第九話 梅は食うとも核食うな
◆
夕闇が迫る。僕は歩く。探して探して、ようやく僕は辿り着く。
学生鞄の中にはあの梅の記録がある。僕が欲しかった、手に入れたかった記録だ。春を取り戻すために手に入れた記録。
僕が歩くのは暗く、細い道だ。一寸先は闇。街灯はない。けれど、その先にあるものははっきり分かっていた。
ふいに場所が開け、視線を上げれば、そこには大きな梅の木がある。そして、その一際大きな枝の上に男が座っていた。薄い緑の浴衣を来た、無精髭を生やしている冴えない顔の男だ。どこまでも力を抜いた様子で、僕が睨み上げても朗らかに微笑んでヒラリと手を振り、
「やあ」
なんていう、簡単な挨拶をするだけだった。そして、ひたすら僕を見下ろす。こちらが話し出すのを待っている。無邪気な子供のように目を輝かせて。
ああ、何て腹立たしい。
春が消えてしまったのは、紛れもなくこの梅の男のせいなのに。嫌悪感が腹の底を焼く。そして、ついには喉元を焼き、口から出る。
「お前が、梅か?」
「そうだねえ」
歌うような調子の返答。足をぶらつかせている。
「そんなことよりもっと他に訊くべきことがあるだろう」
憐れむような視線を止めろ。よくも白々しく、そんなツラが出来る。
「春は、どこだ?」
「さてね」
「しらばっくれるな、化け物!!」
僕は妖怪だとか幽霊だとか、そんなものは一切信じちゃいない。いないが、春のことを探すうちに、それを信じざるを得なくなった。梅の木に宿る化け物が、春をどこかへやってしまったのだと結論せざるを得なかった。
現に今、僕の目の前には男の姿をした化け物が嘲笑っている。
「おやまあ、流石に傷付くなあ。けれど、本当に知らないんだ」
「嘘だ!」
「あはは、嘘なもんか。だって彼女がどこにいるか分かっているなら、」
自分の本体を捨ててでも、真っ先にあの娘に会いに行っているよ。
それは例えば、天気の話をしたり昨日の夕飯の話をしたりするのと同じくらい、和やかな口調だった。
頬杖をついて笑みを浮かべる様に僕は心底ゾッとする。
しかし、まるで鏡を見ているかのようだ。
この化け物が捨て身で彼女に会いに行こうとするのと同じように、僕も彼女を取り戻すためにこんな化け物と対峙しているのだ。
「では、今度は私から問うとしよう」
梅の木が日の名残りに照らされ、真っ赤に色づき、花は灯る。
「私は坂許町に根付いて長い。ずっとこの町を余さず視て来た。この町の素晴らしさ、そして歪みすら。今回のことだって、私にとってはそんな長きに渡って目にして来た光景の一つに過ぎない。……いや、過ぎないはずだった」
気軽な口調は変わらない。
「今まで、まあ、色々あってね、私はここ最近極力心を殺して生きて来たから、いつもその景色を眺めては過ぎ去るのを待っていたんだ。でも、今回はそうもいかない」
「何が言いたい?」
「出来ることなら、何も」
軽く笑い、男はとうとう枝から飛び降りた。
地面を踏みしめ、僕の側に歩み寄る。
「しかし、君が来たということはそういうことだ。私は君の答えを訊かなくちゃいけない」
一メートルほどの位置で彼は立ち止まった。ニッといたずらっぽく笑う。
そして、やっと彼の問いを口にした。
「教えてくれ。君は一体何者で、私は一体何者だったのだろう?」
そんな問いに何の意味がある?
良いから、春を返せ。
詰ってやる前に、視界が歪んだ。
天地がひっくり返る。体が揺らぐ。自分が揺らぐ。
「お前は……」
僕が、いや、誰かが彼の問いに答えている。
“×××”
刹那、誰かの声が聞こえた気がしたが、応えることは出来なかった。
応えたい。応えなければ。しかし、思うようにはならない。
自分の意思に反して口角がきつく上がるのを感じたのが最後。
僕の視界は暗転した。
◆
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