第二話「小さな世界の小さな竜」
「……ヴラム。ヴラム・シエル!」
叫びと共に飛んできた黒板消しが、狙い違わず命中し、石灰の粉が周囲に撒き散らされる。鋭い衝撃に、微睡みに任せていた彼の意識は即座に覚醒した。
「いってぇな先生。人がせっかく気持ちよく寝ていたってのに」
教室の一番後ろの席。他の生徒たちの視線を集めながら、眠気の抜けない動きで顔を起こす少年。
浅く焼けた肌と白銀の髪。そして
側頭部。両耳の上に、決して大きくはないが、確かな存在感を放つ角が生えていた。また、首には髪と同じ色の鱗が覗いている。
竜族。大陸においてヒトが勢力を広げてもなお、畏敬の対象とされる種族。少年−−ヴラム−−がその血を持つことは明らかだった。が、
「それは悪かった。だが今は授業中で、君の本分は勉学だ」
教壇の上で白衣を翻し”先生”が説教を始めようとする。
「勉強だったら母さんが教えてくれるからいいだろ」
ヴラムと呼ばれた少年はそれを察し、文句を垂れる。
「ほう。君のお母さんは『学校の方が多くのことを学べるから』と僕に君を預けてくれたが、君はお母さんに直接学ぶ方がいいと」
「少なくとも母さんは体罰しないからな」
「なるほど。ちなみに僕が参考までに聞いた話では、君のお母さんの”教育”はガルーダへの対処の実践かららしいが」
「学校の方がいいですごめんなさいジェイド先生」
ガルーダの名を聞いた途端に平謝りするヴラム。
ガルーダとは神話の時代から竜の天敵として知られる鳥である。今では原種でもない限り竜と互角か少し劣るくらいの力らしいが、彼の母であればその原種を相手にさせるだろう。
一連のやり取りを見て周囲の生徒が笑う。見慣れた光景ではあるが、仮にも竜族であるヴラムがヒト族であるジェイドに下されるのは、面白いのだろう。
当のヴラムは全く面白くなさそうに鼻を鳴らして角を掻く。
「さて、脱線してしまった。授業に戻ろう」
再び白衣を翻し、黒板に向き直るジェイド。それを確認した瞬間、ヴラムは足元の黒板消しをシュートした。真っ直ぐにジェイドの後頭部へ飛ぶ黒板消し。
しかしジェイドは左手を後ろに伸ばし、正確に黒板消しを掴んだ。これで五十敗。舌打ちと共にヴラムはカウントを増やした。当然そんなことは歯牙にもかけず、授業は再開される。
「――僕たちが暮らしているのは大陸の西端、このリセイム公国だ。その中でもこの村は北端に位置する」
黒板に描いた簡単な大陸の地図を示しながらジェイドは話す。今は地理と簡単な歴史、そして世界情勢の話をしていた。
「さっきも言ったが、大陸内で現在最も大きな国は中央を支配するヴァテリア帝国だ。次にその東に位置する商業国家・セントガリア。そしてその次が、リセイムも含む小国の集まり、諸国連合」
地図を真ん中、右、左と示しながらジェイドは説明を一区切りする。視線で質問は? と教室を見渡す。すると一人の男の子が手を挙げた。
「せんせー! 大陸の外はどうなってるんですか?」
「少し先はこの村のような小さな群島があったり、無人島がある。けれどセントガリアの冒険者たちはこの大陸と同じくらいの陸地を見つけたとも聞いている。地図は全部セントガリアが独占しているから、噂程度だがね」
男の子の質問に答えながら、今度は大陸の外側に小さな点と薄い線で島や大陸を描き加える。それを見て質問した男の子を始めとして、幼い生徒たちは皆目を輝かせた。
「さて、話を戻そう。今はこの三大勢力が互いに睨み合っていることで、何とか平和が保たれている」
むしろ今注意するべきは、と前置きしてからジェイドは大陸の西側を大きく丸で囲んだ。
「諸国連合だ。小国が大国に攻め入られないように作られたこれだが、最近は内側で小競り合いが起きているとも聞く。特にリセイムは西端とはいえ、岩塩とエーテルライトの産出量が多いから、狙われるかもしれない」
塩やエーテルライトは生活に必須の物である。特にエーテルライトはヒトが術式を安定して使うために必要であり、日常生活はもちろん、軍の装備などにも使われている。
「せんせー、じゃあせんそーになるんですか?」
先とは違う男の子が手を挙げながら訊く。確か彼の父親は村の自警団に所属していたな、と思い出しながらジェイドは応じる。
「いや、今すぐ戦争になることはない。だけど、万が一のために、皆には勉強をしてほしいんだ。知識は経験と結びついて知恵になり、知恵は力になるからね」
