第三話 その笑みは美しく浮かぶ
◇坂許町北部
青白い三日月の下には、薄い雲があちこちに浮かんでいる。それらを通して、町にも月明かりが届いていた。
その明かりを斬る赤が、一閃。
夜の坂許町を、妖刀を携えた少女が跳ねるように駆けていた。
先の一閃を皮切りに、坂許町の空を赤が繰り返し閃く。三日月のように鋭く、しかしより色濃いそれは、妖刀が刈り取るモノたちの最後の輝きか、あるいは妖刀の刃それ自体が発する光か。
「いずれにせよ、禍々しいことには変わりないゆうのが、うちの感想やけど出雲君は違うんやったかな」
少女を見上げる影が、とある大きな屋敷の縁側に二つ。
一つは、写実師・平坂出雲。
咲夜を連れて今回の出来事、消えた少女の件の報告に来ている。
もう一つは、屋敷の主であり坂許町の管理を担う松江家の当主、
平坂はその脇に控えるようにして正座をしていた。二人の間にあった漆の盆から徳利を手に取ると、三途の持つお猪口に酒を注ぐ。注がれたそれに付けられた唇はしっとりと酒に濡れた。
「今でもあの子に対する考えは、変わらへんのかな?」
「ええ、まあ」
「”ええ、まあ”か……。答えとしては悪うはないけど、充分ではあらへんよね。ま、それは出雲君自身、よう理解しとるとは思うけど」
三途はいたずらっぽい笑みを浮かべて、平坂を横目で見た。見られているのは気づいていたが、平坂はそれを無視して自分の分の酒を注ぐ。
彼女の言葉に思うところがないでもなかったが、今はそれを口にしたい気分ではなかった。
酒の表面に浮かぶ赤が揺れていた。口につけて煽れば、喉元を冷たいような熱いようなものが過ぎていった。
さっきまでの三途のように彼もまた、夜空を見上げる。
ちょうどその頭上には、黒いヒトガタが一つ飛んでいた。月明かりと町の灯りで、闇に紛れ損ねている。
神社などで行われる
ヒトガタは妖モノとしてはかなりの低級だが、数が多いのが難点だ。
しかし、そのヒトガタは急旋回しながら平坂たちの方へ向かおうとして、すぐにその体を宙に散らせることとなった。
背後から音もなく近づいた赤、少女の放つ斬撃によって。
その身は完膚なきまでに切り裂かれる。
ほんの刹那、平坂は体を強張らせ目を見開く。青い月の光を遮ったその姿は、口元に楽しげな笑みを形作っていた。屋敷向かいの瓦屋根を蹴り、独楽のように回りながら手に持った妖刀を振り抜く。次の瞬間には、彼女の周囲に近づいていた他のヒトガタ数体も塵のごとく消えていった。少女もまた次のヒトガタを探して、また別の屋根へと駆けていく。無邪気な子どものような様に、平坂は大きく息を吐いた。
「出雲君ったら。そう緊張せんでも、咲夜ちゃんならあれくらい心配あらへんやろに」
脇に置いておいた杖から引いた手を見て、三途はころころと笑う。細いのに節くれだった平坂の指は、どこか迷子になったかのように曲げ伸ばしされた。確かに三途の指摘の通りで、あれくらいの低級妖モノなら咲夜がてこずることは、まずない。
三途と言い、咲夜と言い、女性はどうも苦手だと、平坂は苦い思いをしながらも、思いを押し殺してどうにか言葉を返す。
「咲夜は平気でも、貴女にもしものことがあっては事ですから」
「気遣ってくれるのは嬉しいんやけどね、その気遣いはうちなんかでなく、この町にこそしてほしかったことなんやけどなあ」
「……」
三途の言葉に平坂は口を噤んだ。空気が変わっていた。
「私が言うてる意味、分からんわけあらへんな、写実師」
彼女の怒りで周囲が冷えていく。三途がゆっくりと平坂の方を向く。見つめられた先から、凍りついていくような悪寒に、平坂は返事をする言葉を持たない。向けられた笑顔は深夜に静寂すら吸ってしまう雪のようだった。何より、目だけは笑顔からは程遠く、悪寒にすべてを削り尽くされるという確信すら抱かせる。
「この町の写しを全て任せているんは、写実師としての出雲君に対する私の信頼の証やったんやけども。そこ、分かってくれてへんかったんかな」
