第一話 女生徒は紅梅に消える
河西春香が消えたのは、つい先頃のこと。春になったばかりで、まだ冬の空気感が肌寒さとして辛うじて残っていた。
僕らの学校の校門近くには、桜の花よりはだいぶ濃い紅色の梅の花が咲いていた。それは第何期かは忘れたが、卒業記念樹だか何だかの樹でそれなりに立派なものである。生徒は皆、いつもこの梅の花を見、そしていつか巣立っていく。
僕と春は、それを眺めていた。
僕も彼女もよく若者が遊ぶような都市部の騒々しさよりも、風景をぼんやり見るとか、隣り合った席で本を読むなんていった静かな時間が好きだった。そもそも都市部はこの町からは遠すぎる。
地面に落ちた花を細い指先で拾い上げ、自分の髪に当てた春は、掛け値なしにとても綺麗だった。余計な手を入れていない真っ直ぐな黒髪、同じような色合いのセーラー服に花の鮮やかさがよく映えていて、彼女を引き立てる。
美しい、なんて口に出して言える質でもなし、ただ笑顔で彼女を見やる。
「ねえ、長瀬くん。見ていて」
「ああ、見ているよ」
散る梅の下、河西春香は微笑んだ。
まだ少し冷たい風が吹く。紅の下で彼女は回る。翻った短めの黒いスカートの裾が腿の白さをチラリと見せた。踊るようにも見えたその光景を、僕は鮮やかに脳裏に焼き付けた。鮮明に。写真の如く。
そして、彼女は消えた。
相変わらず風は冷たいままで、ひたすら梅をもいでいた。地面に落ちた花のいくらかは、かつて誰かが踏み締めたのか、どす黒く地面に染みていた。つまり、そこには何もなくなっていた。黒く溜まった泥のようなそれ以外、なかった。
鮮やかな紅の光景を僕の目に焼き付けて、彼女は何の前触れもなく、忽然と消えたのである。
◆
僕は茫然としていた。
彼女は花のように綺麗で儚くて、いつもどこか憂いを含む瞳で僕を見上げていた。
僕の頬に触れて、そっと唇をなぞる指。
夜のように深い黒髪。
そして、頬を染めながら浮かべる、花のような笑顔。
今となっては、そのすべてを感じることがもう叶わないのだと分かるまでに、かなりの時間がかかった。
風に靡いて散る花に紛れるように小さく、たった一つの名前を絞り出すまでに、かなりの時間がかかった。
「春……」
ああ、きっと僕は初めて出会ったあの時から、彼女のことを愛していた。
ただそれだけを理解するまでに、かなりの時間がかかってしまった。
◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます