◇断章二 魔に呼ばれれば闇の中
かくして、男は路地裏に足を踏み入れた。行灯の明かりは届かない真っ暗闇だ。明かりのあった石畳の通りはどこかまだ温かみがあったのに、ここにはもうそれはない。
この路地裏にも果てはあるはずなのに、その果てを自分で見定めることができないのは何とも気味が悪かった。
それでも、進む。目を眇め、僅か先だけでもと目を凝らす。
ヒトが二人すれ違えるかどうかという狭い路地だ。左右の建物にはまったく人気が感じられない。古い木の匂いばかりが男の鼻を掠めていた。
壁にすがるように進んでいくと、そう奥まで行かないうちにその影に行き会った。行き会った、という言葉が果たして正しいのか男には分からなかったが。
その影は、路地の真ん中にあった。
ただでさえ暗い路地よりも、更に暗い影だった。黒い布のようなもので自らの身を包んでうずくまっている。
何やら身じろぎしながら、何か言葉を発しているようだった。もしかしたら、言葉に聞こえるだけで全く意味のない音の羅列かもしれない。とにかく、その内容まではよく分からなかった。
いずれにせよ、目の前の存在はひたすら異様だった。ただの浮浪者や物乞いというわけではなさそうだ。
男は葛藤していた。
影が気になって路地裏までやっては来たものの、いざこうして相対してみると影に干渉するのは憚られた。むしろ、関わり合いになりたくない思いが大きくなっていく。
得体の知れないモノに対する恐怖心に男は身を震わせた。どうして自分は、今こんな路地裏で凍えて、影を前に竦んで、こんな葛藤をしているのだ。
“何故、俺はこんなところまで進んできてしまったのか”
男は自問する。そして、答えを出す。その答えは口に出したり、脳裏に浮かべたりするまでもなかった。これまでと同じだ。男はいつだって同じ質問を自分にして、いつだって同じ答えを出してきたのだから。
しゃがみこんで、影に手を伸ばす。触れるか触れないかのギリギリまで近づけると、身じろぎしていた影の動きと声が止まった。誰かが近づいてきたということにここでようやく気付いたらしい。
「あの、大丈夫、ですか?」
残念ながら、生来男は会話をするということがあまり得意ではなかった。話せないわけではない。ただ、苦手意識があり、できることなら話したくはなかった。なので、この期に及んで彼が出した声は変に裏返っていた。恐怖心と苦手意識とがないまぜになって吐き出された情けない声。そのあまりの情けなさに男自身も僅かに顔を顰める。
その時、だった。
「……ァ……ヤ」
影から、
「ャル……ン」
腕が伸びてきた。それは一瞬のことで、男には避ける暇も懐の符を出す暇もなかった。蛇のように伸びあがってきて、男の首を絞めつけた。繊細で、柔らかい、しかし暴力的で力のある指が、片手だけで男を捻り殺そうとしていた。
「ぐっ……!」
男は首元が絞められているだけではないことに気づいていた。影に触られたところから焼け爛れるように感じたのだ。頭が破裂しそうに痛く、冷静な思考が奪われそうだ。熱くて冷たい、相反する感触が自分の首に満ちていく中、視界にその姿を認め、目を見開く。
被っていたその襤褸切れを脱ぎ捨て立ち上がったのは、全裸の女だった。
恐らく、以前は相当に美人であったろう、整った容姿の面影が残る。髪を振り乱し、その相貌は赤く光っている。口には鋭い歯があり、だらしなく唾液が垂れていた。体は傷だらけである他、黒々とした呪に染められている。
そこらを飛んでいるヒトガタなどとは比べるまでもない。呪の上に呪を重ね、そこに更に呪を。その身にあったかもしれない祝さえも塗り潰すほど、おぞましい呪がそこに存在していた。
これほどまでおぞましいものを男は知らない。
二本の腕が男の首を絞め続ける中、彼女は呻き声を上げた。途端、背中から何本もの腕が伸び、男の体に触れる。符を出そうともがいていた男の腕さえも、絡めとられ、押し倒された。符が地面に落ちていく。
「や、めろ……」
どうにかこうにか声を出す。正直、こんな説得がここまで呪を重ねたモノに通用するとは思えなかった。
この期に及んでしまったのは、ひとえに男自身の怠慢であった。少なくとも、男はそう思っていた。遠くなる意識の中、今更意味なく自戒する。
通りにある明るい行灯、居酒屋の料理の香り、懐かしい古書店。たぶん、そういったものに自分は気が緩み過ぎていたのだ。
「……ッテヤル…………ヤ……」
声にならない声の中にそんな言葉。首は絞まっていく一方なのに、男の体をまさぐる手は、どこか優しく慈愛に満ちている。
彼女の呻き声さえも、男にも響く。
優しくゆっくり絞め殺される感覚に男は思う。
彼女こそ、まさに影と呼称するに相応しく、そしてとても美しい。
それが、男の死に際。最期の思考だった。
バキッ……ボキン……ゴキッ………
骨が折れ、肉が断裂する音。
「……ッテ………ル…」
そしてそれが終わった時、最後に路地裏に残ったのは、女の声。
「サ……ヤ………」
それに気づく者は、やはりいない。
呪いも怨嗟も死も、すべては闇の中。
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