彼女が一体何の話をしようとしているか、分からないほど愚かではないつもりだ。彼女は、自分の写実師としての怠慢を指摘しているのだ。
世の中には様々な歪みが存在する。様々な理由で歪みは生まれる。
世の中を記録・観測する写実師の写しに不備があった場合、またその調律を怠った場合、一部の歪みが全体の歪みへと広がっていく。
世の歪みの原因は、何も写実師だけにあるとも限らない。平坂も、咲夜に色々言われはしたが、実際はこまめに調律を行っていた。普通なら歪みはそうそう生まれない状況にあったはず。しかし、あの生徒の話を聞いたときから、写実師として予感があるのも事実だった。
女生徒が消えたという事実。その原因は恐らく写しの不備、それに伴う世界の歪みが一因としてある。
「うちはあんたの友人のつもりやけど、坂許町の管理者でもある。せやから、妖モノとヒトとの間に結ばれた古い約定を違えるわけにはいかへん。うちにはその責務がある」
妖モノとヒトの間の古い約定とは、こうだ。
“在るべきを侵さず。在るべくして在れ”
互いの存在を侵すことなく、在るべき姿で存在せよ。互いに存在を脅かされたなら、すぐさまその処置・解決に尽力せよ。
その約定がいつから存在していたかは定かではない。しかし、昔も今もその先も恐らく変わらぬ定め《さだめ》。
現在互いの住み分けが進んでいるこの国では、妖モノの存在を認識しているヒト自体が少ない。約定も形骸化している節があるのが現状だ。
しかし、妖モノとヒトとが混在している坂許町では、この約定が特に重要になってくる。
平坂はしばらく思案していたが、弁明するような言葉は最早意味がない自覚はあった。要するに、この期に及んで自分の言葉で出来ることは何もない。
この町を統べる妖モノ、松江三途に対して過ぎた言葉は意味がない。
三途は困ったように笑う。
「さて、どう落とし前つけていこか?」
たおやかで儚げな見た目に相反した、妖モノの姿が平坂には見えた。実際は三途の姿形はヒトと変わらない。むしろ見た目だけで華奢で儚げな様子でさえある。しかし、ただ縁側に座しているだけなのに、少しでも動くことを許さない気迫を纏っていた。
「みーーとーーー!!」
と、空から声が降る。それは、喧しくも綺麗に屋敷の庭先へと着地した。
「……ああ、咲夜ちゃん、ヒトガタ狩りは終わった?」
意外にも女の子らしく、咲夜はスカートを叩き、捲れなどがないか確かめてから平坂と三途の間に座る。お盆は三途の手によって、既に脇に退けられていた。
「うむ、今夜は随分と数が多かったようじゃが、私にかかれば易い仕事よ」
「ほんま流石やね。助かったわ。ありがと」
三途は言った。
咲夜としては、仕事が終わったのでその依頼主のところに戻ってきた、というだけのことなのだが、平坂からすれば命拾いをしたと言っても過言ではなかった。先までの冷たい空気はもうすっかり薄れている。
「せや。少しやけど、これ食べてって」
お盆の上に乗っていた黒い箱を三途は咲夜に差し出した。蓋を開けると、
「こ、これは! あの
「あれだけたくさんのヒトガタ退治と引き換えなのが、出雲君に払った依頼料だけゆうんは割に合わへんやろ?」
「三途ぉお!! ありがとう! 大好きじゃ!」
片目を瞑ってみせた三途に咲夜は思い切り飛びついた。今や鞘に収まっている妖刀は玩具のよう放り投げられる。
「うちも咲夜ちゃんのことは気に入っているんよ。ああ、何なら、出雲君も食べへん?」
「食べないんなら私がもらうぞ!」
品の良い黒い箱の中に並ぶ白い真ん丸。
それを楽しげに勧める妖モノの女。
そして、先の斬り合いも遠慮も忘れて搔っ食らう少女。
やたら和やかな光景に毒気を抜かれてしまった平坂は、
「生憎、お腹いっぱいなんで、遠慮しときます」
苦笑しながらそう言うしかなかった。
◇
「さて、先の出雲君の話やと、梅の木の下で女生徒が真昼間に消えたゆうんやったか。消えた女生徒の名前は河西春香さん。目撃したのは男子生徒一名。名前は