そのためにも真面目に話を聴いてほしいものだ、とジェイドはヴラムに視線を向けた。そこには退屈そうに爪を研いでいる不良生徒がいた。否、冒険者のくだりでは耳を傾けていたが、話が本筋に戻った瞬間ああなったのだ。少々斜に構えているところがあるが、根は年相応なのだ。 そう思うとジェイドの口の端は自然と上がっていた。
そしてそれとほとんど同じタイミングで、正午を報せる鐘が建物全体に鳴り響いた。元々この学校は鐘楼を中心に増改築をしたものなのだ。すぐに慣れることだが、時が刻まれる度に音に囲まれ、包まれる感覚を味わえる。
「――と、もうお昼か。今日はここまでにしよう」
気を付けて帰るように、と念を押してからジェイドは片づけに取り掛かる。生徒たちも各々帰り支度を始める。手際のいい者は駆け足で扉を潜りながら挨拶をしてくる。小さな村である以上、それぞれの家の手伝いがあるのだ。
ジェイドは帰っていく子供たちに挨拶をしながら、しかし一人を呼び止めた。
「ヴラム、待ちなさい」
「何だよ先生、お説教はさっきで終わりだろ?」
「先生としての説教は確かにさっきので終わりだ。今からは親の一人としての説教だよ」
露骨に憎まれ口を叩くヴラムに、眉一つ動かさずジェイドは話を続ける。”親”の言葉が出た途端に彼の表情はさらに苦いものなったが、それも気にしない。
「昨日、アルトと下層に行ったそうだね?」
アルトとは、ここの村長の次男である。時期村長の座は兄が確実であるため、本人はかなり好き勝手にしている。ヴラムとは同い年で何かと馬が合うため、二人で周りの大人を困らせているのだ。
そして”下層”とは。その名の通り島の地下のことである。大陸や島は多層構造になっており、下に行くほど土地が狭くなり、危険な生物が棲んでいる。これは深層の方が純度の高いエーテルライトが多いため、その影響を獣たちが受けるからだと考えられている。
「いくら竜族だろうと、危険なことに変わりはない。そもそも、君はまだ竜というより少し力が強く身体が丈夫なだけのヒトだ」
「母さんが治めているここら一帯でそんな危険な獣なんてそうそう出ないだろ」
理論的に危険を諭すジェイドに、あくまでヴラムは口を尖らせるだけである。
「それはレィに直接聞いたのかい? 少なくとも僕は彼女から聞いた覚えはないが」
盲目的な母への信頼から来た言葉だというのは分かり切っていた。ゆえにそれも理論的にジェイドは潰す。
「……そもそも何で俺だけ呼びつけたんだよ。アルトも同じだろ」
反論できなくなったヴラムは、論点をすり替えようとした。
「最初に言っただろう? ”親として”の説教だ。アルトへの注意は村長に任せているよ」
苦し紛れの逃げ道も、あっさりと潰される。ヴラムはもはや黙りこくるしかなかった。俯き、肩を落とす少年に、さしものジェイドも言い過ぎたかと思った。
「……怪我がなかったのは良かった。これからは行かないように。約束できるなら、今度街に一緒に行こう」
最後の言葉に、ヴラムは勢いよく顔を上げた。目を輝かせ、先とは打って変わった様子である。
「本当か!? 隣の村とかじゃないよな!?」
「ああ、本当だよ。ただ、ちゃんと大人しくできるなら、だ」
「できるできる! するする! いつ行くんだジェイド!?」
あまりに分かりやすい喜びように、ジェイドは少年の身体に千切れそうなくらいに振り回される翼と尻尾を幻視した。
「そうだな……、週末に行こうか。薬の補充をするタイミングがそこだからね」
「週末だな!? 分かった!」
言うなりヴラムは教室を飛び出していった。喉を鳴らし、遠吠えのような叫びを上げながら駆けて行く。
「すぐに約束を破りそうな勢いだなぁ……」
喉元過ぎれば何とやら、と今度は村人の視線を集めながら走っていく少年に苦笑いを禁じ得ないジェイドであった。
そしてヴラムは、そのままの足で村長の家に向かった。そろそろアルトの方も説教が終わっている頃だろう。いや、自分より悪知恵が働くアルトのことだ。もしかするととっくに切り抜けているかも知れない。
村長の家は沿岸沿いの丘の上にある。緩やかな坂道を駆け上がり、葡萄畑の間を抜けていく。坂の頂きに着いた瞬間、他の家より一回り大きな家が視界に入る。
