばで翳っているその表情が可笑しくて咲夜は小さく笑う。


「どうした?」

「いや? 何でもない。気にするな」


 園内は遊歩道が整備されていて、植物が花壇や区画によって、種類ごとに分かれている。まだ春真っ盛りと言うには少し早く、まだ咲いていない花や整備中の区画も多い。園の傍には植木販売事務所も併設されているようだ。

 少し時期外れ、そして閉園間際に訪れた珍妙な客を訝しんでいた入口守衛に地図を渡され、咲夜と平坂は目的地へと足を運ぶ。案の定、他の客はおらず、園の従業員らしきヒトたちがところどころで作業しているくらいだった。

 辺りを見回す咲夜に、平坂は釘を刺す。


「怪しい奴がいてもすぐに斬るなよ」

「な、そ、そんなことは、あったりまえじゃろ!! すぐに刀抜いたり斬ったりする馬鹿がどこにおるというのじゃ、あははは!!」


 釘を刺しておいて良かった。そう思う平坂であった。



 さて、目的地は農園の中央、噴水広場だった。噴水広場とは名ばかりで、僅かに街灯が立つばかりで、噴水自体はほとんど光を届かない場所にある上に、咲夜の身長を少し越すかというくらい小さく水を噴き上げているだけだ。

 街灯が照らしているのはもっと別のもの。噴水の奥、木製の柵に囲まれた芝生の真ん中にそびえていた梅の巨木だ。

 見上げるばかりのそれは、学校で見た梅など霞んでしまうほど。空を覆わんばかりに張り巡らされた枝は、零れるほどに咲いている花を咲かせて……

 いや、実際に花を零していた。


「平坂、あれはどういうことじゃ?」


 咲夜が平坂の袖を強く引き、静かに尋ねた。

 満開に咲いた花はごと次から次へと地面に落ち、地面に鮮やかな赤を残す。その中に埋もれるように一人の男が倒れていた。その薄い緑の浴衣姿に赤い花はよく映えていた。

 動かない平坂を押し退け、咲夜が血相を変え飛び出す。柵を飛び越え男の側に駆け寄った。


「おい、おい、大丈夫か! しっかりせい!!」


 しばらく男の体を揺さぶっている間に平坂が追いつく。そして、男の意識も、


「……ん」

「おい、起きるのじゃ!」


 男の目が僅かに開く。梅の色合いの瞳が不確かに揺れている。


「……ぁ、え……はる?」

「良かった! 目を覚ましおった!!」

「……ん、あぁ、違う、な。春にしては、元気が、過ぎる……」

「あまり無理して喋るな。この梅の妖モノじゃろ? 本体と言い、お前と言い、とても普通の状態とは言えん。とにかく安静にするのじゃ。何があったかは、落ち着いたらゆっくり聞かせてくれれば良いからの」


 男の冷たい手を握り咲夜は、平坂の方に振り返る。


「恐らく、盗人の仕業じゃろうな」

「十中八九そうだろうな」

「此奴の治療とか薬とか、えっと、どうすれば良い? 普通の医者にかかれんじゃろ?」

「妖モノなら、医術師に……」


 平坂は言いかけて、言葉を切った。倒れた男の顔をまっすぐ見つめて、


「いや、もう彼は駄目だ」


 そう断じる。

 咲夜を優しく押し退けて、男の脇に膝をついた。杖を脇に置いて、男の顔を覗き込む。

 続く口調も穏やかなものだった。


「誰にやられましたか?」

「は……へへ、兄さん……町の、写実、師だね。なぁに、深刻な、顔してんだか、」


 途端、男の体が宙に釣り下がって、梅の花が崩れ落ちた。

 平坂が男の胸倉を掴み上げていた。


「良いから、早く答えて下さい。あんたにはもう悠長にしてる時間はない。分かっているんだろ。もう魂はもたないんだぞ」

「平坂、乱暴は止めろ!」


 制止しようと伸ばされた咲夜の腕もまた、平坂に捕まる。


「平坂! 離せ!!」

「……優しい娘さん、だな」


 空いた方の手で彼女は平坂の背を繰り返し拳で叩いた。その様子を見て、そして平坂の表情を見て男は嘆息する。


 自分もあの娘に詰られたときに、もしかしたらこんな顔をしていたのかもしれない。こんなどうしようもない顔をしていたのかもしれない。


「ぁあ、最近は……知りたがりが、多い、みたいだ。君の問いに、答えよう」


 男は答えた。

 梅が落ちる。

 きっと何もかも落ちて、最後はうろだ。雨も風も日差しもきっと、自分のことを忘れてしまう。


「……でも、には、それで…良いと、伝えてほしい。忘れて、くれと……伝えてほしい」


 忘れた方が楽だから。

 どうか彼もそうであってほしい。そして、願わくは目の前の写実師も。


「分かった……他に何か言いたいことは?」


 男は口を開く。息を吸う。胸が詰まる。体が軋む。

 出来ることなら、伝えたいことがたくさんあったはずなのに。もうそれすら叶わない。

 そして、男は息をゆっくり吐き出した。


「出、来る、ことなら、何も」

「そうか……そうですか。ありがとうございます」


 写実師は男の体を地面に下ろした。そして、後ろ手に掴んだままだった少女の手を強く引く。


「行こう、咲夜」

「嫌じゃ! 何で、何でこの梅を助けない!」

「良いから、」

「平坂!」

「頼むから今は言うことをきいてくれ」

「平坂ぁ!!」


 腕を引かれながらも少女は何かを喚いていたが、男の耳には細かいところまで届かなかった。


 ただ、その後ろ姿の黒髪が散る紅梅の中に歩き去るのを見て、ふと、一人思い出す。


 今からどれだけ前のことだったろうか。記憶の縁にしがみつくそれは確か、紅梅鮮やかな春のこと。



“見て下さい、×××様。こんなにたくさん梅の歌が詠まれていますよ”


「和歌集か。へえ、本当……だ。私の歌がいっぱいだ……」


“ふふ、貴方のというわけではないでしょう。けれど、そうね……”


「……ん?」


“貴方にはこの歌が似合うと思います”


 そう言って、鈴のような声で詠まれたあの歌だけは、どんなに忘れたくても忘れることなど出来なかったのだ。魂にまで深々と根を張って、空まで伸びていくような。


“今のごと心を常に思へらば

 まづ咲く花の地に落ちめやも”


 今のように常に誰かを心に想うならば、春の初めに真っ先に咲くあの梅の花のように貴方の想いも、地に落ちてしまうことはないでしょう。


……


「あぁ……春、」


 視界が歪む。


「春」


 満開の梅が落ちていく。


「はる、」


 次から次へと落ちていく。


「私……は、君に、」


 そして、梅の木から最後の花が溢れた時、言葉の残滓だけを花びらのように残して、男の姿は夜の空気に溶けていった。

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