饅頭を頬張り幸せそうな咲夜を挟んで、平坂と三途は事件のあらましと情報の整理を始めた。三途は茶色い革の手帳を取り出して、平坂に確認する。
「はい。件の梅の木があるのは、坂許町の
「咲夜ちゃんも通うとるとこやったね」
咲夜は饅頭を咀嚼しながら頷いた。
「最近学校で変わったことはあらへんかった?」
「うむ、特に覚えはない。私自身は終業式やら卒業式やらの行事が終わってからは、学校に行ってすらおらん。暦の上では春休みじゃし。ただ、部活動やら何やらで出入りする生徒や教職員はおるから、全くの無人ではないはずじゃ」
「この二人の生徒も部活動をしてたゆうことなんかな?」
「どうじゃろ。私は二人と同学年ではあるが、知り合いではない」
三つ目の饅頭を手に取って咲夜は肩をすくめる。咲夜の言葉に平坂は思わず口を挟んだ。
「同学年なのに互いに知らないなんてあり得るのか? 一回くらい顔を合わせているだろ」
「阿呆か、平坂。同学年は知り合いなどというのは、早計にもほどがあろう。一回顔を合わせていたとて、いちいち記憶してられんわ」
「はあ、そういうものなのか……」
ふむふむと頷く平坂。
そんな二人のやりとりを見ていた三途は、
「ここで話していても頭打ちやね」
と言い、手帳を閉じた。
「今晩は歪みの報告とヒトガタ退治をしてくれただけでも感謝するわ。特にヒトガタに関しては最近酷くて本当に困っていたし。咲夜ちゃん、また出たらお願いね」
「もちろんじゃ。三途のためなら力を貸すぞ」
「あら、それは頼もしいなあ」
咲夜はセーラー服の胸をドンと拳で叩いた。
三途のため、と言うよりも、饅頭のためじゃなかろうか、と平坂は思ったが、黙っておいた。
三途は続けて二人に、学校の梅の木の様子を見に行くように言った。
「その梅の木は、中等教育学校の第6期生が卒業した時に植えたもの。時期としては約120年前。話は出来るはずやから、直接話を聞けば色々分かってくるかもしれへんね」
「分かりました」
「ああ、出雲君、学校に行くんなら、符と札は忘れんようにね。歪みの傍では何があるか分からへんし」
そう言って三途は自分でお猪口に酒を注いだ。青白い月がお猪口に灯る。
符と札は、通常は術を使うことができないヒトが、あらゆる術を使う為の道具だ。上手く術を扱えない幼い妖モノたちが使ったり、妖モノが自分の術の強化で使ったりすることもある。写実師にとっても、なくてはならない物だ。
「咲夜ちゃんも出雲君を守ったってね」
「もちろん! 私がいれば百人力じゃ!」
「ふふっ、せやね」
肩を並べて座る少女と女性。仲良さそうなそれを見て、平坂は思う。
たぶん親子だとか姉妹だとかは、こんな感じなのだろうか。
「よし、平坂っ! 早速行くぞ!」
咲夜に呼びかけられて、平坂は思考から浮上する。
「気持ちは分かるが、現場に向かうのは明朝だ。今日はもう店に帰る」
「馬鹿者!! そんな悠長なことやってる間にまた誰か消えでもしたらどうするんじゃ!」
「うーん、今回はうちも出雲くんに一票やわ」
「何じゃ、三途まで……」
咲夜は頬を膨らませ、饅頭を半分に割った。拗ねている。
「急いては事を仕損じる。闇雲に歪みに相対したところで、打つ手はない。順番として、まず、出雲君ところの記録の是正からするんが適当やろね。まあ、せやな……確かにこれ以上被害が及ばんように方策はするべきやけど」
「記録の方は今夜中に。現場にはヒト払いの術を放っておきます。妖モノは歪みを感じて自ら接近を避けるでしょうから、これで被害は防げます」
咲夜は眼鏡をいじりながら、饅頭をゴクリと飲み込んだ。まだ不服そうではあったが、
「なるほどのう」
「随分と聞き分けが良いな」
「馬鹿にするでない。状況を理解し納得した。あとは、明日に備えるのみよ」
妖刀に手を添え、咲夜は不敵な笑みを浮かべていた。
こうして見ると、彼女はまるで夜に艶めく月のようであり、同時に世を暖かく照らす陽光のようにも平坂には思えたのだった。
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