【旅立ち】3

「足はすっかり治ったようだな。よかった」

 デメテルは、麗華の右足を見て言った。実際この数日でほぼ治癒していたのが、栄養を十分摂取出来たことで完全に回復したのだった。

 少女は、しばらく呆然と相手の顔を見上げていた。

「……デメテルさん」

「横、いいかな?」

 女神は少女の真横に腰かけた。夕日を見る格好である。

 金髪の女神の横顔を見ながら、麗華は言葉を絞り出した。

「どうして?」

「私の任務は、君の監視だから」

 そこで、デメテルも麗華の方を向いた。

 二つの視線が交わり合う。

「……」

「けれど、今は。

今だけは、もういなくなってしまったドナの代わりにここに座る事にする。"デメテル"としてじゃなく」

「……デメテル、さん……」

「麗華。これからいう事はあくまでも私の想像だ。"ドナならこう答えるだろう"と思う事を言う。

……という事にしておいてくれ」

「……どうして。どうしてなんですか」

「だって、私は、君が大好きだから」

「……そんな」

「正直、あの"死んじゃえ"は堪えた。まさに殺し文句だ」

「それは……だって、デメテルさんが」

 そこで女神は人差し指を伸ばすと、そっと麗華の口を押えた。

「今は、ドナだよ。今だけは」

「……ドナが。あなたが嘘をついたんじゃないですか?」

「酷いな。騙したのは認めるけれど、嘘は一言もついてないぞ」

「そんなことは……あっ」

 麗華は思い出した。確かに、目の前の女神は一言も嘘を言ったことはなかった。ミスリードを誘う事は何度もあったが。

「分かってもらえてうれしい。

私は、私に許される範囲で君に誠実でありたい。そう思ってた。だから君があの島で目覚めた時、嘘だけは絶対につかないって決めたんだ」

「……ドナ」

「麗華。君がブリュンヒルデの中から目を覚まして、本当にうれしかった。信じて貰えないかもしれないが、でも嘘じゃない。

 私は五十四年前、あのベッドで出会った時から、ブリュンヒルデを墓標に見立てていた。もう死んでしまった君の。でもそうじゃなかった。目の前で生き返ってくれた。

 この半月、本当に楽しかった。七十年生きてきて初めてかもしれない、というほど充実していたよ。君と一緒にいる事ができて。

 だから、せめて楽しいまま、全てを終わらせたかった。君に絶望してほしくなかったから。この先同じような機会がいつ訪れるかなんてわからない。ひょっとしたら永遠に訪れないかもしれない。だから」

「ドナ。……あなた、心が」

「私は眷属だ。それは間違いない。神々に心を支配され、何一つ、それこそこの世で最も大切な友達を守ってあげる事すらできないんだから。

けれど、私の心は塗りつぶされたわけじゃない。"デメテル"には罪はないよ。私の頭の中に入っている神格は、ブリュンヒルデとは違う。こいつには人間の肉体を乗っ取る機能はない。私に課せられた思考制御は、私の脳に直接焼き込まれている。私の意志を服従させるものだから」

「……ドナ」

「これは"ドナ"としての遺言になる。そして君へのお願いでもある。

頼む。私を殺して、そして、生き延びてくれ」

「……無理だよ。ドナ。巨神のない今の私じゃ、あなたに勝てないよ……」

「分かっている。無理を承知で、それでも頼む。じゃないと、私はもう一度君を連れ帰ってしまう。君が再び、ブリュンヒルデにされてしまう。こんな気持ちのまま、この先何十年、いや、ひょっとしたら何百年、何千年も生かされ続けなきゃいけない。その方が地獄だ」

「……分かった。何とかやってみる」

「ありがとう。その言葉だけで救われる」

 そして二人は立ち上がった。

 麗華はサバイバルキットからナタのように大型のナイフを。

 デメテルは、虚空から戟を取り出し、十歩ほどの距離を置いて離れた。

「―――始めよう」

 金髪の女神が宣言すると同時。

 麗華は、刃を首に当てた。へと。

 あまりに予想外の出来事。それゆえ、女神の反応は一瞬遅れた。

 首が飛んだ。空高く。首環を離れて。

 巨神の制御を阻害する信号が届かぬほどに。

 虚空から出現した霧が実体化し、小屋ほどもある巨大な拳を形成。それは、力一杯にデメテルを殴り飛ばす。

 血が噴出しつつ倒れる胴体から首環が転がり落ちた。

 そこへ、赤い霧がまとわりつく。首の断面にも。出血が止まる。

 実体化した流体に運ばれ、二つは繋がり、最後に固定された。

 神経系がバイパスされる。血管の一つ一つが再接合される。それは流体によって仮止めされたに過ぎないが、神格の驚異的な再生力によって早くも癒合が始まっていた。

 完全な回復には数日の時間を要するであろうが。

 殴り飛ばされたデメテルは、木に叩きつけられ、そして動けなくなっていた。ダメージそのものは深刻ではなかったが、動けるようになるまでしばらくかかりそうだった。彼女の命を奪うには、それで十分のはずだ。

「……君は、相変わらずやると決めたら無茶だな」

「うん……」

 麗華は立ち上がるとナイフを手に、今は女神となった親友の元へ歩み寄った。止めを刺すためだった。

 女神の瞳は、まっすぐ少女を見上げていた。最期の一瞬まで、友の姿を焼きつけるために。

 ナイフが振り下ろされた。

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