ヴラムは上がった息を一度整え、玄関前に視線をやった。するとそこには予想通りの人影があった。手作りの木刀を振り回している。
「アルト!」
ヴラムが呼びかけるとその人影――アルト――は木刀を振る手を止めて、振り向いた。
「やあヴラム。思ってたのと真逆の機嫌の良さじゃないか」
声は明るく丁寧に、しかし表情は決して明るくない。揺れる小麦の穂ような金髪、声色と同じように柔和な顔立ち。背はヴラムより低いが、身体つきは負けず劣らず。
問題児の割に態度がいいのは、騎士に憧れているからである。本や吟遊詩人の語る冒険譚の英雄になりたいと思い、話し方や剣の扱いから学んでいるのだ。
「そういうお前は機嫌が悪いな、アルト?」
「そりゃそうさ。父さんからのお説教が予想以上に長くてね。前回の件以外のことにまで飛び火してたのさ」
そっちもじゃないのか、と恨みがましそうに睨んでくるアルト。
「ああ。説教されてたのはこっちもなんだけど、ジェイドがしばらく大人しくできるなら街に連れて行ってくれるって約束してくれたんだ!」
喜びを全く隠すことなく、ヴラムはそのことを話した。
「なるほど、流石ジェイド先生だ。アメとムチの使い方が上手い」
「なぁ、アルトも一緒に行こうぜ。俺からジェイドに頼んでみるから」
興奮冷めやらぬ様子でヴラムは親友を誘った。しかしアルトは少し考えこんでから、首を横に振った。
「いや、僕は遠慮しておく。万が一今日のことがバレると君が行けなくなるからね」
「今日のことって、お前叱られてすぐなのに何かする気かよ?」
誰かに聞かれるといけないからと、二人は歩きながら話すことにした。
「叱られてすぐだからこそ、だよ。表面上だろうと、反省している僕らが今すぐに何かするとは多くの大人は思わないだろう」
喉が渇いたな、とアルトは懐から木の実を取り出し腰のナイフで二つに割り、片方をヴラムに寄越した。受け取り、黄色い果肉を齧る。甘さは強いが、食感が砂の塊のようである。一瞬渋い表情を浮かべてから、ヴラムは言葉を返した。
「それでも、下層の入り口には人を置いてると思うぜ? どうやって入るんだよ」
少なくともここ数日は誰も立ち入れないように見張りを置くだろう。深夜に行けば見張りもいないかもしれないが、そうなると家をどう抜け出すかが問題になる。
「お前はともかく、俺は離島暮らしだし」
ヴラムの暮らしている家は、村から少し離れた島にある。学校に行く時などはいつもジェイドや父の小型艇に乗っているのだ。
「まあ待ちなよ。確かに入り口は見張られているだろうけど、入り口は何も一つとは限らないんだ」
得意げに語るアルト。しかしそれを聞いてヴラムは首を傾げた。
「いや、入り口が他にもあるなんて聞いたことないぜ? それにあったとしたら他の誰かがとっくに見つけているだろ」
「そうだね。だから入り口を新しく”作る”のさ」
話しているうちに二人は村外れの川に着いていた。村の主な水源は井戸があるのだが、こちらを利用する村人もいる。ただ、周囲は木々が茂り、下層ほど危険ではないにしろ、獣に出くわすこともあるため、魚を獲るついでに、といった程度の利用率だ。
「下層にも水はある。だったら川や水源から流れ込んでいっていると思ってね。調べてみるとやっぱり空気の抜け道があったんだ」
アルトの指示に従って、ヴラムは湿らせた指先を石の間に差し込んでみた。するとそこからは確かに小さな冷気――空気の流れを感じた。
「じゃあ、ここを掘っていけば……」
「場所は違えど冒険の続きができるって寸法さ」
二人は顔を合わせて笑った。自分たちだけが知る抜け道。地図は無くとも、確かにそれは冒険の一節だった。
「というわけで、掘るの手伝ってね。力が強いこと以外で竜って証明できないんだから、君」
「ジェイドにも言われたけど、いつになったら翼や尻尾生えるんだろうな……」
生まれた時は完全に竜の姿だったらしいのに、と愚痴をこぼすヴラム。それを聞いて、アルトも彼の角と喉を見やる。
「生活している群れの姿に近づく、だっけ? 独り立ちしたらきっと竜になるさ」
「そうだといいけどなー」
そうして互いに肩を叩き、時に茶化し合いながら、二人の小さな竜と騎士は穴を掘り進めていくのだった。
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